(35)罰ゲームでもなければ、復讐でもない:8
私が突然大きな声を出したから、先輩は切れ長の目をまん丸にして固まった。
そんな先輩を見て、ちょっとだけ罪悪感が湧き上がる。
だけど、涙は止まらない。
あまりにも大泣きしているせいで、私も言葉が出なかった。
驚きに固まる先輩と、ひたすら泣いている私の間に、奇妙な沈黙が流れている。
――なんで? なんで!?
その問いかけは先輩に向けたものなのか、自分に向けたものなのか。
だんだんと分からなくなってきた。
悔しいとか悲しいとか、そういった感情でぐちゃぐちゃになっていて、頭はガンガンしてくるし、目の前がグラグラしている。
とにかく泣いて、泣いて、泣き倒して。
体の水分が全部出て行ってしまうかと思うくらい、私は泣き続ける。
やがて、私の頬に触れていた先輩の手が、静かに私の背中へと回された。
そして、先輩は包み込むように優しく私を抱き締める。
私は抵抗する気力もなく、引き寄せられるままに先輩に上半身を預けた。
「チコ」
深く優しい声が、耳元で囁く。
ヒック、ヒックとしゃくりあげているせいで、私はいまだに言葉を発することができない状態だ。
「チコ」
すると先輩がまた私の名前を呼び、ポン、ポンとかなりゆっくりしたリズムで私の背中を軽く叩き始める。
そのリズムがすごく穏やかで、少しずつ涙が収まっていく。
まだ小さくしゃくりあげているものの、涙は一応止まった。
先輩は私の背中から左手を移動させ、濡れている私の頬を静かに拭う。
「チコ。目が真っ赤で、可愛い」
「……私なんか、可愛くない、です」
先輩を睨みつけながらボソボソと言い返したら、先輩は僅かに目を細めた。
「可愛いよ。チコは、世界一可愛い」
先輩は私に言い聞かせるようにゆっくりと囁き、指先で私の頬や目尻を丁寧な仕草で拭う。
――なんで?
先輩の視線も、言葉も、仕草も、本当に意味が分からない。
おかげで、止まったと思った涙が、ジワジワと滲んできた。
「……だから、どうして、そういうことを、言うんですか?」
改めて睨み付けたら、先輩が不思議そうに首を傾げる。
「どうしてって?」
逆に聞き返されて、ちょっと腹が立ってきた。
「それは、私が聞いているんです」
ムスッとむくれた表情を浮かべると、先輩は眉根を寄せる。
「チコ、話を整理しようか。どうやら、噛み合っていないことが多そうだ」
「……別に、そんな必要ありません。答えたくないなら、それでいいです。とにかく、私を放してください」
そっけなく言い返す私の態度に、先輩の眉根はさらに寄った。
困った表情の先輩は、私の右頬を左手で覆う。
「チコ」
その声には、どこか鋭さがあった。
鈍感な私でも、先輩が簡単に私を解放しないと分かる。
――もう、どうにでもなればいい……。
頭の芯までぼやけている私は、諦めの境地に至った。
体から強張りが抜けたのを感じた先輩が、おもむろに口を開く。
「チコ、泣いた理由を教えて」
逃げるどころか、考えることも放棄した私は、ボンヤリと先輩の顔を見ながら答える。
「……先輩の気持ちが分からないから」
それがどうして泣くことに繋がったのか、自分でも理解していない。
だけど、今の私にはそうとしか答えられなかった。
先輩は私の言葉を聞いて、形のいい眉を片方だけ上げる。
「俺の気持ち?」
私は息を吸い込み、小さくコクンと頷き返す。
細く長く息を吐いた後、私は言葉を続けた。
「……復讐や罰ゲーム以外で、私になんの用があるんですか? それに、婚約者とか、結婚とか、意味が分かりません」
先輩の気持ちは、いったいどこに向かっているのか。なにが目的で、そんなことを言うのか。
私が混乱したそもそもの理由は、そこだと思う。
スッと視線を伏せたら、頬に触れている先輩の手に力が入った。
そして、俯く私の顔をゆっくりと上げさせる。
こちちを見つめている先輩の瞳に浮かぶ光があまりにも真剣なので、私は視線を逸らすことができなかった。
私が小さく息を呑むと、先輩は僅かに苦く笑う。
「俺、言ってなかった?」
問いかけられ、私は首を傾げた。
「なにを?」
短く問い返したら、私の背中にあった先輩の右手が移動してきて、私の左頬を包む。
大きな手で両頬を覆われてしまい、私は顔を逸らすことも伏せることもできなかった。
「チコ」
先輩がまたしても私の名前を呼ぶ。
その声が、視線が、甘く感じたのは、私の気のせいだろうか。
そして、そんな風に名前を呼ばれて、嬉しいと思ってしまったのは、なぜだろうか。
なにも言えない私は、ただ大人しく先輩を見つめ返している。
すると、切れ長の目がユルリと弧を描いた。
「チコが好きだって、俺、言ってなかった?」
先輩の言葉は確かに私の耳へ届いたはずなのに、まったく理解ができなかった。
――チコガスキダッテ、オレ、イッテナカッタ? なに、それ? どういうこと?
