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第二次世界大戦開戦!

私は小学生の頃から戦闘機というものに憧れ、その中でも第二次世界大戦のものに特に興味を持っていました。それが発展して今では世界のありとあらゆる軍事に興味を持つようになりしまいにはアメリカ海兵隊への入隊を将来の夢とするようになりました。それで今回友達に第二次世界大戦の小説を少し書いてメールで送ったところ「お前これなんかに出せよ」と言われたのでここに投稿することになりました。投稿日は学校や部活もあるのでバラバラになるかもしれませんがよろしくお願いします。

1923年9月1日 東京

それは予期しない大災害であった。日本史上最悪の震災となったこの関東大震災はその大きな揺れとともにその後の風によって各地に飛び火した火災により甚大な被害をもたらした。

当時、海軍工廠では巡洋戦艦「天城」を航空母艦に改装する作業が進んでいたが不幸のうちの幸いと言うべきか、船体への損害は軽微で作業に大きな支障をきたさないと言う結論がなされた。

この大震災といい、後の昭和金融恐慌、そして世界恐慌と日本経済はこの後数々の困難を経験することとなる。


1929年10月24日 ニューヨーク

後に「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と称されるこのウォール街に置ける株価の大暴落は当時第一次世界大戦の影響からかつてない好景気を迎え、イギリスと変わって世界経済の中心となっていたアメリカの経済を失墜させるにとどまらず、アメリカ経済に依存していた世界各国の国々へ波及していき、全世界を巻き込んだ「世界恐慌」として一般的に知られるようになる。

この恐慌の影響を最も受けたのが先の敗戦国であるドイツであった。ただでさえ1919年に調印されたヴェルサイユ条約によって多額な賠償金、広大な領土の損失、強要された大幅な軍縮など屈辱的な状況に陥っていたのにも関わらずそこに世界恐慌が襲いかかったため、ドイツの経済は完全な混乱へと突入する。


1931年 中国 満州地方

様々な経済的危機や北米での排日移民法の成立を受けて貧困農民層の扱いに困っていた当時の日本政府の都合、そして何より中華民国と関東軍の間の対立構造の激化によって発生した満州事変によって日本軍は政府の非拡大政策を無視して満州地方への侵攻を開始。奉天など重要都市を次々に占領していき、翌年の2月までには全土の占領に成功した。

事変発生後すぐに満州の領有化から満州国建国へと方針を転換した関東軍の意向もあって清帝国最後の皇帝である溥儀を満州国の国家元首として擁立し、日本の支援の下実質的に日本の傀儡政権という形で満州国は建国された。

満州国は豊富な鋼鉄資源を抱えており、これは資源不足に常に悩まされていた日本にとって軍備の充実化や工業力の強化に利用できることが大いに期待された。


1933年 ベルリン

無名の極右政党としてのスタートを切った国家社会主義ドイツ労働党、通称ナチ党は今やドイツ国内で最大の政党に変わり、党首のアドルフ・ヒトラーはドイツ国内で大統領に次ぐナンバー2である首相に就任していた。

ヴェルサイユ条約によって傷つけられた国家の威信、そして世界恐慌やフランスのルール占領によってダメージを受けたドイツ経済を救済していくれると人々は信じていた。後の名将エルヴィン・ロンメルもこの時にヒトラーの支持を始めたという。


1935年 エチオピア

イタリアは先の大戦で戦勝国となりながらも当初予定していたフィウメ地方は結局新興国家のユーゴスラビアの領土に組み込まれ、さらには大きな割合で増加する人口と経済成長が比例せず失業者は増え続けていた。

このように日本と同じような状況に陥ったとき、イタリアのファシスト党を率い同国の総統ドゥーチェとして君臨していたベニート・ムッソリーニは新たな植民地獲得に動き出し、白羽の矢が立ったのが伊領エリトリアおよび伊領ソマリランドと国境を接していたエチオピア帝国であった。

この国はアフリカ大陸の中でリベリアと並び欧米列強に植民地化されていない数少ない黒人国家のひとつだった。そのエチオピア帝国をムッソリーニは「蛮族を文明化する」という大義名分で第二次エチオピア戦争を開始したのだ。

