(44)求む!鮫尾帆白取り扱い説明書:9
私が先輩の扱いに悩んでいたら、ホームに電車が入ってくるというアナウンスが流れる。
その頃にはさらに人が増えていて、けっこうな混雑となっていた。
駅周辺にはいくつもの高校があるので、朝と夕方のラッシュは免れない。チビの私にとって、毎回苦労させられている状況だ。
――まぁ、先輩がそばにいるから、吊革とか手すりを使わなくてもいいのは助かるよね。
これだけたくさんの人が乗り込むと、私の手が届く範囲の吊革や手すりは、先に取られてしまいがちだ。
この路線はカーブが多いので、どこかに捕まっていないとヒヤリとする。
だけど、この前、先輩と一緒に帰った時、常に先輩は私を支えてくれていた。
おかげで、大きく倒れそうになったり、勢いよく人にぶつかることもなかった。おそらく今日も、先輩は私の支えとなってくれるはず。
ホームに入ってきた電車の扉が開くと、流れるように人が乗り込んでいった。
その流れに乗って車両に乗り込むと、案の定、私はどこにも捕まることができなかった。
周りの人からやや押され気味ではあるものの、先輩がすぐそばにいてくれるので、なんだか心強い。
「今日は、混んでいますね」
他校の生徒の帰宅も重なっているので、仕方がないことだと思う。
それにしても、普段ならここまで混んだことはなかった。
――そういえば、先輩と一緒に帰った時も、同じくらい混んでいたっけ。
あの日も、たまたま帰る時間が皆とかち合ってしまったからだろうと、私は特に気にしていなかった。
私の言葉に、向かい合わせに立っている先輩が僅かに苦笑する。
「チコ、平気?」
こちらを心配している様子に、私はコクンと頷き返す。
「はい、大丈夫です」
そう返すものの、段々と周りから押されるようになり、私は首を傾げた。
さりげなく辺りに視線を向けたら、その原因に気付いた。
――先輩ファンの女子たちが、この車両に乗り込んでいるんだ。
他校の女子たちが鮫尾先輩を目にすることができるのは、朝と帰りだけ。
それもあって、隣の車両にいた女子たちも、先輩の姿を見つけて、移動してきた可能性がある。
そして、少しでも先輩の近くに寄りたいと、女子たちが私たちを取り囲むように押し寄せているのだ。
とはいえ、今さら車両を変えることはできない。身動きが取れないくらい、この辺りに女子たちが密集していた。
たとえ車両を変えたとしても、女子たちがゾロゾロと私たちの後をついてくるだろうから、結局、車両は混み合うことになる。
――先輩がモテるのは分かっているけど、ちょっと窮屈だなぁ。
私は心の中でコッソリとため息を零した。
それでも、電車に乗っているのは何時間もかかる訳ではない。なんとか、我慢できる。
そう思った矢先に、電車がカーブに差し掛かって大きく揺れた。
「わぁっ」
私は声を上げ、前にガクンとつんのめる。
周りの人たちもバランスを崩し、私の背中に圧し掛かってきた。
後ろから押されたせいで、私の顔が先輩の胸部分に埋まる。
「ご、ごめんなさい」
私はすぐに顔を上げ、先輩に謝った。
すると、先輩は僅かに目を細める。
「危ないから、もっとくっついて」
そう言って、繋いでいる手をクイッと引っ張った。
色々と恥ずかしいけれど、先輩にくっついているほうが、明かに安全である。
こんなにも揺れる電車の中で、先輩はどこにも捕まっていないのに、その体勢は安定していた。
「先輩、バランスをとるのが上手ですね」
話しかけると、先輩の目がさらに細くなる。
「小さい頃から、父が操縦する小型の船にしょっちゅう乗っていたんだ。だから、揺れても平気なのかも」
「あ、そっか。先輩の名前、ヨットが好きなお父さんが付けてくれたんですよね」
噂で聞いたことを口にすると、コクンと小さな頷きが返ってきた。
「変わった名前だけど、まぁ、悪くないかな」
苦笑を浮かべる先輩に、私はソッと首を横に振って見せる。
「すごく素敵ですよ。白い帆って、爽やかじゃないですか。それに、珍しいから、すぐに覚えますし」
鮫尾も珍しい苗字だけど、帆白はさらに珍しいと思う。
だからこそ、一度聞いたら忘れない。
私の言葉に、先輩は苦笑を深める。
「じゃ、名前で呼んで」
「……え?」
キョトンとする私に、先輩が改めて言う。
「俺の名前、知っているなら呼んで」
いきなりそんなことをお願いされ、私の顔がカァッと熱を持った。
「いえ、でも、あの……、先輩の名前を呼ぶのは、まだ早いかと……」
モゴモゴと口ごもる私の様子に、先輩が軽く首を傾げる。
「早いって、どういうこと?」
「どうって、それは……、え、えっと……、だから……」
さらにしどろもどろになっている私に、先輩がサラリと爆弾を投下した。
「チコ、俺たちは恋人同士だよ。お互い、名前を呼び合うものでしょ」
その言葉が放たれた瞬間、周囲の空気がヒヤリと冷たくなった気がした。
とたんに、これまでささやかだったヒソヒソ声が、一気に大きくなる。
「あの、チビが鮫尾さんの彼女!?」
「嘘でしょ!」
「ドッキリにしては、タチが悪過ぎ!」
「ありえないんだけど!」
「ぜんぜん釣り合ってないし!」
これまで聞こえるか聞こえないか程度の音量だったから内容が分からなかったのだが、これははっきりと私の耳に届いた。
――そんなに言わなくたっていいのになぁ。
私はヘヘッと苦笑いを浮かべる。気にしていないと、先輩に伝えるために。
ところが、先輩の表情からは、これまでの微笑みがすっかり消え去っていた。
はじめの頃によく目にしていた完全な無表情で、先輩がゆっくりと周囲を窺っている。
――さっき、相手が女性でも容赦しないって言っていたけど、まさかね。
いくらなんでも、ここで喧嘩になったりしないだろう。
せいぜい、暗殺者視線で、周囲を威嚇する程度に違いない。
そんなことを考えていた時、電車が大きく揺れた。
私はさっきと同じように顔面から先輩に突っ込む。
大して高くもない鼻がべシャリと潰れた瞬間、繋いでいた手が解かれ、先輩は片腕で私を抱き込んだ。
その瞬間、先輩が顔をしかめる。
あまり表情を変えることのない先輩にしては、珍しいことだ。
今の揺れで、なにかがぶつかったのかもしれない。
心配になった私が声をかけようと顔を上げたら、先輩の顔が怖いくらいに無表情になっていたのが見えた。
――な、なに?
こんな顔、これまでに見たことがなかった。
ただ、表情がないというのではなく、視線の鋭さには怒りを感じる。
声をかけようかどうしようかと迷っていたら、私の後ろにいる誰かが謝ってきた。
「ご、ごめんなさい! さっきの揺れで、私のバッグが当たったみたいで!」
口調から、女子だと分かる。
どうやら、先輩の腕にバッグが当たったせいで、顔をしかめたようだ。
――相当痛かったってことだよね。大丈夫かな?
私が口を開くよりも先に、先輩がその女子に向かって感情を含まない声で言い返す。
「わざわざバッグの角を当ててきたことが、本当に偶然か?」
低く響くその声は、ビクリと肩が跳ねるほどの威圧感があった。




