(23)先輩と私の距離:6
先輩が私の耳を腕で覆ってくれたことで、言葉による攻撃のダメージは少なくなった。
とはいえ、状況としてはさらに悪化したとしか思えない。
はっきり聞き取れないものの、女子生徒たちがボソボソと囁いているのは分かるのだ。
――先輩と距離を取るべきなんだけど、今、ここで離れるのはなんか怖いし。
迷っているうちに電車は進み、ようやく下りる駅へと到着した。
先輩は回していた腕を解くと、改めて私と手を繋いでくる。
「行くよ」
一言私にかけてから、先輩は堂々とした足取りで電車を降りた。
たくさんの女子生徒から注目されているし、あれこれと囁かれてもいる。
なのに、先輩はまったく気にした様子もない。
――その頑丈な心臓と鋼鉄の表情筋を、私に分けてくれないかな。
そう思ってしまうほど、彼の態度は普段と変わらないものだった。
先輩が戸惑っていないから、私もちょっとだけ落ち着いていられる。……本当にちょっとだけなのだが。
改札を抜ける時だけは手を放したけれど、定期をしまった瞬間に、また手を繋がれる。
私たちが降りた駅は学生の利用がほとんどなくて、さっきまでのようにたくさんの女子生徒からジロジロと見られることはない。
だが、その反対に、顔見知りの人たちが話しかけてくる。
「おかえり、真知子ちゃん。おや、随分とかっこいい人だねぇ。彼氏かい?」
「おっ、ついに真知子ちゃんにも春が来たか!」
「へぇ、世の中にはこんなイケメンがいるのねぇ。真知子ちゃんが羨ましいわぁ」
この辺りの人はやたらと話し好きで、おまけに自分からグイグイ迫ってくる人が多い。
そのため、遠慮なく私たちに話しかけてくる。
「いえ、だから、この人は彼氏じゃなくて! 学校の先輩なんです!」
必死に否定するものの、私の右手と先輩の左手ががっちりと恋人繋ぎになっているせいで、まったく聞き入れてもらえない。
――ああ、もう! さっきの女子たち並みに厄介なんだけど!
ムキになって言い返していたら、先輩がボソッと呟く。
「俺は、チコの彼氏ではありません」
それを聞いた顔見知りのおじちゃんとおばちゃんは、お互いに顔を見合せた。
「え? そうなのかい?」
「私は、てっきり……」
ぎこちない苦笑いを浮かべるおじちゃんとおばちゃんを見て、私は内心ホッとする。
しかし、やはり先輩は先輩だった。
「彼氏ではなく、婚約者です。これからお義兄さんへ、挨拶をしに行くところです」
とんでもなくぶっ飛んだ発言を、平然としやがりました。
「せ、せ、せ、先輩! な、なに、言ってるんですか!? やだなぁ、もう。勉強のしすぎで、疲れているんじゃないですか! はは、はははっ!」
笑って誤魔化そうとするものの、おじちゃんとおばちゃんの目が猛然と輝く。
「まぁ、まぁ! 真知子ちゃんたら、もう結婚相手を見つけたのかい!」
「ついこの前まで子供だと思っていたのに、いやぁ、真知子ちゃんも大人になったもんだなぁ」
「結婚式には、私も呼んでちょうだいね!」
誤解がエスカレートし、事態はますます収拾がつかない方向へ。
「いや、あの、だから、先輩は単なる先輩であって、結婚はしません!」
私が大声で反論すると、それに先輩が続く。
「まだチコの家族から許可をもらっていないので、すぐには結婚できません。ですが、いずれ必ず」
先輩の言葉に、おじちゃんとおばちゃんが拍手喝采。
――すぐどころか、永遠に結婚できないからね! 私とは!
