(22)先輩と私の距離:5
改札を通る女子も、ホームで電車を待つ女子も、こっちを見てヒソヒソと囁いている。
その表情は驚きであったり訝しんでいたりと、明かに私を快く思っていないものだった。
――困ったなぁ。
先輩と並んで電車を待ちながら、私は大きく俯く。
手を繋いでいないと、なぜか先輩が歩いてくれないので、放すことはできなかった。
放そうとしても放してもらえないというのが、正直なところだが。
数えるのが馬鹿らしいほどたくさんため息を吐いたところで、電車がホームに入ってきた。
たくさんの学生たちが電車に乗り込むため、私たちは流れに押されるようにして車内に入る。
普段よりも混んでいて、背が低い私はすぐに埋もれてしまった。
おまけに立ち位置が悪く、ドア横にあるポールに捕まることができない。
また、一段高いところにある吊革しか空きがなく、背が低い私には届かなかった。
この路線は大きく揺れる箇所が何個もあるので、どこかに捕まっていないと不安定で危ないのである。
――どうしよう。
キョロキョロと視線を動かし、手が届きそうな場所を必死に探す。
電車が揺れたことで人にぶつかっても、不可抗力なのでトラブルには発展しないことが多い。
だけど、中にはたまたたま虫の居所が悪い人もいるだろうし、そんな人にぶつかったら、たとえわざとではなくても文句を言われるだろう。
こう見えて小心者の私は、無用なトラブルには絶対巻き込まれたくないのである。
しかし、私の身長に見合うポジションは、既に誰かの手で埋まっていた。
その時、ガタンと音を立てて電車が揺れる。
左カーブに差し掛かったようで、私は遠心力に負けて仰け反った。
必死に堪えるものの、背中が後ろに立つ人の腕にぶつかる。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて謝るが、返事はない。
それは私を無視したのではなく、先輩の顔に見惚れていたからだ。
うっすらと頬を染め、熱のこもった視線を先輩に向けている。
ちんちくりんキノコなど、いっさい視界に入っていないらしい。
――ちゃんと謝ったし、相手は気にしていないみたいだから、いいのかな?
もう一度、「ぶつかってごめんなさい」と謝ってみるが、やはり彼女からの返事はなかった。
トラブルに発展しなかったことに安堵した私は、次の揺れに備えて足を踏ん張る。
しかし、上半身が安定しない状態でいくら頑張っても、結局はふらついてしまうものだ。
ふたたびカーブに差し掛かった時、さっき以上に体が傾いた。
「あっ!」
私は短く声を上げ、思わず繋いでいる手にギュッと力を込める。
すると、先輩がその手をグッと引き寄せた。
おかげで周りの人に体重をかけずに済んだものの、今度は先輩の胸に飛び込む羽目に。
「ぶふっ」
顔がめり込む勢いで、先輩にぶつかった。
ただでさえ低い鼻が、さらに低くなったらどうしよう。
いや、それよりも、まずは謝らなくては。
私は涙目になりながら、顔を上げる。
「ご、ごめ……」
そこで、言葉が途切れる。
先輩がものすごい至近距離で私の顔を覗き込んでいたのだ。
その光景に、周りから小さな悲鳴が上がる。
「さ、鮫島さんが!?」
「なによ、あのチビ!」
「ちょ、ちょっと、どういうことなの!?」
色々なことに驚いてビクッと肩を跳ね上げた私は、思わず仰け反る。
その瞬間、先輩が繋いでいる手を引っ張ったので、あっという間に元の位置に逆戻り。
今度は顔こそぶつけなかったものの、ピタリと寄り添う体勢は、心臓に悪過ぎる。
とはいえ、離れようとした時には電車の扉が開き、さらに人が乗り込んできたため、私は先輩と距離を取ることが出来なかった。
頑張って仰け反り、少しでも先輩との距離を取ろうとする。
なのに、先輩は私の頑張りをあっさり無視して、顔を近付けてきた。
「チコ、危ないから俺にくっついていて」
「……だ、大丈夫です」
「ちっとも、大丈夫じゃない」
「……いえ、お気遣いなく」
「ほら、遠慮しないで」
先輩は小さな声で囁くが、それでも低くて穏やかな声は周りの人の耳に届いてしまう。
「鮫島さんって、誰とも付き合ってないっていう話よね!?」
「じゃあ、あのチビはなんなの!?」
「もしかして、妹?」
「えー、それは違うんじゃない。顔があまりにも似てないし」
「だったら、誰なのよ!?」
私の周りにいる女子達が、ヒソヒソと話している。
感情が高ぶっているせいか、声を潜めているつもりでも、けっこうはっきり私の耳に届いた。
――まぁ、そうなるよね……。
予想していた展開だけど、それなりにショックを受ける。
しょんぼり俯くと、繋がれている手にギュッと力が込められた。
「チコ」
静かな声で、名前を呼ばれる。
オズオズと顔を上げたら、先輩とバッチリ目が合った。
先輩は相変らず無表情で、なにを考えているのか分からない、
だけど、目に浮かぶ光が、優しかった。
おかげで、落ち込んだ気持ちがちょっぴり浮上する。
と思ったのもつかの間、私と先輩が一緒にいて、しかもピッタリ寄り添うようにしているのだから、この付近一帯の女子たちを敵に回したことに気付いて、さらに気分が落ち込んだ。
――お小遣いを死守するためとはいえ、これはキツイ。明日からの登下校はどうなるんだろう。
不安が膨らみ、地の底に沈む感じで全身が重くなる。
そんな私に、先輩が声をかけてきた。
「チコ、どうした? 気分が悪い?」
顔を上げる気力がなく、私は俯いたまま首を横に振った。
「……なんでもありません、気にしないでください」
すると、先輩がいっそう力を込めて私の手を握る。
「気になるのは、当然だよ。俺は未来の夫だし」
先輩のとんでもない勘違い発言が、最悪の状態で炸裂した。
――ひぃぃぃぃ! な、なんてことを!?
私が心の中で絶叫すると同時に、車内に悲鳴が響き渡る。
「鮫島さんが、夫!?」
「なに、それ!?」
「嘘でしょ!」
「あのチビ、いったい何者なの!?」
「ありえないんだけど!」
「鮫島さんと、ぜんぜん釣り合ってないじゃない!」
「ムカつくわ!」
全身が硬直する私の耳に、次々と棘のある言葉が飛び込んでくる。
私は先輩と付き合っていないし、まして、先輩が私の夫になることはない。
まったく無意味な言葉だけど、それなりにグサグサと突き刺さる。
――お小遣いなんかより、心の平穏を優先すればよかった……
今さら遅いと分っていても、そう思わずにはいられない。
すると、繋がれていた先輩の手がスッと離れた。
この状況から、私たちが親しい関係にないということを示すほうが得策だと考えたのかもしれない。
密かにホッと息を吐いた私だったけれど、先輩の行動は私の予想をはるかに超えていた。
先輩は自由になった腕を私の頭に回し、グイッと自分の胸に引き寄せる。
そのため、耳を覆うような感じとなり、少しだけ私を攻撃する言葉が聞えなくなった。
左頬を押し付ける体勢になったところで、先輩の声が頭の上に降ってくる。
「チコ、俺の心臓の音だけ聞いていて」
先輩の顔は、相変らず無表情なのだろう。
それでも、耳に届いた声はすごく優しい。
微かに伝わる心臓の音が穏やかなリズムだったおかげで、私の心が少し軽くなった。