(40)求む!鮫尾帆白取り扱い説明書:5
それ以降、締め技を食らうことはなかった。まったく、ヤレヤレである。
このままここにいたら、ふたたび羞恥地獄に突き落とされてしまいそうなので、さっさと帰ったほうがいいだろう。
そう思った私は、ベンチの端に置いていた通学バッグへと手を伸ばす。
……が、そのバッグに手が触れるよりも早く、先輩が私のバッグを持った。
「なに、してるんですか?」
「彼氏の役目」
ついさっきまで長々と話していたのに、先輩はいつものように短いセンテンスしか発しない。
おかげで、すぐにはなんのことか理解できなかった。
「はい?」
キョトンとする私に、先輩は切れ長の目を少しだけ細める。
「持つのは、彼氏の役目」
どうやら、重たいバッグを代わりに持ってくれると言いたいらしい。
「い、いえ、自分で持ちます。これまで、行きも帰りも持っていましたし。それに、この前、先輩が私の家に来た時も、持ってもらわなかったですよ」
言いながら私が自分のバッグに手を伸ばすと、先輩はスイッと遠ざけてしまった。
「あの日は緊張して、そういうことが頭から抜けていた」
「先輩も緊張することがあるんですねぇ。それより、バッグを返してください」
さりげなく相槌を打ちつつ、ふたたび自分のバッグへと手を伸す。
しかし、またしても届かない。
おまけに、先輩は手を後ろに回してしまった。
「返してくださいよ」
「嫌だ」
「なんで、嫌なんですか」
「俺はチコの彼氏だから」
「彼氏だからって、バッグを持つ必要はないですって」
私はバッグを取り返そうと、先輩の後ろに回る。
そんな私に取られまいと、先輩がヒラリと身をかわした。
「返してください。一年生のバッグは重いから、持ってもらうのは悪いです」
「重いから、俺が持つ」
「このくらい、大丈夫ですって」
「チコの可愛い手には、負担だよ」
私は必死になって手を伸ばすけれど、先輩は闘牛士のようにヒラリヒラリと華麗に身をかわしている。
そのうち、私はゼイゼイと呼吸が苦しくなってきた。
先輩はその場を中心として回るようにしているからほとんど動くことはないけれど、私は先輩の持つバッグに振り回され、動いている量がかなり多いのだ。
「か、返し、て……」
ヨレヨレになった私は、とうとう足がもつれてしまった。
踏ん張ろうとしても力が入らないので、グラリと大きく体が傾ぐ。
「うひぃ!」
間抜けな叫び声を揚げ、私は地面にダイビング。
するはずが、先輩が素早く私の正面に回り込んだ。
勢いよくつんのめった私を、先輩は余裕で受け止める。
ほっそりしているように見えるけれど、先輩の腕も胸も逞しい。
「チコ、大丈夫?」
――もう、誰のせいだと思って!
文句を言ってやろうとして、私はキッと睨み上げた。
ところが、ものすごく心配そうにしている先輩の表情を見て、出かかった文句がヒュッと後戻りした。
「だ、大丈夫です……」
私は視線を伏せ、モゴモゴと返事をする。
「足は挫いてない?」
コクンと頷き返したら、先輩が私の髪に頬擦りをした。
その仕草も、背中をポンポンと叩いてくる手も、すごく優しい。
照れくさくて、でも嬉しくて、私は大人しくされるままになっていた。
……ということもなく、先輩が後ろ手に持っている私のバッグへと、静かに手を回す。
ところが、それに気付いた先輩が、私に届かないようにバッグを素早く遠ざける。
「なんで、返してくれないんですか!」
プウッと頬を膨らませたら、先輩は私の背中に回している腕にグッと力を込めた。
「怒ってるチコ、可愛い。顔、まん丸だ」
「まん丸って、馬鹿にしていますか? そりゃ、シュッとした先輩に比べたら、超絶丸顔ですけどね!」
そんな私の言葉を聞いて、先輩は僅かに目を見開く。
「馬鹿にする? なんで? チコはこんなに可愛いのに?」
心底分からないと言った感じで、先輩は大きく首を傾げた。
その様子に毒気を抜かれ、怒りよりも恥ずかしさが増す。
「……ですから、可愛くないですって」
照れたり、怒ったり、また照れたりと、私の表情筋と心臓は休まる暇がない。
――まったく、私が心臓マヒで倒れたら、どうしてくれるんだ!?
照れ隠しにプウッと頬を膨らませようとしたところで、私はハッと我に返る。
また「まん丸で可愛い」と言われたら、心臓にますます負担がかかるだろう。
私は慌てて頬から空気を抜き、フイッと顔をそむける。
それでも結局、先輩には可愛いと言われてしまったのだった。
バッグを取り返すことを諦めた私は、今度こそ帰ろうとした。
「もう、行きましょう」
ため息まじりに苦笑を浮かべると、先輩が左手で私の右頬を覆う。
「チコ、好きだよ」
触れられている頬が、ブワッと熱を持った。
「な、なんですか、いきなり……」
「言いたくなったから。チコ、大好き」
相変わらず、先輩の思考回路は謎過ぎる。
――嬉しいけど、なんか疲れるよ。
ストレートな愛情表現に慣れていない私は、思わず素っ気ない態度を取ってしまいそうになった。
だけどここで無視してしまったら、私がなにか言うまで、永遠に先輩から想いを告げられそうな気がする。
私は小さく息を呑み、コクンと頷いた。
「はい」
――先輩の想いは、ちゃんと聞こえましたよ。
見間違いがないように大きく頷き、そしてはっきりと返事をした。
どうしようもないほどに顔が火照って倒れそうだけど、これで先輩も納得するだろう。
ところが、先輩が眉根を寄せて少し不機嫌になる。
「違う、『はい』じゃない」
「……え?」
「チコも、言って」
先輩は自分と同じように「好き」と言ってほしいようだ。それは、恋愛初心者の私にはハードルが高すぎる。
こんな至近距離で見つめ合ったまま、「好き」なんて言えるはずがないのだ。
「え、えっと……」
モニュモニュと唇を動かす私に、先輩は軽く首を傾げる。
「さっきは言えたよね。『好きです、大好きです』って」
「……さ、さっきは、その……、勢いで」
半ば脅迫されて言わされたようなものだ。
しどろもどろになる私の鼻先を、先輩の左親指がトンとタップする。
「なら、同じ状況になったら、言える?」
「そ、それは……」
視線をウロウロと彷徨わせていたら、先輩がとんでもないことを口にした。
「じゃ、キスする」
「なんでですか!?」
すかさず突っ込むと、先輩は真面目な顔で言い返してくる。
「好きを反対から読んだら、キスになるから」
頭のいい人は、なんで妙な理屈をこねてくるのだろうか。
「先輩、なんの、冗談……」
ヒクヒクと頬を引きつらせている私に、先輩が切れ長の目を嬉しそうに細め、ゆっくりと顔を近付けてくる。
――ほ、本気なの!?
今ここでキスをされたら、私の心臓は確実にマヒを起こす。
「せ、先輩、好きでしゅ!」
必死過ぎて声が裏返ってしまい、かなり間抜けな告白である。
それでも、ちゃんと好きだと言ったので、許してもらえるはずだ。
なのに、先輩は少しがっかりしたようにため息を零す。
「キスをするチャンスだったのに……」
間違いなく本気だった先輩の様子に、どうにか阻止できたことを盛大に安堵した私だった。