とりあえず、この場から離れよう。
そうしないと、どうにもならないくらいに誤解が巨大に膨れ上がりそうだ。
もはや手遅れの気配がしているが、そこは馬鹿アニキとのやり取りで培ったスルースキルで切り抜けよう。
「先輩、行きますよ!」
私は先輩の手をグイグイと引っ張り、家に向って歩き出した。
「先輩、これからは誰かと会っても、なにも言わないでくださいね!」
キッと睨み付けると、先輩が不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
私は足を止め、さらに眼光鋭く睨み付けた。
「先輩が適当なことを言うせいで、私が近所の人から変に思われてしまうんですよ!」
フンと鼻を鳴らしたら、先輩は首を傾げたまま口を開く。
「適当じゃない、近い未来に実現する」
「だーかーらー! 婚約者だとか結婚だとか、それが適当だって言ってるんです!」
ダンダンと足を踏み鳴らして抗議をしたら、繋がれている手にキュッと力がこもった。
「チコ、顔が真っ赤で可愛い」
――だ、駄目だ。この人とは、やっぱり会話にならない。先輩は勉強がめちゃくちゃできるけど、常識的なことはちょっと……
ちょっとどころではなく、だいぶズレまくっている。
近所の人にあんなことを言ったら、私に近付いた理由が罰ゲームの類だったとバレた時、気まずい思いをするのは先輩のほうである。
自分で自分の首を絞めるような真似をするとは、なんてアホなのだろうか。
意思疎通がままならないことにガックリ肩を落とした私は、ふと気付く。
――ああ、でも。先輩が住んでいるところはここから離れているから、別に気にならないのか。
あのおじちゃんとおばちゃんになんと思われようと、顔を合わせる機会はそうそうないだろう。
私だけが笑われ者になるのだ。
それこそ、私に近付いてきたもう一つの理由と思われる『私への復讐』にピッタリだ。
だけど、私を見る先輩の目はいつもでまっすぐで、こちらを騙そうとしている様子が窺えない。
――もう、どうしたらいいのか分からないよ……
先輩との距離感が掴めず、私は盛大なため息を零した。
その後も数人の顔見知りに冷やかされながら、家に到着した。
私はようやく鞄を返してもらい、中からカギを取り出して扉を開ける。
「ただいま……」
声をかけると、奥のほうからけたたましい音楽が流れてきた。
近所迷惑になることを恐れた私は、急いで先輩を玄関に引き込み、バタンと扉を締める。
こんな馬鹿みたいなことをするのは、馬鹿アニキしかいない。
「お兄ちゃん! うるさい!」
音楽に負けないくらいの大声で叫ぶと、突き当りの廊下の角から兄が現れた。
家の中だというのにサングラスをかけ、頬の辺りには普段にないもみ上げが生えていた。
見た感じ、もみ上げは油性マジックで書いたのだろう。あとで消えるのだろうか。
顔だけでも怪しいのに、纏っている衣装も怪しい。
胸元どころかおへそが見えるくらい深いカットが入っていて、全身が無駄にキラキラしている白い作業用ツナギである。
本来ならその衣装はおしゃれな呼称があるのかもしれないが、馬鹿アニキが着ると、ただの作業着にしか見えなかった。
おまけに、胸元にはこれもマジックで書かれたと思われるモジャモジャの胸毛がある。
――ちょっと、なんなの!? 人をつれて行くって言ってあるのに、なんでこんなかっこうをしてんのよ!
兄は右手でおもちゃのマイクを、左手で祖母が愛用しているラジカセを持ち、全身をクネクネさせる気持ち悪いダンスを披露しながらこちらに近付いてきた。
「真知子、遅かったな! さぁ、お兄様のリサイタルでお友達を歓迎しようじゃないか!」
「とにかく、音楽を止めて! お隣さんから、苦情が来ちゃうよ!」
ご機嫌な兄に対して、私は不機嫌全開で怒鳴り返す。
すると、兄はオーバーリアクション気味にヒョイと肩をすくめてみせた。
「おお、すまないな、マイラブリーシスターよ。……ん?」
ラジカセから流れるはた迷惑な音楽を止めた兄は、私の隣に立つ先輩に気付いたようだ。
「あ、あの、さっき電話で言ったでしょ。知り合いをつれて行くって」
私が説明すると、兄はラジカセを床に置いてサングラスを外し、ジッと先輩のことを見る。
その目付きは単に見ているというのではなく、観察と言ったほうが正しいだろうか。
上から下まで、ジックリと先輩に視線を向ける。
――もしかして、私が男の人をつれてきたから、変に思ってるとか?
ドキドキしながら待っていると、やがて兄がパチンと指を鳴らす。
「今、流行りの僕っ娘か! 俺は心が広いから、どんな趣味を持った女子でもオールオーケーだぞ★」
――いや、こんな兄は、どんな人でもノーサンキューだって。
これが、先輩と兄による初めての顔合わせとなった。