(19)先輩と私の距離:2
頭を下げた私の髪を先輩はサラリと撫で、短く「分かった」と一言返す。
ゆっくり自分の膝の上から私を下ろして立たせると、先輩もベンチから立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
「えっと、どこへ?」
勉強を教わるなら、学校の図書室だろうか。
それともファミレスやファーストフードショップだろうか。
いずれにせよ、人目に付く場所は避けてほしい。
今のところ同じクラスの人と、一年生の一部が私と鮫尾先輩のことに興味を持っているらしいが、それがさらに広まる事態はなんとしても避けたい。
私としては全力で先輩を避けたいのだが、いまだに先輩が一年生のいる階に来るのを阻止できないでいた。
クラスの人たちはやたらと面白がって、私を匿うどころか『どうぞ、どうぞ』と現れた先輩に差し出す始末。
うちのクラスの女子たちは先輩に対してアイドルを見るような感覚と同じらしく、恋愛の意味で好きではないらしい。
先輩のことを本気で好きな人がクラスにいてくれたら、私が先輩と顔を会わせないようにしてくれただろうに。
多少意地悪をされてもいいから、私と先輩が会わないように邪魔してくれないだろうかと、最近は本気で願っていたりする。
そんなことを考えていたら、「チコの家」と返事があった。
「へ? 私の家、ですか?」
フレンドリーな家族なので、先輩がいきなりやってきても、たぶん拒否はしないだろう。
兄もしょっちゅう誰かをつれてきて、一緒にお菓子を食べたりゲームをしている。
おまけに母と祖母はイケメン好きなので、先輩の登場に大喜びするはずだ。
それでも、友達というには微妙な関係である先輩を家に連れて行くのは、かなり躊躇してしまう。
――市の図書館とかはどうかな?
テストの時期ではないから、学生たちの利用は少ないだろう。学校の図書室を使うより、人目に付かないはずだ。
それに、最近の図書館は自由に使えるスペースもあるから、大声でおしゃべりしなかったら、勉強に関する話をしても問題ないだろう。
そう思って提案するものの、先輩は首を横に振った。
「他の人がいるところは駄目」
「どうしてですか? 私、こう見えても意外と集中力があるから、周りに人がいても気にしませんよ」
それでも、先輩は首を縦に振らない。
「駄目。一生懸命勉強するチコは、きっと可愛いから。俺以外の誰にも見せたくない」
――先輩は、眼科と脳外科を受診するべきだと思うな。
ちんちくりんキノコのどこが可愛いのだろうか。
童顔で小柄なら、どんな人でも可愛いと思えるのだろうか。
――ということは、先輩って、ロリコン!?
それなら、大人っぽい美人さんがいくら迫っても、先輩が跳ね付けてしまうのは納得だ。
とはいえ、私くらい小柄な女子は、学校内にも結構いる。
しかも、目がクリックリしていてまつ毛もなっがーい美少女が。
クラスの男子たちが可愛いと絶賛している小柄で童顔な女子を先輩に紹介してあげようか。
この学校の生徒ということで、年齢差的に先輩のロリコン趣味から外れてしまうが、まあ、イケるだろう。
そう思っていたら、先輩が私のおでこに軽くデコピンをした。
「俺は、ロリコンじゃない」
不貞腐れたように、先輩がボソッと呟く。
どうやら私は心の言葉を口に出していたようだ。
「ご、ごめんなさい。別に、深い意味はないんですけど……」
ペコペコと頭を下げて謝っていると、「怒ってないから」と言われ、私はホッと息を吐く。
だが、新たな疑問が湧き上がる。
ロリコンではないというなら、ブサ可愛い物好きといったところか。
私は自分の顔が可愛くないと自覚しているので、先輩にはその可能性がある。
――ああ、そうか。ブサ可愛いのが好みだから、先輩は大人っぽい美人さんと同じように、童顔美少女にも関わろうとしないのか。
一人で納得していたら、またデコピンされた。
「チコ、変な勘違いをしないように」
ふたたび心の声が漏れてしまったらしい。
「いえ、でも、先輩がわざわざ私の勉強を見るなんて、そういった理由くらいしか思いつかなくて……」
