(38)求む!鮫尾帆白取り扱い説明書:3
とりあえずキスは回避できたので、私にしては上出来である。
付き合っている以上、いずれそういう機会が訪れるかもしれないが、先輩のことだから、私が恥ずかしがったら、やめてくれるだろう。
――いや、なんだかんだで、そのまま押し切られそうな気がする。
日頃の先輩は坦々としているくせに、妙なところで強引な部分があるのだ。
自分の予想が当たりそうな気がして、ブルリと身を震わせる。
すると、ふいに私を抱き締めている先輩の腕が緩んだ。
――あれ? やっと私を降ろす気になったのかな?
密かに喜んでいると、どうも違うらしい。
先輩は制服の上着を脱ぐと、私の肩にかけた。
「これで、少しはあったかい?」
心配そうに顔を覗き込んでくる先輩の様子に、さっき震えたのは寒さのせいだと思ったのだと気付く。
「い、いえ、寒くないので、大丈夫ですよ」
先輩に返そうとして上着に手をかけると、その手を大きな手がソッと包み込む。
「暑い?」
「暑くもないですけど……」
軽く首を傾げつつ返事をすると、先輩の目が僅かに弧を描いた。
「だったら、そのまま」
「え?」
キョトンとしたら、先輩の目がさらに弧を描く。
「ブカブカな俺の上着を羽織っているチコ、すごく可愛いから」
なんとも甘酸っぱい発言をされ、ブワリと顔が熱くなる。
世の中には、彼シャツ、彼セーター、彼パジャマというワードが存在する。
サイズの大きい彼氏の服を着ることで、彼女はより可愛らしく見えるのだとか。
また、自分の服を着せるということにより、独占欲を満たされる男性もいるのだとか。
それを聞いた時、『うわぁ。私もいつか経験してみたい』と思ったものだ。
とはいえ、ちんちくりんキノコの私に彼氏ができるとは思えず、高校在学中に実現するとは到底考えられなかった。
――まさか、こんなにも早く叶うなんて。
おまけに、この格好を先輩に可愛いと言ってもらえた。
嬉しくて、上着の合わせ部分をギュッと握り締める。
そして、ふいに思った。
――そっか、先輩は私を丸ごと受け入れてくれたからだ。
ギャーギャーわめいても、可愛いと言われ。
不機嫌になっても、可愛いと言われ。
睨み付けても、可愛いと言われ。
背が低いところも、童顔なところも、先輩は「可愛い」と言ってくれた。
私の目を見て、何度も何度も、「可愛い」と言ってくれた。
先輩がそばにいることで私は何度となく羞恥地獄に突き落とされたけれど、思い返してみると、自由に振舞うことができて、それなりに居心地がよかった。
私はおしゃれじゃないし、鈍感だから、きっと「一般的な女子高生の彼女」という役割は果たせないだろう。
だけど先輩は、このまんまの私を好きになってくれたから、それがすごくすごく嬉しかった。
――よかった。私、ちゃんと先輩のことが好きなんだ。
へへッと小さく笑ったら、先輩が首を傾げる。
「どうしたの?」
「実はですね、こうやって彼氏の服を着せてもらうのって、密かに憧れていたんです。でも、こんな私に彼氏なんて簡単にはできないだろうと思っていて。だから、夢が叶って嬉しいんです」
私は試しに袖を通してみた。
上着を着たままの私の腕は、思っていたよりもスムーズに通っていく。
「本当にブカブカですね」
腕を伸ばしても、十センチくらい袖が長い。
余った袖をブラブラと揺らしていたら、ギュウッと痛いくらいに抱き締められた。
「……チコが可愛すぎる」
「はい?」
揺れる袖をジッと見詰める先輩が、感極まった声音で呟く。
「俺の制服を羽織っただけでも、かなり可愛かったのに。それが、こんな……。ああ、もう、これは押し倒してもいいと言っているようなものだな」
「言ってません!」
即座に言い返し、私はペシンと先輩の頭を叩く。
余った袖部分で叩いたため、けして痛くはないだろう。
「手を繋ぐということで、話はまとまったじゃないですか」
照れ隠しに睨み付けると、寂しそうな視線が返ってくる。
「だって、チコが可愛いから」
「可愛く見えたら、なにをしてもいいとは限らないでしょう?」
「可愛いは正義」
「……それ、このタイミングで言うセリフじゃないです」
ちょっと呆れた私は、また袖部分でペシンと先輩の頭を叩いてやった。
「今のチコも、かなり可愛い。もっと叩いて」
すると、先輩は目を輝かせて私を見つめる。
――そんな楽しそうな顔で見られると、かえって引くんですけど……。
セリフだけ聞くと、ヘン〇イ丸出しな感じだ。
顔を引きつらせる私は、上げていた手を静かに下ろした。
とたんに、先輩は残念そうな表情を浮かべる。
そんなに頭を叩かれたかったのかと、私はさらにドン引きだ。
――先輩が変な世界に目覚めないように、ここできっちりしておかないと。
私は、「叩きませんからね」と、きっぱりとした口調で言い切った。
先輩はしばらくの間しょんぼりしていたものの、徐々に復活してきた。
それからは当たり障りのない会話をして、けっこう楽しい時間を過ごす。……まぁ、合間に繰り広げられる先輩との攻防には、ちょっと疲れたけれど。
あれこれと話しているうちに、空が段々と薄暗くなってきた。
「先輩、そろそろ帰りませんか?」
声をかけると、先輩がなぜかうっすらと頬を赤らめる。
「俺の家に?」
「……いえ、それぞれの家にです」
先輩との会話が時々こんな感じだったので、私の精神力がガリガリ削られていた。
だけど、不快ではない。ただ、猛烈に恥ずかしい。
「まぁ、今はそうか。チコのご家族に、結婚の許しをもらってないし」
ブツブツと呟いている先輩に構わず、私は自分を囲んでいた腕の中から抜け出した。
先輩は無理に私を引き留めることなく、それどころか私の背中を支えつつ、地面に立たせてくれる。
「じゃあ、帰ろうか」
「その前に、これ、返しますね」
私は先輩の上着を脱ぎ、ソッと差し出した。
すると、先輩は私の手をやんわりと押し返す。
「家に帰るまで、着ていていいよ」
「そうしたら、明日、先輩が困りませんか?」
最近はだいぶ朝晩の冷え込みが和らいできたけれど、それでも、急に気温が下がることもある。
上着があるとないとでは、だいぶ体感気温が変わるだろう。
なのに、先輩はフッと微笑む。
「困らないよ」
「でも、天気が悪くなったら、きっと寒いですよ」
改めて制服を差し出すけれど、またしてもやんわり押し返された。
「チコを家まで送ったら、その時に返してもらうから」
「……え? 家までついてくるんですか?」
パチクリと瞬きをしたら、先輩が笑みを深める。
「彼氏なら、当然」
「いや、まぁ、そうかもしれませんけど……。でも……」
――あの視線に晒されるのって、嫌なんだよなぁ。
好奇というより侮蔑の目を向けられるのは、やっぱり不安になってしまう。
無意識のうちに俯いてしまうと、大きな先輩の手がポンと私の頭に乗った。
「大丈夫。チコは、俺が守るから」
切れ長の目を細め、穏やかに、だけど力強く言い切る先輩の言葉に、私は小さく頷き返した。




