(32)罰ゲームでもなければ、復讐でもない:5
今日は少し蒸し暑いくらいなのに、私は震えが止まらない。
周囲の空気はドンドン冷たさを増し、ブリザードが吹いているような錯覚に陥る。
先輩は無表情で、視線だけがやたらと鋭い。
だからこそ、ものすごい迫力があった。
――え? え!? なに、どういうこと? 先輩、怒ってる?
私に真相をバラされたことで先輩が不愉快に思うことは予想していたけれど、ここまで怒りを露わにするとは考えもしなかった。
せいぜい、「どうして分かった?」と驚くか、「そっか、バレたか」と苦笑いを浮かべる程度だと思っていたのだ。
もしかしたら、ちんちくりんキノコの私に見破られたことが、相当悔しいのだろうか。
――ヘタに言わないで、最後まで騙された振りをしていればよかったかも。
そんな思いが脳裏を過るけれど、不特定多数のマイナス感情をぶつけられるのは、能天気な私としても嫌だったのだ。
それにしても、少しでも早く先輩から解放されたくて取った行動が、こんな恐ろしい展開になるなんて。
すっかり委縮した私は、先輩の言葉が耳に入らない。
「俺のチコに対してやけに、馴れ馴れしいと思ったら……。そうか、そういうことか。チコに下らないことを言って、俺から引き離そうとしたんだな。俺のチコに、なにをしやがる」
普段は口数が少ない先輩なのに、やたらブツブツと呟いている。
視線は鋭く、だけど無表情なので、本当に怖かった。
私は恐怖と困惑で、思わず涙を零してしまう。
怖すぎて声も出さず、ただポロポロと静かに涙を零した。
そんな私の様子に気付いた先輩がハッと息を呑み、素早く手を伸ばしてくる。
有無を言わさない力強さで私を抱き寄せ、自分の膝の上に乗せた。
「チコ、泣かないで」
かけられた声はこれまでとは一転して、心配そうな色がありありと滲んでいる。
それでも私は混乱から立ち直れず、ただただ泣き続けた。
先輩の周りにある空気は温度を取り戻し、ブリザードはすっかり消えている。
だけど、私の涙は止まらない。
「チコ、どうして泣いてるの?」
先輩は大きな手で私の頭を撫でながら、落ち着いた声で私に問いかけた。
スンスンと鼻を鳴らしながら、私はポツリ、ポツリと言葉を発する。
「先輩が、怖かったから……」
確かにそうなのだが、泣くほど怖かっただろうかと、いまさらだけど自問する。
怖かったというより、先輩を怒らせてしまったことがショックだったという感覚だろうか。
ただし、なぜショックだったのかまでは分からなかった。
私の言葉を聞いて、先輩がさらに強く抱き締めてくる。
「チコに怒ったんじゃない。あの男子が、俺とチコの邪魔をしたかと思ったら、腹が立って」
そう言って、先輩がゆっくりと息を吐いた。
「怖がらせて、ごめん」
ボンヤリする頭では先輩が怒った理由をよく理解できないけれど、あのすさまじい殺気が自分に向けられたものではないと分かり、私は少しだけ体の力を抜いた。
コクンと頷き返したら、先輩が指で私の涙を優しく拭う。
いまだに涙が止まっていないため、一度拭っただけでは駄目だった。
それでも、先輩はせっせと指を動かし続ける。
「あ、あの、私、ハンカチを持ってます……」
スカートのポケットに手を入れてハンカチを取り出すと、そのハンカチを先輩がやんわりと奪った。
そして、私の目元に当てる。
「自分で、やりますから……」
ハンカチを取り返そうとしたら、先輩がスイッと遠ざける。
「駄目、これは俺の役目」
「え?」
パチリと瞬きをした拍子に、涙がポロリと零れた。
その滴に、先輩がすかさずハンカチを押し当てる。
「俺が泣かせたから」
有無を言わせない態度だけど、先輩の仕草はすごく優しかった。