すると、またしてもデコピンされる。
これまでよりも強い力だったので、ピチンと音がして、ちょっと仰け反ってしまった。
「な、なんですか?」
うっすらと痛みを訴えるおでこを擦りながら口を開いたら、先輩はため息を零す。
そして上体を屈め、私と視線を合わせてきた。
「チコは可愛いよ」
静かな声で端的に、だけどまっすぐに見つめられて告げられた言葉には嘘が感じられない。
だからこそ、私は戸惑ってしまう。
こんなに間近で、しかも真剣に言われたら、本気にしてしまいそうだ。
先輩が口にした「ふくしゅう」は『復讐』ではなかったので、とりあえずは安心したものの、どうして先輩が私を気に掛けているのかまでは、まだ分からない。
個人的に私を恨んでいるのではないとしたら、罰ゲーム的なものか掛けでもしているのだろうか。
先輩くらいに有名人でかっこいい人だったら、大抵の女子はコロッと靡いてしまう。
クリア条件が『なんてことのない女子を本気にさせる』ということなら、先輩にはあまりにも簡単だろう。
そう考えたら、胸の奥がチクッと痛くなった。
先輩は私と住む世界が違う遠い存在で、こんな風に言葉を交わすなんて夢のまた夢だった。
私と先輩が関わりあうなんて、ありえないことだった。
先輩のことが気になり始めているなんて、あってはならないこと。
だから、こんな風に胸が痛くなるなんておかしなこと。
思わず俯いてしまったら、先輩が慌てた様子で私のおでこを撫でてきた。
「チコ、ごめんね。痛かった?」
私は無言で首を横に振る。
「……平気です」
実際に、おでこはもう痛くない。
痛いのは、謎の痛みを訴える心臓だ。
だけど、それを先輩に言ったところでどうにもならない。
私自身が、この感情を理解できないのだから。
それより、お小遣い減額を阻止するほうが、今の私にとって大事なミッションである。
すうっと息を吸い込み、私は顔を上げた。
「それより、本当に私の家で勉強をするんですか? 学校からなら、先輩の家のほうが近いと思いますけど」
以前、なにかの話の折に、お互いがどこに住んでいるのかを教え合ったことがある。いや、教え合ったというよりも、尋問に近い形で訊き出されたと言うべきか。
その会話の中で、先輩が住んでいるところを知った。
その場所は私の家よりも電車に乗っている時間が短い。
訊き返したら、ものすごい早口で、しかもすごく小さな声で先輩がしゃべる。
「……俺の部屋に連れ込むのは、まだ早いから。きっと、我慢できなくて押し倒すし」
「あ、あの、今、なんて言ったんですか?」
細切れに『連れ込む』、『早い』、『我慢できなくて』というのは聞こえたけれど、なんのことかさっぱりだ。
首を傾げる私に対し、先輩は切れ長の目を少しだけ細める。
「独り言だから、気にしないで」
「……はぁ」
いまいち腑に落ちないけれど、先輩の機嫌を損ねて勉強を教えてもらえなかったら困るので、突っ込むのはやめておいた。
勉強する場所が決まったので、私たちはこの場所を後にすることにした。
私はベンチの端に置いていた鞄に手を伸ばしたのだが、それよりも先に先輩が鞄を持つほうが早い。
しかも、先輩は自分の鞄も右手でまとめて持っている。
「あ、あの、私の鞄は持ちますから」
腕を伸ばしてみるものの、先輩はスッと遠ざけてしまった。
「俺が持つ」
「でも、自分の荷物くらいは……」
再度手を伸ばしたものの、またしても交わされてしまう。
先輩の手は背中に回り、鞄は私に届かない位置だ。
――なんで?
これが、反対の立場だったら分かる。
『勉強を教えてくれるまで、この鞄は返さない』
しかし、それは私がすることであって、先輩がしたところで無意味だ。
人質ならぬ物質を取られ、私は困惑気味に先輩を見上げる。
「あの、鞄を……」
「チコの家に着いたら、返してあげる。それまでは、絶対に渡さない」
やたらと私の家に執着する理由がさっぱり分からないが、勉強を教えてもらわないと私が困ることになるので、とりあえず、先輩の好きなようにさせることにした。