告げられた言葉の響きは日本語のはずなのに、私の脳が働かないせいで、意味不明な言語に聞こえた。
「……え?」
目を大きく開いて呆然としている私の様子に、先輩の目がさらに弧を描く。
「何度でも言うよ。俺は、チコが好きだ」
「…………え?」
それでもやっぱり理解できなくて、私はパチクリと瞬きを繰り返していた。
先輩はそんな私に呆れることも怒ることもなく、穏やかに口を開く。
「チコが好きで好きでたまらない。チコのそばにいたくて、チコに触れたくて、チコの声を聞きたくて」
真剣だけど甘く響く言葉が、徐々に私の脳に染み込んでいった。
――先輩が、私を、好き?
ようやく、日本語として聞き取ることができた。
とはいえ、あまりにもありえないことなので、逆に信じられない。
「……先輩、エイプリルフールはとっくに終わっています」
呆然としたままポツリと呟いたら、先輩が私のおでこに頭突きをしてきた。
いや、それは頭突きというほどの衝撃はなく、コツンとおでこ同士を重ねたようなものだ。
恥ずかしすぎる頭突きに、私の顔がジワジワと熱を持った。
「う、うぅ……」
ものすごく恥ずかしいのに、顔を逸らすことができない。
せめてもの抵抗で目をギュッと閉じたら、また名前を呼ばれる。
「チコ」
それでも頑なに目を閉じていると、先輩が囁きかけてくる。
「早く目を開けないと、キス、するよ」
フフッと僅かに笑いながら告げられた言葉に、私の背筋がギュンと伸びた。
「ええっ!?」
慌てて目を開けたら、先輩の顔がものすごく近くにあった。
「せ、せ、先輩、あの……、私、目を開けたんですけど……」
――だから、キスなんか、しないですよね?
言外に含ませると、先輩は口角をユルリと上げた。
「大丈夫、しないから。……今は」
思わせぶりなことを言った先輩は、スッと息を吸い込んだ。
そして私の目を見つめながら、ゆっくりと唇を動かす。
「嘘や冗談じゃなく、俺はチコが好きだよ。チコに初めて会った時から、ずっとチコが好きなんだ」
先輩の言葉が、今度は私の心臓にまっすぐ突き刺さる。
すると、今度は恥ずかしさで泣きそうになってきた。
「……そんなの、一回も聞いてないです」
目頭の熱さを感じながら言い返すと、先輩は困ったように笑う。
「そっか、てっきり言ったつもりになっていたよ。俺の中では、チコを好きなことは決定事項だから」
ヒョイと肩をすくめてみせた先輩が、初めて見るくらいの全開の笑みを浮かべる。
「これまで不安にさせて、ごめん。チコ、大好きだよ。だから、俺をチコの恋人にして」
さすがに、これが演技だと思えない。
ここにきてやっと、私が先輩の態度に腹を立てていた理由を呑み込めた。
いつの間にか、私は先輩のことが好きになっていたのだ。
だから、先輩の気持ちが分からない状態で、私と親しくしようとしてきたり、恋人だの婚約者だの言われたことが、騙されているように感じて、悲しくて、悔しかったのだ。
先輩が私に近付いてきた理由が罰ゲームでも復讐でもなく、私を好きだという想いからだったと知って、私はやっと自分の気持ちを認めることができた。
だけど、自分から「好き」と告げるのはまだ恥ずかしすぎるので、コクコクと頷き返すのが精一杯である。
それでも、先輩は嬉しそうに笑って、ギュウッと私を抱き締めた。
●当初の予定よりだいぶ迷走してしまいましたが、ようやくここまでたどり着きました。
この先は、あらすじにありますように『小柄で表情がクルクルと変わる女の子が、口数と表情の変化が少ない美形先輩男子に溺愛される話です』という展開になるはずです。
完結まで、もうしばらくお付き合いいただけますと幸いです。




