太平洋戦争開戦! 真珠湾攻撃
「しかしハワイ諸島は遠すぎる。占領するにしても補給がまともにできまい」
堀悌吉中将が懸念を示す。それもそのはず、日本とハワイ諸島は6,000キロメートル以上も離れていたのだ。
その問いに及川古志郎大将と山本五十六中将も黙ってしまった。まだ日本にはそのような船の量も、人員もいなかった。
その後、話し合いは夜遅くまで続き結局ハワイ占領は断念に追い込まれた。
大日本帝国、大本営は中国侵略を続ける日本に反発したアメリカが送ってきた「ハル・ノート」を読むや否やその人種差別的な内容に烈火のごとく怒り対米戦決行を決意、日米戦開戦初日に真珠湾を奇襲する作戦を承認する。真珠湾に停泊する米船舶の奇襲攻撃、すなわち日米開戦の日を12月15日とした。
1941年11月17日 大日本帝国・単冠湾
第1機動部隊旗艦・空母「天城」
「54番機、着艦します!」
真珠湾を奇襲攻撃することとなった帝国海軍の第1機動部隊はここ佐伯湾でまさに「月月火水木金金」という猛訓練を重ねていた。「天城」「赤城」が所属する第1航空戦隊は大日本帝国海軍航空隊のなかでも特に操縦技術の高い者だけを集めたいわゆるエリート部隊であり、質だけで言えば間違いなく世界一の航空部隊であった。その次に練度の高い第2航空戦隊には空母「飛龍」「蒼龍」が、第3航空戦隊には空母「扶桑」「山城」が配備されていた。ちなみに空母「扶桑」「山城」は4隻の軽空母「瑞鳳」「祥鳳」「飛鷹」「隼鷹」とともに第2機動部隊に配属されていた。そして常用搭載機数75機の帝国海軍最新鋭空母である空母「翔鶴」「瑞鶴」には操縦技術の1番低い第5航空戦隊が搭載されていた。練度の1番低い、と言ってもアメリカ軍のパイロットにしてみれば教官のようなレベルで、新米パイロットを撃墜するなど赤子の手を捻るように容易いことであった。なぜここまで質にこだわったか、理由は簡単である。物量ではアメリカをはじめ周りを囲む連合国に勝てっこないからだ。少数精鋭、そういう軍隊を作らない限りこの戦争には勝てないからである。
この日、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は出撃直前の部隊を激励するためここ佐伯湾を訪れていた。
「ち、長官!」
目の前に連合艦隊司令長官がいることを知った飛行機からおりてきた搭乗員は皆揃って目を丸くしながら慌てて敬礼をする。山本は大きく頷きゆっくりと敬礼をして返した。
「君たちは我が帝国海軍の誇りだ。この作戦の成否はこの後の我が全ての作戦の運命を決する。しっかり頼むぞ」
山本にそう言われた搭乗員たちは一層緊張した顔になりその大きな声を張り上げた。
「はい!」
大本営のとしては対米戦争は早期に終結させる予定であった。国力に決定的な差のあるアメリカと争っても勝てないということがわかっていたからである。
つまり日本はそもそもの戦争の目的である石油やニッケル、ゴムや石油が採取できる南方の地域を占領したのち西太平洋、北太平洋、インド洋において決定的な勝利をし、なおかつハワイを占領することによって早期にアメリカと日本に有利な形での講和条約を結ばんとしていたのである。
それに際して大本営は「新東亜秩序」の思想を打ち出す。日本という一つの国の下に東アジアが繁栄しようということである。そしてそれに続き占領した地域の開発に参加する民間企業の選定が行われた。
日本にしては東南アジア諸地域が何よりも早く国力の元になって欲しかったので南方に進出する企業は現地人日本人と同じ給料を払って奴隷化するなという厳重な命令が言い渡された。
「これで準備は全て整った…」
東条英機首相が民間企業の査定を終えた日、それはまさに太平洋戦争開始の一週間前を切っていた。
一方中国では日本政府と国民党政府の間で水面下での交渉が行われていた。アメリカという強大な国を打ち負かすために中国に国力を回してはいられない日本は日中戦争の終結を望んでいた。
平和協定は12月11日、開戦の4日前にギリギリでまとまった。内容は以下の通りであった。
一、日本政府は中国国内の軍閥政府への援助を停止する。
一、日本政府は日中戦争開戦前までの中国領土を承認する。
一、中国政府は満州国及び蒙古聯合自治政府を承認する。
一、日中両政府は連合して中華ソヴィエト政府の打破を行う。
