(45)求む!鮫尾帆白取り扱い説明書:9
これまで私への悪口で騒がしかった周囲が、水を打ったようにシンと静まり返った。
そのくらい、先輩の声に迫力があったということだ。
そして、私の後ろにいる女子へ向ける先輩の視線は、よく切れる刀のような鋭さがある。
美形の無表情は怖いと言うけれど、今の先輩は、まさにそれだった。
周囲の誰もが口を開くことなく、車両内には重苦しい空気が漂っていた。
私は怒りを含んだ先輩の低い声と、切れそうなほど鋭い視線に驚いたけれど、先輩が放った言葉の内容にも驚く。
――え? バッグの角が当たった?
通学バッグは学校によって違いがあり、スポーツバッグのような柔らかい生地の物もあれば、昔ながらの革製学生鞄もある。
話の感じから、硬い学生鞄の角が先輩の腕に当たったのだろう。
――うわぁ、それじゃ痛かったよね。
単にぶつかったのではなく、その人が倒れた際の体重も鞄の角にかかったのなら、痛くて当然だ。
――先輩の腕、痣になってないといいんだけど。
心配しながら、ふと気付いた。
――たしか、先輩は『わざわざバッグの角を当ててきた』って言ったよね?
背後のことは私には見えなかったけれど、先輩なら見えたということらしい。
内容からして、その女子は私の背中にバッグの角を押し付けるつもりだったようだ。
それを先輩が察知して、私を庇ってくれたという訳だ。
自分の身を挺して私を守ってくれたことに、先輩に対して感謝と申し訳なさがこみ上げる。
同時に、先輩と付き合っていくことの大変さを、まざまざと感じることになった。
――この先、電車に乗るたびにこんなことが起きるの?
能天気な私でも、さすがに怖くなる。
悪口を耳にした時のように、苦笑いを浮かべる余裕がない。
目の奥がジンと熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなった。
だけど、ここで泣くのは嫌だ。先輩に、心配をかけたくない。
それと、私に危害を加えようとした人は、私が泣くことで、かえって「ざまぁみろ」って思うだろう。
そう考えると、絶対に泣きたくない。
なのに、ジワジワと涙が滲んでくる。
私は下唇を噛みしめ、必死に堪えた。
その時、先輩が静かな声で私に囁きかけてくる。
「チコ、キスしていい?」
なぜ、そのセリフがこのタイミングで発せられるのか理解できず、私は素っ頓狂な声を上げた。
「ほわぁっ!?」
私の声をかわきりに、静まり返っていた周囲がふたたびざわつき始める。
そのざわつきが耳に入ると、自分が大きな声を出してしまったこと、なにより、先輩がとんでもない発言をしたことに、ブワッと恥ずかしさがこみ上げてきた。
「せ、先輩、なんで、今、そんなことを……」
「下唇をギュッと噛んでるチコが、すごく可愛かったから」
――この人の目、絶対におかしい。
私が半ば呆れていると、背後で人が動く気配がした。
きっと、私にバッグの角をぶつけようとしていた女子が、この隙に離れようとしているのだろう。
私のことはいいとしても、顔を歪めるくらい痛い思いをした先輩には、ちゃんと謝ってもらわなくては。
しかし、私が振り返るよりも早く、先輩がその女子に声をかける。
「俺の妻に危害を加えようとしたこと、絶対に許さない」
先輩の声は、さっき以上の威圧感があった。
またしても周囲は凍り付くものの、私だけは火が出るほど顔が熱くなる。
――先輩、ホントなにを言ってんの!?
