(25)先輩と私の距離:8
リビングの入り口で棒立ちになっている私と先輩に、兄が声をかけてきた。
「座ったらどうだ?」
「あ、うん。そ、そうだね」
私は一歩横にずれ、先輩を見上げる。
「あちらのソファへどうぞ。私は飲み物を用意してきますから」
そう言ったところで、「真知子、飲み物の用意は無用だ」と、兄が言った。
「は?」
私が首を傾げると、兄は足元に置いてあった『なにか』をむんずと掴み上げる。
そして、ドンと音を立ててソファ前にあるロ-テーブルに置いた。
それは、皮が剥かれていない丸ごとのパイナップルだった。
「フレッシュなジュースで、客をもてなそうと思ってな」
ジュースにするなら、それなりの準備と道具がいる。
なのに、兄の周りには、それらしきものが一切ない。
「……気持ちはありがたいけど、包丁は? それに、ミキサーは?」
私の問いかけに、兄がニヤリと笑った。
「そんなもの、この俺様には必要ない。鍛え上げたこの腕があれば、十分だ!」
腕まくりをした兄は、二の腕の筋肉を見せてくる。
そんな兄の様子に、私は呆れて目が細くなった。
確かに、女子はフルーツを使ったジュースが好きだ。
新鮮なフルーツをたっぷり使ったものは味もいいし、お肌に嬉しいビタミンも豊富である。
しかし、腕力だけでジュースを作るのは馬鹿だ。
これがオレンジやグレープフルーツであったなら、まだ分からなくはない。
ギュッと握って、果汁を絞り出すことは可能だろう。
だが、兄が用意したのは、皮が付いたままの丸ごとパイナップルである。
いくら兄が逞しくても、これをジュースにするのは至難の業だ。
握り潰すのはもちろん、皮はどうするのだろうか。
――どうせ、いいところを見せようと思ってのことだろうけど。
この馬鹿アニキは、勉強は苦手でも運動はものすごくできる。
そして、日々の筋トレによって鍛え上げられた体は、割と立派だ。
筋トレに割く時間を少しでも勉強に当てたら、もう少しまともな人間になっていたのではないかと、私は改めて思う。
たぶん、兄の脳みそは筋肉でできている。
この兄と先輩を二人きりにするのは心配だが、飲み物は必要だろう。あと、ちょっとしたお菓子も。
私は改めて先輩をソファへ促すと、キッチンへと向かった。
近所のおばちゃんから貰ったクッキーの詰め合わせがまだ残っていたので、それを出すことにする。
我が家の冷蔵庫には一年中麦茶が入っているので、飲み物はそれでいいだろう。
トレイにクッキーが入っている箱と麦茶ポットを乗せ、リビングへと戻った。
兄の前には空のグラスが三つ並んでいるものの、そこには一滴たりともパイナップルジュースが入っていない。
表面が少し剥がれているパイナップルは、テーブルの端に追いやられていた。
「喉が渇いた時には、さっぱりした麦茶が一番だな。甘いジュースは、よけいに喉が渇く」
明らかな負け惜しみを口にする兄を無視して、私はグラスに麦茶を注いだ。
こうなることが予想できていたので、私はグラスを用意しなかったのである。
「先輩、どうぞ。よかったら、クッキーも」
勉強を教えてもらうのだから、それなりにもてなさなくてはならない。
ソッとクッキーの箱を差し出すと、先輩はコクンと頷いた。
兄の様子からして、今のところ先輩は私との約束を守って余計なことを言っていないようなので、こちらもそれほどピリピリしないで済んでいる。
私は先輩の左隣に腰を掛け、ホッと息を吐いた。
家に来るまでの間に色々あったので、ものすごく喉が渇いている。
――平凡な私の毎日が、なんでこんなに濃厚なんだか。
先輩に出逢って以降、私の放課後はとんでもない状況だ。
学校で一番有名な鮫尾先輩が、毎回教室まで迎えに来るし。
庭に拉致されて、謎のスキンシップが始まるし。
先輩は頭がいいはずなのに、私が言っていることをちっとも理解してくれないし。
先輩と接することで、精神力がガリガリ削られている。
また、ちんちくりんキノコの私が先輩と関わっていることをよく思わない美人&美少女に、なにかされるのではないかとビクビク怯える始末。
基本的にのんきな私でも、いい加減ぐったりしているのである。
