(15)ドキドキの種類:3
それにしても、どうして先輩は私のお腹を押しているのだろう。
しかも、正面に立っている先輩は、穴が開きそうになるほど私のお腹を見つめていた。
いや、見つめるというにはあまりにも真剣で、呪いをかけているのかと思えるほどの目付きだ。暗殺者をやめて、呪術師に転職したのだろうか。
もしくは、手の平から気の塊のようなものを放出させるために、精神集中をしているところなのか。
ドラゴンとボールが出てくる漫画のような展開は、中高生の男子なら垂涎ものだろう。しかし男子ではない私は、この身でその超展開を味わうことだけはごめんこうむりたい。
先輩の目付きはさておき、彼の手を自分のお腹から遠ざけなくては。
このまま押されていると、圧迫された空の胃袋が情けない鳴き声を上げそうである。
年頃の乙女として、自分のお腹の音を誰かに聞かれることは羞恥の極みだ。
それがこんなにかっこいい鮫尾先輩に二度も聞かれる羽目になったら、自分で地中深くに穴を掘って埋まりたい気分になるのは必至。
右手は先輩の手に押さえ込まれているため、私は左手で彼の手首をむんずと掴んだ。それから、力任せに引っ張る。
……が、ビクともしなかった。
それどころか、先輩はさらにグイグイと押してくる。
一刻も早くこの手をどけないと、今にもお腹の虫が鳴きそうだ。
焦った私はさらに力を入れて引きはがそうとするものの、力の差は歴然で、やはり彼の手はビクともしない。
「あ、あの、なんで押してくるんですか!?」
半泣きで問いかけると、思いもよらない答えが返ってきた。
「押してない、手当している」
「……は?」
――いやいやいや、この力加減は、明らかに押していますって! それより、手当!?
お腹を押されることも謎だが、手当されるのも謎である。
ポカンと呆けていると、先輩が私のお腹から視線を上げた。
「痛いところに手を当てるから、手当という言葉ができたらしい」
豆知識を披露した先輩は私のお腹に視線を落とし、またしても手の平全体で押してくる。
「ちょ、ちょっと、待ってください! 私、お腹が痛いなんて一言も言っていませんよ!」
一刻の猶予も許されない状態の私は、背中にダラダラと冷汗をかきながら叫んだ。
「お腹を撫でていたから、痛いのかと思って」
痛みを取ってくれようとする彼の気遣いは、この場ではまったくの無意味である。
「さっきの音で分かると思いますけど、私はお腹が痛いんじゃなくて空いているんです!」
「そうか」
先輩はチラリと私を見上げ、ポツリと呟いた。
これでお腹を押されることも終わりだと思いきや、なぜか先輩はさらに力を込めて私のお腹を押してきた。
「だ、だから手当は必要ないんですけど!」
「痛くないなら、ちょっとくらい強く押してもいいよね」
「はぁっ!?」
完全に食い違っている話に素っ頓狂な声を上げた瞬間、ふたたびクキュウと情けない音が耳に届く。
――うぅぅ……。一度ならず、二度までも聞かれるとは。
顔どころか耳まで火照らせていると、先輩が嬉しそうに呟く。
「やった」
「……は?」
「また聞けた」
どうやら、先輩は私のお腹の虫を鳴かせるために、押していたらしい。
なんでそんなことをしたのかと尋ねる前に、先輩は口角を少しだけ上げて微笑む。
「可愛い音」
鼻で嗤われるのも嫌だけど、嬉しそうな顔で可愛いと言われるのは、また違う意味で嫌だ。
地球の裏側まで達する深い穴を掘って埋まりたいと、私は本気で思った。
恥ずかしさといたたまれなさで俯いていたら、先輩がようやく私のお腹から手を外す。
その手を上着のポケットに移動させ、なにやら中をまさぐり始めた。
そして、スッとその手が私の前に差し出された。
大きな掌の上には、苺ミルク味のキャンディが三個載っている。
「あげる」
「え?」
手の平から先輩へと視線を映したら、切れ長の目が少しだけ細くなった。
「苺ミルク味、好きでしょ?」
確かに大好きな味なのだが、極度の羞恥から立ち直れていないせいで、すんなりと手を伸ばすことができない。
なかなか受け取らないでいると、先輩はその手を引っ込めた。
一個を取り上げ、パッケージをピリッと破る。
長い指でピンク色のキャンディを摘まみ、私の口元へと運んできた。
「はい」
「ふぇっ?」
まさかそんなことをされるとは思ってもいなかったので、私の口から間抜けな声が零れる。
食べさせてもらうつもりはさらさらなかったけれど、半開きになった唇の隙間にキャンディがソッと押し込まれた。
コロンと転がり込み、舌の上に苺ミルクの味が広がる。
――あ、美味しい。……じゃ、なくて!
