(33)罰ゲームでもなければ、復讐でもない:6
(33)罰ゲームでもなければ、復讐でもない:6
すっかり殺気を収めた先輩は怖くなくなったものの、膝の上に抱き上げられているせいで、相変わらず私の心臓はバクバクと音を立てていて落ち着かない。
「あ、あの、先輩……」
オズオズと呼びかけたら、先輩が「分かってる」と静かに答えた。背中に回っている二本の腕のうち、まずは右手が離れていった。
珍しく物分かりがいいものだと驚いている私の目の前に、スッとあるものが差し出される。
それは、さっき私が断ったイチゴ牛乳のパックだった。
「……いえ、違います」
私はガックリと肩を落とす。
やっぱり、先輩は先輩だ。
天はこの人に二物も産物も与えたというのに、物事を察する能力だけは与えなかったらしい。
身長よりも頭脳よりも、真っ先にその能力を与えてほしかったものだ。
深々とため息を吐きながら、私は口を開く。
「本当に、罰ゲームや復讐じゃないんですか?」
改めて問いかけると、先輩は真面目な表情で、「そんなこと、俺はしない」ときっぱり言い返してきた。
そう言われたものの、私は信じられずにいる。
騙そうとしている相手には簡単に真実を伝えないので、先輩が嘘をついている可能性はゼロではない。
仮に先輩が嘘をついていたとしても、今後は関わらないようにしていたら、たぶん大丈夫だろう。
私を陥れる行動は、表立ってするものではない。誰かに気付かれたら、先輩の評判はがた落ちだ。
こういう嫌がらせはコッソリ実行して、陰でターゲットの様子を窺いながらニヤニヤ笑って楽しむものである。
それに、先輩は高校三年生で、受験を控えている身だ。
余計な騒動で内申点が悪くなったら、大学入試に悪い影響が出ることは想像に難しくない。
あまり鋭くない私でもそういう考えに行きつくのだから、抜群に頭がいい先輩はそのことにとっくに気付いているはず。
――なんにせよ、先輩と距離と取らなくちゃ。
先輩が本当のことを言っていても、嘘をついていても、もう、どうでもいい。
とにかく、関わり合いになりたくなかった。
そのための第一歩として、先輩の膝の上から下りることから始めよう。
私は短く息を吸ってから口を開いた。
「先輩、ちょっといいですか?」
すると先輩は不思議そうな表情で首を傾げた後、ハッと小さく息を呑む。
そして、イチゴ牛乳のパックを差し出してきた。
「……ですから、今はそのことではなくて」
私が引きつったような苦笑を零すと、先輩は紙パックをジッと見つめて考え込む。
それから少し経った頃に、先輩がふたたびハッと息を呑んだ。
イチゴ牛乳のパックをベンチの座面に置くと、端に置いてある自分のバッグを右手で引き寄せ、ガサゴソと中を漁り始める。
ちなみに、その最中も先輩の左腕はかっつり私の背中に回されていた。
――なに、してんの?
それより、早く私を膝から降ろしてくれないだろうかと思っていたら、先輩の右手がバッと私へと差し出された。
大きな手の平にのっているのは、見慣れたパッケージに包まれているイチゴ味の飴である。
「いや、だから、飲み物や食べ物がほしい訳じゃないんです」
「そうなの?」
「はい」
私が頷き返すと、先輩が妙にしょげ返る。
「チコが飲んだり食べたりしている姿は、すごく可愛いのに」
いきなりそんなことを言われ、私の顔が火を噴くほどに熱くなった。
「べ、別に、私なんか、可愛くないですし! 友達がたまに私が食べている姿を見て癒されると言ってますけど、それは動物みたいってだけで、可愛いとは縁遠いものでしょうし!」
アワアワしながら言い返すと、包装を剥かれた飴がソッと口の中に押し込まれる。
先輩の目は怖いくらいまっすぐに私を見ていたけれど、瞳に浮かぶ光は優しかった。
おまけに「チコは可愛いよ」なんて言われたら、私はさらに慌てふためいてしまう。
「だから、私は!」
大きな声を出した瞬間、まん丸の飴がヒュッと口から飛び出した。
「あっ!」
私は慌てて手を伸ばしたけれど、うまくキャッチできなかった。
小さい頃から『食べ物を粗末にするな』と祖父母に厳しく躾けられていた私は、受け止められなかった飴に絶望に満ちた視線を送る。
その時、先輩の右手が素早く伸ばされ、飴を見事にキャッチした。
――地面に落ちなくてよかった。
ホッと胸を撫で下ろした私だけど、安心している場合ではなかった。
手の平にのっている飴をジッと見つめていた先輩が、あろうことかその飴を口元へと運んだのである。
その行動は、ゴミが付いているのか確認する様子でもなく、また香りを確かめるものでもない。
明らかに、食べようとしていた。
――な、な、なに、すんの!?