――とりあえず、先輩に早く勉強を見てもらって、お引き取り願おう。……いや、その前に、お兄ちゃんをなんとかしないと。
こんなに存在感バツグンの人が向かいの席にいたら、気が散って勉強どころではない。
クッキーを一枚食べ終えたところで、私は口を開いた。
「あのさ、お兄ちゃん」
呼びかけると、ずっと先輩を見つめていた兄がチラリと私に視線を向ける。
「真知子」
私の名前を呼んでから、兄は麦茶を一気飲みした。
ただし、あまりにも勢いよくグラスを傾けたものだから、口に入り切らなかった麦茶が鼻に流れ込み、兄は盛大に咽る。
「ぐっ、げっほ、げっほ、げっほ……」
「もう、なにやってんの!」
私は慌ててティッシュペーパーの箱に手を伸ばすけれど、それよりも先輩の手が先だった。
「大丈夫ですか?」
先輩は静かに声をかけ、ティッシュペーパーを差し出す。
「す、すまない」
兄はティッシュペーパーを数枚引き出し、口周りを拭いた。
「ふぅ、やれやれだぜ」
――それは、こっちのセリフだよ。
私もティッシュペーパーを引き抜き、テーブルの上を拭く。
運がいいことに、クッキーは無事だった。
「先輩、服にかかりませんでしたか?」
兄の向かいに座っているせいで、もしかしたら飛沫がかかっているかもしれない。
気になって声をかけると、先輩は少しだけ目を細め、「大丈夫」と言った。
「それならよかったです」
あらかたテーブルを拭き終えた私は、濡れたティッシュを近くのごみ箱に突っ込む。
そして、兄を睨んだ。
「私たち、これから勉強をするの。麦茶を飲み終わったら、さっさと自分の部屋に行ってよ」
すると兄はソファの背に体重を預け、悠然と腕を組む。
「真知子、そちらは?」
威厳を保とうとしているけれど、さっきの麦茶逆噴射事件のせいで涙目になっている上に鼻が真っ赤なので、まったく偉そうに見えない。
馬鹿面を晒している兄だが、先輩を紹介しない訳にはいかないだろう。ここで放っておくと、後々面倒なことになりそうである。
「あ……、えっと、こちらは……」
私が言いかけたところで、先輩がスッと頭を下げた。
「初めまして。俺は真知子さんの婚や……、いえ、恋び……、先輩である鮫尾帆白と言います」
途中、「婚約者」や「恋人」と言いかけたようだけど、とりあえずは余計なことを言わないでくれてよかった。
ホッと胸を撫で下ろす私とは対照的に、兄は渋い表情を浮かべる。
「……俺?」
ボソリと呟き、先輩をジロリと睨み付ける。
すると、先輩はハッと息を呑んだ。
「こういう時、『俺』ではなく、『私』と言ったほうがよかったかな?」
私にしか聞こえない小さな声で、先輩がボソボソと呟く。
これが社会人同士の正式な席であったなら、『俺』と称するのはよくないけれど、兄も先輩も高校生同士だし、いくら初対面とはいえ、無駄にかしこまる必要はない。
「いや、まぁ、そこはそんなに気にすることじゃないと思いますよ」
私も小さな声でボソボソと返すと、いきなり、兄がテーブルをバンと叩いた。
「ひっ!」
私は肩を跳ね上げ、悲鳴を上げる。
無表情がトレードマークの先輩も、切れ長の目をギョッと見開いた。
「な、なんなの。急にテーブルを叩かないでよ」
ビクビクしながら話しかけると、兄が前のめりになって、さらに先輩を睨む。
なにを言い出すのかと身構えていたら、馬鹿アニキは、やはり馬鹿だった。
「……君は、僕っ娘ではなく、俺っ娘なのか?」
その言葉に、私は開いた口が塞がらなかった。
変声期を終えた先輩の声は、男の人らしく低いものだ。
それに、この至近距離なら、どう見たって先輩の体形は男の人だと分かるだろう。
また、いくら先輩が綺麗な顔をしていると言っても、女性的な要素はない。
なのに、兄はまだ先輩のことを私の友達の女子だと思っているのだろうか。
脳筋にも程がある。
「お兄ちゃん、いい加減にしてよ。この人は、私の学校の先輩で、れっきとした男の人なの」
それを聞いた兄は、ガックリと肩を落とす。
「…………女子じゃないのか」
むしろ、先輩のどこが女子に見えるのか、私に教えてほしい。