(4)先輩は意味不明
一連の動きに唖然としていると、先輩が紙パックを左の人差し指で突っついた。
スラリと長い指で、爪の形も綺麗。
顔もスタイルもいい上に、指先まで整っているなんて、不公平にもほどがある。私なんて、顔もスタイルも微妙な上に、爪は真ん丸で赤ちゃんみたいな手なのに。
先輩の手に思わず見惚れていると、その指がまたパックを突っつく。
「飲んで」
「え? あ、はい。い、いただきます」
我に返ると、私はストローに口を付ける。
チュー、ゴクン。
ジー……
チュー、ゴクン。
ジー……
チュー、ゴクン。
ジー……
擬音だらけでお届けしてごめんなさい。
ちなみに、「チュー、ゴクン」は私がイチゴ牛乳を吸い上げて、飲み込んでいる音。「ジー……」は、鮫尾先輩がそんな私をものすごい勢いでガン見している状況を表しています。
ジュースを飲んでいる私が無言なのは仕方ないとして、どうして、先輩まで無言なのだろうか。
いや、ペラペラ話しかけられたところで、一刻も早くジュースを飲み終えて立ち去りたい私としては困るだけだが。
――それにしても、見すぎ……
なにが面白いのか、鮫尾先輩は隣に座る私の顔を飽きもせずに覗き込んでいた。
――気にしたら負けだ。無視、無視!
なにと勝負しているのか分からないが、とにかく負ける気がする。
大好きなイチゴ牛乳なのに、ちっとも味わえないのは非常に残念だ。
しかし、この状況から逃げ出すことが、最優先事項なのだ。
私は紙パックを空にすることに集中した。
チュー、ゴクン。
ジー……
チュー、ゴクン。
ジー……
チュー、ズゴゴゴッ、ゴクン。
――よし、飲み終わった!
「ごちそうさまでした! では、失礼します!」
私は空になった紙パックを握り締め、バッと立ち上がった。
ところが、完全に立ち上がる前に、繋がれたままの手が思いきり引っ張られる。
「うわぁっ」
左斜め下に体が傾き、あっという間にベンチに逆戻り。おまけに、先輩にぶつかってしまった。
私の左肩が先輩の胸に当たり、ドンという鈍い音が響く。
「ご、ご、ごめんなさい!」
むしろ無理やり引き戻されたことを謝ってほしいのだが、小市民の私の口からは、瞬発的に謝罪が飛び出した。
それと同時に引っ張られたせいで先輩の右太ももに乗り上げた状態であることに気付き、心臓も飛び出した。
「す、すぐに退きますから!」
ふたたび立ち上がるが、さっきと同じように左手が引っ張られる。
正確には『さっきと同じ』ではなく、さっき以上の力で引っ張られた。
おまけに左斜め下ではなく左に引っ張られため、その勢いで今度は完全に先輩の両太ももの上に着地してしまった。
――ひぃぃぃ! な、な、な、なに、これ!?
心の中で絶叫する。
私が先輩の太ももに完全に乗り上げた瞬間、左手が解放された。そして、気が付いた時には前を向いて座らされていた。
先輩も前を向いて座っているので、先輩と私の二段重ねができあがってしまったのである。
さらには、私がこの状況を理解する前に、先輩が腕を回してきた。
私のお腹の前で、先輩が手を組む。回された腕はなぜかかなり緩くて、私の体にはほとんど触れていなかった。
ちんまりとした私が、長身の先輩にすっぽりと包まれている。包まれているというより、これは囲まれているというべきか。
抱擁ではなく、包囲網だ。逃げられる気配が一切ない。
――ど、どういうこと!?
「せ、せ、先輩! あの、これは、一体……」
振り向くのは怖いので、前を向いたまま小さい体をさらに小さくして、背後の先輩に声を掛けた。
すると、珍しいことにクスッと笑う音が聞こえる。
「抱っこ」
「だ、抱っこ!?」
「うん、抱っこ」
そう言って、先輩がまた小さく笑った。
――これが抱っこ!? っていうか、なんで抱っこ!?
ああ、もう、訳が分からない。今すぐ、ここから離れたい。
「先輩! 重いですよね!? 今、退きますから!」
軽く腰を浮かせた瞬間、お腹に回されている手にキュッと力が入った。
そのせいで、私の背中が先輩の胸にもたれる状態に。
「ひぃぃぃぃっ!」
あまりのことに、さっきは心の中に留めた絶叫が、今度は口から飛び出す。
全身を硬直させていると、私の頭に先輩の顎が乗っかった。
そして、「駄目」と、短い声が降ってくる。
「え?」
「駄目」
たぶん、立ち上がることが駄目だと言いたいのだろう。
しかし、ここに留まる理由がない。
「だ、だって、私、ジュース、飲み終えた。もう、行って、いい?」
なんで、私は片言でしゃべっているのだろうか。それだけパニックに陥っているのだと、是非とも察してほしい。
先輩に預けている背中に、ダラダラと冷や汗が流れる。
すると、頭の上からため息が降ってきた。
「飲み終えても、俺と一緒にいて」
その声がすごく切ないものに聞こえて、恐怖とは違う意味でちょっとだけドキッとしてしまった。
それから十分経っても、私は先輩の膝の上にいた。
後ろを振り返る勇気がないまま、ひたすら前を向いている。
イチゴ牛乳は飲み終えてしまい、かといって先輩と会話が弾むわけでもなく。弾むもなにも、お互い無言である。
ただひたすら先輩の膝に乗っているこの状況は、精神的な限界が近い。
「あ、あの、私、そろそろ帰り……」
「まだ」
最後まで言い切る前に、先輩が一言放つ。
そして、さらに五分後。
「もう、この辺で……」
「まだ」
またしても、一言で断ち切られてしまう。
私は心の中でため息を零した。
先輩はなにがしたいのだろう。私を抱っこ(?)して、なにが楽しいのだろうか。
あぁ、困った。本当に困った。
こんな異常事態に陥ると、お兄ちゃんからのメールが恋しいとさえ思えてしまう。
心配性のお兄ちゃんは、一日に何度もメールを送ってくる。ひどい時は、一時間おきだ。
嫌われているよりはいいかと思うが、愛情の押し売りは迷惑にしかならない。
『真知子が俺と違う高校に通うなんて、心配でたまらない! ああ、真知子。どうしてお前は、俺と同じ高校を受験してくれなかったんだ!』
私がこの高校に合格した日。兄は号泣しながら、そうのたまった。
しかし、兄が通っている高校は男子校である。この私に男子校へ通えというのか、馬鹿アニキめ。心配性が拗れて、頭のおかしな人になり下がってしまったらしい。
漫画の世界では、やむにやまれぬ事情で男装した女の子が男子校に通うという話があるけれど、そんなこと、どう考えても無理があると思う。
絶対的権力者の理事長が協力してくれない限り、無理のある設定だ。
それに、この私がいくら男装したところで、モロバレだろう。ちんちくりんな私では、どう頑張っても男子生徒になれない。登校一日目で、さらし者決定の未来しか見えないのだ。
まぁ、我が家にはやむにやまれぬ事情が存在しないため、私は第一希望の県立高校に入学できたのだが。
なにはともあれ、普段は鬱陶しいと思うけれど、この場を離れる口実になるならば、是非ともメールを受信したい。
――お兄ちゃん。いつも邪険にしてごめんなさい。謝るから、今すぐメールしてきてー!
しかし、私のスマートフォンは、ポケットの中で沈黙を守ったままだった。