私はものすごい速さで飴を奪い、自分の口にポイッと放り込んだ。
甘酸っぱいイチゴの味を舌で感じながら、私は今度こそ胸を撫で下ろす。
――ふぅ、危なかった。あのままいったら、先輩と間接キスをするところだったよ。
実行されたら、確実に恥ずかしさで爆発する。
それにしても、どうして先輩があんなことをしようとしたのか、さっぱり理解できない。
先輩はこれまでモテモテの人生を送ってきただろうから、間接キスくらいは呼吸と同じくらい意識をしていないのだろうか。
だからといって、ちんちくりんキノコの私が舐めた飴を口にしなくてもいいのに。
とにもかくにも、羞恥心による爆死の目に遭わなくて済んでよかった。
……そう思っていた矢先、とんでもない光景が私の目に飛び込んでくる。
なにもなくなった手の平をジッと見つめていた先輩は、飴が触れた部分をペロリと舐めたのだ。
そして、フッと口角を上げる。
「甘い、チコの味だ」
「ひぃっ!」
――な、な、舐めたよ、この人!
結局、私は爆死する羽目になったのだった。
あまりの衝撃に、私の魂はしばらく体から抜け出ていた。
「チコ、どうした? なんで、黙ってる?」
すぐそばにいるはずの先輩の声が、やたらと遠くに聞こえる。
そのくらい、私は現実逃避に耽っていたのだ。
――これは、きっと夢なんだよ。まだ布団の中で寝ているんだよ。
呼びかけてくる声を無視して、必死に自分へと言い聞かせていた。
「ねぇ、チコ。チコ」
徐々に先輩の声が大きくなるものの、私の魂はまだ辺りを彷徨っている。
いっこうに反応を示さない私に、先輩が首を傾げた。
「もしかして、チコは目を開けたまま寝られる人?」
――そんな、馬鹿な。
思わず心の中で突っ込んでしまったが、幸いにも声には出ていない。
そのまま無視を続行していたら、先輩がブツブツと呟き始める。
「意識のないお姫様は、王子様のキスで目を覚ますものだ」
魂が抜けている私には、先輩がなにを言ったのか理解できない。
ひたすらボンヤリしていたら、整った顔がゆっくりと近付いてきた。
「チコ……」
僅かに微笑みを浮かべた先輩が、囁くように私の名前を口にする。
そこで、先輩の吐息が私の唇にかかった。
その瞬間、私の魂が光の速さで戻ってきた。
「な、な、な、なにを、しようと、して、いるんですかぁぁぁぁぁ!」
先輩の胸に手を付き、私はグイッとその体を押し返す。
あっという間に、私と先輩の顔が五十センチ近く離れた。
パニックで泣きそうになっている私に、先輩がさらに微笑みかけてくる。
「なにって」
そこで言葉を区切った先輩の目が綺麗に弧を描く。
「キスだよ。俺とチコは婚約者だから、問題ないよね」
サラリと告げられた言葉に、私の全身から高音の蒸気が噴き出す。
「も、も、問題、ありまくりじゃーーーーー! なにを言い出すんだ、こんちくちょう! 意味不明にも、程があるんじゃーーーーー!」
まさに絶叫という感じに声を出すと、先輩がキョトンとなる。
先輩はゼイゼイと肩で息をする私を静かに見つめた後、「ああ、そうだな」と零す。
「チコのご家族には、まだ正式な挨拶をしていなかった。だから、まだ、婚約者とは名乗れないか」
寂しそうに呟く先輩を見て、私は物事を察する能力を彼に与えなかった神様を心の底から恨んだ。