一、中国政府は上海、寧波、広州を日中共同運営とし、同都市においての日本陸海軍の駐留を承認する。
このようにしてまとまった重慶条約により翌日の12月12日から日中戦争の全戦線において両軍間の交戦が停止し、翌々日から関東軍主力部隊の撤退が始まった。
一番驚いたのはアメリカである。もはや対日戦やむなし、という雰囲気が漂っていただけに緊張の頂点にいたハワイやフィリピン在駐のアメリカ軍兵士はなんだか腑抜けたようになっていた。
1941年12月13日、延安の共産党政権に向かって進撃を始めた日中連合軍は練度の高い日本陸軍歩兵の活躍もあり破竹の勢いで毛沢東を追い詰めて行った。
……そして運命の12月14日、小沢治三郎中将率いる第1機動部隊はハワイ諸島の北約230海里の地点に位置していた。
ワシントンの日本大使館は突然本国政府から宣戦布告の通知が渡されたので非常に慌てふためいて少し手こずったが、無事にアメリカ政府に対して通知を完了した。
……太平洋戦争の開始である。
1941年12月14日午前5時・英領マレー半島
「俺に続けぇ!!」
イギリス軍の沿岸守備隊の必死の抵抗の最中を帝国陸軍の第一次上陸部隊は橋頭堡獲得目指して突っ走った。その後は第二次上陸部隊も加わりその日の夜には橋頭堡を確保し、雷雨の中夜襲をかけて飛行場をも獲得した。なおこの時の上陸作戦で日本軍の輸送船淡路山丸がイギリス空軍の攻撃を受け撃沈され、日本軍の太平洋戦争における被撃沈第一号となった。
1941年12月14日現地時間午前7時・ハワイ諸島上空
「今回の攻撃は奇襲か…」
第1次攻撃隊隊長の淵田中佐は乗機の風防を開けて信号弾1発を打ち上げた。事前の打ち合わせで奇襲ならば信号弾を1発、強襲ならば2発と決まっていた。奇襲ならば雷撃隊が湾内の艦船に襲いかかり、強襲ならば急降下爆撃機が飛行場を爆撃する手筈となっていた。
しかし少し経っても雷撃隊が前に出ない。信号に気づかなかったのかな、と思って淵田中佐がもう1発信号弾を上げたところ急降下爆撃隊が強襲と勘違いして先行し始めた。
そして午前7時49分、淵田中佐が各機に対し「全軍突撃」の電文を打つと急降下爆撃機が次々と翼を翻してギラリと太陽の光を反射させていきながら急降下していった。
アメリカ太平洋艦隊司令長官のキンメル中将は飲んでいたコーヒーをこぼしそうになった、
「なにィ!?日本が宣戦布告しただと!?」
「はい…先程ワシントンから通達がありました」
電話の向こうの参謀の声は元気がなかった。彼も通信室からの電話で叩き起こされたのだろう。
「おそらく日本軍が最初に攻めるのはフィリピンだ…防衛を強化させろ」
キンメルかそう言った瞬間、フォード島方面から大きな爆発音が連続的に聞こえた。
まさか…
そのまさかだった。飛行場に綺麗に陳列された戦闘機が爆発するとその爆発で隣の機体のにも引火、爆発しもうすでにフォード島のホイラー飛行場は手のつけようのない状態になっていた。
「よっしゃ!奇襲成功!!トラ・トラ・トラ…やっ!」
そう言って淵田中佐が打ったこの打電は瀬戸内海の戦艦長門でも受信できたという。
それと同時にフォード基地司令官のローガン・ラムジー中佐は太平洋沿岸の全アメリカ海軍基地に警告を呼びかける電文を平文で打った。
“Air Raid Pearl Harbor, This Is No Drill !!”
「真珠湾空襲、これは演習にあらず!」
あっという間にハワイではあちこちで火災が起こり一面火の海と化していった。
そして8時6分、水平爆撃隊の九七式艦上攻撃機から投下された800キロ爆弾が真珠湾に停泊中の戦艦アリゾナに命中、8時10分に前部弾薬庫に引火し大爆発を起こした。
その後真珠湾に停泊中だった空母「サラトガ」「レキシントン」にも攻撃が集中し「サラトガ」は轟沈、「レキシントン」は大破炎上し攻撃終了後に消化されたが結果的にスクラップとなった。
こうしてその後の第二波の攻撃も受けた真珠湾は壊滅的な打撃を受け、石油タンクも破壊されたため経由地点としての役割も失ってしまった。
アメリカ側の被害は空母1隻撃沈、1隻大破、戦艦3隻沈没、3隻大破、戦死者は3,000人に上りった。
この攻撃が終わった頃東南アジアでも日本軍による空襲が始まり、ここでも米英軍は壊滅的な打撃を受けることとなる。