それから少し経って、やっと私は泣き止んだ。
「もう、大丈夫?」
「はい」
私が返事をしたら、先輩がホッと息を吐く。
そのあと、なぜか、私のハンカチを自分のバッグへと入れてしまった。
「あの……、返してもらえませんか?」
「代わりのハンカチを、今度プレゼントするよ」
先輩は素早くバッグを閉じ、私の手が届かない場所へグイッと押しやった。
「いえ、返してほしいんですけど」
私が言うと、「五枚プレゼントするから、あのハンカチがほしい」と、意味不明な言葉が返ってくる。
「枚数はどうでもいいですし、プレゼントしてほしい訳でもないです。返してくれたら、それでいいので」
「だから、それは駄目」
「なんでですか? 私のハンカチですよ」
「チコの涙が浸み込んだハンカチだから、俺の宝物にする」
「……はい?」
――なんか、ものすごくヘンタイチックな発言が聞こえた気がしたんだけど。
ポカンとする私に、先輩が静かに顔を近付けてきた。
「それより、大事な話がある」
――私の涙が浸み込んだハンカチを欲しがる先輩のヘンタイ性も、かなり大事な問題だと思いますけど。
そう言う前に、先輩が口を開く。
「俺がチコに近付いた理由が罰ゲームとか復讐っていうのは、どこから出てきた? 誰かに、そう言われた?」
先輩はいつものように穏やかな口調なので、もう怖くなかった。
私はフルリと首を横に振り、「誰にも言われていません」と答える。
「じゃあ、どうしてそう思った?」
問われた私は少し迷った後、オズオズと言葉にする。
「……だって、先輩が私に近付くのは、そういう理由しかないから」
自分でその答えに行きついたというのに、なぜか私の心臓がキュウッと縮まり、息苦しさを感じる。
すると、ふたたび目頭が熱くなり、涙が溢れてしまった。
先輩は僅かに目を細め、さっきと同じように指で優しく涙を拭ってくれる。
「泣いているチコも可愛いから、好きなだけ泣いていいよ」
そんなことを言われたら、照れくさくて泣いてなんかいられない。
根性で涙を引っ込めると、先輩が「残念」と呟く。
「だけど、泣いてないチコのほうが可愛いからいいか」
今度は、照れくささで泣きそうになった。
あまり泣いてばかりいると、そのうち涙を舐められそうなので、私は改めて根性を入れ直して泣かないように頑張っている。
色々と混乱している私は、どうして先輩に抱き締められているのかという点が完全に頭からすっぽ抜けていた。
先輩の腕の中で大人しくしている私に、先輩が話しかけてくる。
「俺がチコに近付いたのは、罰ゲームでも復讐でもないよ」
――それは、本当? 私を騙そうとして、隠しているんじゃないの?
つい先輩の目をジッと見つめると、先輩の顔が少し緩む。
「目が真っ赤になっているチコは、ウサギみたいで可愛い」
至近距離でそんなことを言われ、恥ずかしさで爆発しそうになった。
「見ないでください!」
慌てて目元を手で覆ったら、先輩が自分のおでこを私のおでこにコツンとぶつける。
「こら、隠さないで」
「うひぃーーーーー!」
私は奇声を上げつつとっさに仰け反り、先輩と距離を取った。
しかしあまりにも勢いを付け過ぎたせいで、後ろに大きく倒れそうになる。
「ほわぁーーーーー! 落ちるーーーーー!」
またしても奇声を上げる私を、先輩がグイッと抱き寄せた。
後頭部直撃の危機を脱した私の心臓が、ドッドッドッドと激しく脈を打っている。
「た、助かったぁ……」
弱々しく呟いたら、先輩が私の背中をポンポンと叩く。
「俺がチコを危ない目に遭わせるはずないよ」
形のいい目を細めて微笑む先輩は、私の涙付きハンカチを宝物だとのたまったヘンタイには見えないくらい爽やかでかっこよかった。