「まだ、妻じゃないです!」
私がとっさにいい返した言葉に、先輩がフッと目を細めた。
「まだってことは、いずれそうなるってこと?」
殺人光線を放っていた視線は和らぎ、表情には穏やかさが戻っていた。
そのことに安心するものの、それ以上に、先輩のぶっ飛んだ発言のせいで心臓がバクバクしているし、おでこには変な汗がにじんでいる。
「い、いえ、それは、その……、言葉のアヤといいますか……」
モゴモゴと言い淀んでいたら、電車が駅に着いた。
チラッと視線を上げた先輩は、私に視線を戻して口を開く。
「チコ、行くよ」
言われたものの、私は戸惑ってしまう。私の家の最寄り駅は、ここから三つ先なのだ。
「先輩? ここ、降りる駅じゃないですって」
私の言葉に構わず、先輩は固まっている女子たちをかき分けて扉へと向かった。
電車から降りる直前、先輩がクルッと振り返って車内の女子たちに言い放つ。
「俺の大事なチコが泣いたりするようなことがあったら、絶対に、絶対に許さない」
改めて告げられた言葉に、女子たちはさらに表情を強張らせている。
そんな女子たちを一瞥した先輩は、本当に電車を降りてしまった。
私の手を引いて、先輩が改札口へと向かう。
「あ、あの……、この駅に、用があるんですか?」
私は半歩先を行く背中に声をかけた。
すると、先輩は肩越しに振り返り、口角を僅かに上げる。
「用はない」
「じゃあ、なんで電車を降りたんですか?」
キョトンとする私の様子に、先輩はまた口角を上げた。
「気分転換」
「……え?」
その時、ちょうど改札口に差し掛かった。
手を放した先輩が先に出てしまったので、思わず私もついていく。
「気分転換って……」
パスケースをかざして改札口を出ると、先輩がふたたび私と手を繋いで歩き出す。
「あのまま、電車に乗っているのが嫌だったから」
ボソリと呟かれた言葉に、私はコクンと頷く。
「まぁ、雰囲気は悪かったですよね」
「悪かったなんて、そんな可愛いものじゃない。最低最悪の状況だった」
「そうですよね。……って、先輩、腕は大丈夫ですか?」
私は先輩のケガが気になって声をかけるものの、先輩は「俺は平気」と返してくる。
「俺の腕より、チコの心のほうが、何倍も痛かったと思う」
その言葉に、胸の奥がフワッと温かくなって、同時にくすぐったくなった。
――先輩って、やっぱり優しい。
照れくさくてなにも言えなくなっていると、小さな公園に差し掛かったところで、先輩が足を止める。
そして、私に向き直った。
「今思い出しても、泣きそうなチコは可愛かった。だから、キスしていい?」
「……だから、の意味が分かりません」
せっかくの感動が、先輩の宇宙人的思考回路な発言のせいで台無しである。
顔を引きつらせている私を見て、先輩が首を傾げた。
「キスしたいくらい、チコが可愛かった。だから、いい?」
言い直されても、納得できるものではない。
「駄目に、決まってますよ!」
「どうして?」
「ここが外で、人目があるからです!」
「誰も見てない」
「先輩、自分のかっこよさを理解してないんですか?」
先輩ファンの女子たちではなくても、女性なら、思わず振り返ってしまうくらいに、先輩はかっこいいのだ。
こちらに向かって歩いてきた人たちは、必ずと言っていいほどいったん立ち止まり、先輩を見ている。
足を止めない人でも、二度見していた。
この状況で、キスなんてできる訳がない。
そもそも、ほんの一時間ほど前に付き合い始めた私たちには、まだまだ早い。
しかし、先輩の宇宙人的思考回路は、私の説得を受け入れてくれなかった。
「チコ、見られていると思うから、気になるんだ」
「いえ、実際に見られていますし」
「それを、気にしなければいい」
「は?」
「ほら、よく言うだろ」
「なにをですか?」
「心頭滅却すれば、火もまた涼しって。つまり、気の持ちようってこと」
「いやいやいや! それは、絶対に違いますって!」
――この人、ホント扱いに困るんですけど!
その後もなんとかキスをしようとあれこれ言ってくる先輩だったけど、私は断固拒否の姿勢を貫いたのだった。