「な、な、なに、するんですか!?」
私の大声に驚くことなく、先輩はパチリと一回瞬きをする。
「ぜんぜん動こうとしないから、俺に食べさせてほしいのかと思って」
さも不思議そうに首を傾げる先輩に向って、私はさらに大きく叫んだ。
「そ、そんな訳、ないじゃないですか!!」
私たちは単なる後輩と先輩という関係で、こんな風に手ずから食べさせてもらうような間柄ではないのだ。
お腹の音を聞かれたことも恥ずかしいが、先輩に食べさせてもらったことも恥ずかしい。全身の血が、グラグラと激しく沸騰しそうである。
なんでこんな目に遭わなくてはならないのだろうか。今日は厄日か!? そうなのか!?
奥歯をギリギリと噛み締め、自分の不運を呪う。
いや、兄を呪う。
――それもこれも、みんな馬鹿アニキが悪いんだ!
馬鹿アニキが馬鹿動画を送ってこなかったら、私のお腹は鳴らなかっただろうし、先輩に食べさせてもらうということにもならなかったはずだ。
「……馬鹿アニキめ」
ググッと拳を握り、それこそ呪いを掛けんばかりに低く呟くと、先輩が私の上着のポケットに残りのキャンディを滑り込ませた。
その上からポンポンと叩き、「あとで食べて」と言われる。
怒りが収まらない私はその言葉にどうやって返事をしようかと考えていたら、拳を大きな手が包み込んだ。
私の小さな右手が、先輩の手にすっぽりと覆われる。
その手をジッと見つめながら、先輩が静かな口調で話し始めた。
「今日は、本当に驚いたよ」
言葉の割に、少しも驚いているようには感じない。
この人の表情筋と心臓は、いったいどうなっているのだろう。
なにに驚いたのかと怪訝に思っていたら、先輩は私の手をキュッと握り締めた。
「俺としては、もう少し君と仲良くなってから、次の段階に進もうと思っていた」
先輩は僅かに間を空けてから、伏せていた顔をスッと上げる。
「まさか、君のほうからあんなにも積極的に」
「は?」
「おまけに、何段階も飛ばして」
「へ?」
「婚約一歩手前まで」
「ん?」
先輩の言葉に、私は色々と突っ込みたい。
君と仲良くなってからって、どういうこと?
次の段階って、なにがあるの?
そもそも、私と先輩は仲が良かった?
私のなにを見て、積極的と判断したの?
そして最大のツッコミどころは、『婚約一歩手前まで』という言葉だ。
私がいつ、どこで、彼に婚約一歩手前まで迫ったというのか。
あまりに驚きすぎて、キャンディの味が吹っ飛んでしまった。
返す言葉が見つからなくて呆然としている私に、先輩が照れくさそうに微笑みかけてくる。
「この前の、『俺と結婚したら』って話、真剣に考えてくれたんだね」
謎のセリフが、私に襲い掛かってきた。
なにがどう繋がって、先輩がそう言ったのか。まるで理解できない。
いや、結婚云々の話が記憶から抜け落ちているということではない。
ただし、それは本気で先輩と結婚するというものではなく、私がキノコと呼ばれないために苗字を変えるという冗談だったはずだ。
――な、なに、これ!? ……まさか、ドッキリ!?
今流行りのユーがチューブする動画サイトにアップするため、素人ドッキリの最中なのかもしれない。
私は隠しカメラを探り当てようとして、とっさに周囲を見回した。
その瞬間、私の手を握っている先輩の手に思いっきり力が込められる。
「いたたたたっ!」
拳を握った状態の手を包み込まれるように握られると、関節同士がぶつかってかなり痛い。
痛みから逃れようとしてとっさに手を引いたものの、先輩の手は私を離さなかった。
その代わり、私の悲鳴を聞いて、僅かに力が緩められる。
「俺を見て」
仕掛け人の先輩がドッキリとは思えないほど幸せそうに微笑んでいるのを見て、不覚にもちょっぴりときめいてしまった。