「第二次」というのも、イタリアは「第一次」に敗北しており、復讐精神を燃やしたイタリア世論も味方しており、何よりこの「蛮族を文明化する」という理由は英仏が植民地を獲得する時に使うものと全く同じであったため、これら国家からの非難は最小限に抑えられると予想された。

翌年、無事に勝利したイタリアはエチオピアをエリトリア、ソマリランドと合体しイタリア国王ヴィットーリオエマヌエーレ2世を皇帝とするイタリア東アフリカ帝国を建国。この行為について国際連盟加盟国であったエチオピアはこの行為を侵略行為として反発するが、国連内での意見は一致せずイタリアへの制裁は軽微なものとなった。



1937年 中国 盧溝橋

日本軍が夜間演習を行なっている時、突如として中国軍側から実弾2発が発射された。その後急いで集合を行なった日本軍だが、1名が行方不明(後に発見される)と報告されたため大規模な戦闘に発展し日華事変が開始した。

これに対し蒋介石率いる中国国民党政府と毛沢東率いる中華ソヴィエト政府は内戦状態にあったが、日本の侵攻に対して第二次国共合作を宣言。目前の敵よりも日本という共通の敵を打倒することを目標とした。

当初日本は日華事変の早期解決を目論み、戦局も日本有利に進んでいたが中国の広大な土地と中国軍の想像以上の抵抗に遭い戦闘は泥沼化していってしまった。

これに対し日本の外務大臣である宇垣一成は極秘裏に国民党政府内の幹部と面会し現実的な和平案の算出に成功。しかし近衛首相はさらに有利な条件を上乗せできるとして軍部に戦闘続行を指示した。すると昭和天皇が増加し続ける死傷者に不安を感じていることを陸軍大臣の板垣征四郎に打ち明けていることがわかったため、近衛も当初の和平案を承認。和平会談の交渉が始まった。


1938年 シンガポール

シンガポールにて集結した日中代表はシンガポール条約を締結。内容はイギリスの仲介もあり極めて中立なものとなっていた。

中国側は盧溝橋事件の責任を負い、謝罪を行うことと日本に対して優先的に鋼鉄資源を輸出することを条件とし、日本側に対しては占領地からの完全撤退と冀東防共自治政府の統治地域で中国への帰属問題を問う住民投票を行うことを条件に平和が実現した。


同年 ミュンヘン

オーストリアを併合したナチス・ドイツはドイツ系民族が住民の大半を占めるチェコスロバキアのズデーテン地方を要求。これに反発する英仏と仲介国のイタリアをふまえてミュンヘン会談が行われ、ドイツがこれ以上領土要求を行わないことを条件にズデーテン地方の割譲を容認した。

しかしヒトラーがこの要求のみで治るわけがなく、翌年にはハンガリーに南スロバキアを、残りのスロバキアは独立しチェコはドイツ保護領としてチェコスロバキアは完全に解体されてしまった。


1939年9月 モスクワ

世界は衝撃に包まれた。反共運動を展開し、日本と組んでソ連包囲網を形成しようとしていたドイツが共産主義勢力の総本山であるソ連と友好条約を結んだのだ。世に言う独ソ不可侵条約である。

この協定は公開された条項の他に秘密条項があり、独ソ両国の勢力拡大を容認する性格が含まれていた。


9日後 ポーランド

自由都市としてドイツ人が大半を占めるダンツィヒでは次第にドイツとの統合を求める声が高くなりつつあった。さらに飛び地となっていた東プロイセン地方と本土をつなぎドイツ系住民が多く存在していた「ポーランド回廊」の返還要求をドイツはポーランドに突きつけた。

これを受け入れると海への直接的アクセスが絶たれるポーランドは当然これを拒否。ヒトラーは今回も英仏の介入は小規模なものだろうと考えていた。


戦争は宣戦布告なしで行われたドイツ軍の急降下爆撃で始まった。ドイツのポーランドに対する宣戦布告を受けて英仏はついにドイツへ宣戦を布告し、ここに第二次世界大戦が勃発したのである。

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