四段目
ポケットに手を入れた委員長は、しかし、何も取り出さなかった。
ハンカチは、渡り廊下で使ったからだ。
俺はこの時ほど、ハンカチを持ち歩かなかった自分を、後悔した事はない。
涙を手でぬぐって、委員長はそれ以上泣くのを我慢した。
「もう知らない。鏡なんて、割っちゃえばいいのよ……!」
いつもの委員長からは、想像できないような強い声でそう言うと、彼女はおもむろに走り出した。
俺は慌てて委員長を追いかける。
委員長は、三階と四階を繋ぐ階段を見上げると、その足元に設置された消化器を持ち上げた。
それで割る気なのか?
だが、割れば破片が増えて、体が映り込みやすくなってしまう。
委員長は、ずっと持ち歩いていたカバンから、国語辞典を取り出した。
手摺を背にした委員長は、国語辞典を勢いよく、大鏡にぶつけた。
辞典は回転しながら、大鏡の下の方にぶち当たり、酷く耳障りな音をたてて、砕け散った。
すぐさま消化器を持ち上げた委員長は、少しもためらわずに、栓を抜いた。
ノズルから消化剤が吹き出し、大鏡の破片が白く染まって行く。
なるほど、これなら鏡に全身が映り込んだりしないだろう。
大鏡を割らなくてもいいんじゃないかと思ったが、鏡面に消化剤を噴射しても、段々と流れ落ちる危険がある。
さすが委員長。
思い切った行動には驚いたが、やっている事はとても理にかなっている。
これでもかと、消化剤を振りまいた後、委員長は、ハッと我に返った。
消化器を取り落とすと、一気に階段を駆け上がった。
俺も破片を踏まないように、委員長の後に続いた。
やっと、目的地に着く。
そこに導いてくれた、佐久間はいなくなってしまったが、俺達はどうにか職員室の前まで辿り着いた。
職員室のドアに、委員長が手を掛ける。だが、彼女が力を込める前に、ドアはガラッと音をたてて、開いたのだ。
「ひっ……!」
委員長がひるんで、目をつむる。
しかし、そこに待っていたのは、あの黒い影ではなく、一番最初に消えた筈の若葉だった。
「びっくりしたぁ!」
びっくりしたのはコッチのセリフだ。
とにかく無事みたいだ。髪留めがどこかへ行ってしまったのか、いつも結わえている髪が、フワリと広がっている。
「よ、よかった……! よかったよぉ。わたし、どうしようかと……」
「私は何がなんだか。でも、ひとりじゃなくてよかった!」
委員長が、若菜に飛びついて言った。若菜は、気が付いたら職員室の側で倒れていたらしい。
俺は少し後ろから、若菜と委員長が抱き合って、再会を喜ぶのを眺めていた。
若菜が無事で、本当によかった。と言う事は、これまで消えたみんなも、どこかに飛ばされているのだろうか。
「他の人は……? 職員室にいないの?」
委員長も、俺と同じ事に思い至ったらしい。
若菜に確認するが、彼女は申し訳なさそうに首を降った。
「職員室も、誰もいないの。でも、ヒントを見つけたわ」
そう言って若菜が取り出したファイルは、職員室から探し出した、ある事故についての書類がまとめてあった。
「なぜが、目に付く所に落ちてたの。普通なら、こんな時にって感じだけど、きっと無関係じゃないと思って」
屋上で起きた事故。やはり、本当にあったのか。
書類に書かれた関係者の名前は、黒く塗りつぶされている。
だが、何があったのかは分かった。
生徒Aが、生徒Bを何らかの理由があって、屋上に呼び出した。
だが、生徒Bは転校生だったため、生徒Aのいる技術棟の屋上ではなく、間違って教室棟の屋上へと出た。
生徒Aは、反対側の屋上で右往左往する生徒Bに気付き、大声で呼んで合図した。
生徒Bは、その声に引き寄せられるように、フェンスに近付いた。
生徒Aの声を聞きたかったのだろうか。
だが不幸な事に、フェンスのボルトが緩んでいたらしい。
生徒Bは、フェンスごと落下したらしい。
その後の詳細は書かれていない。生徒Aの為にも、高校の為にも、内々に事故として処理されたようだ。
だが、五階の屋上から落下して、無事でいられるとは思えない。
今でこそ厳しく管理されるようになったが、昔はそういう事故がまれに起きていたようだ。
まさか、自分の高校でそんな事があったとは思わなかった。
「こんな事があったなんて……。手招きする人が見えるって噂、もしかしてこの生徒Bなの……?」
「私もそう思ったわ。事故って言ってるけど、ボルトが緩んでたなんて、本当なのかしら」
「えっ……?」
「だって、生徒Aは生徒Bが転校生だと知っていたのに、ちゃんと場所を伝えなかったのよ? それって、酷くない?」
じゃあ生徒Aは、故意に生徒Bを教室棟の屋上へ行かせた?
大声で呼んで、ボルトを緩めたフェンスに誘導したっていうのだろうか。
「屋上から落とすつもりはなかったのかもしれないわ。悪戯のつもりだったのかもしれないし」
委員長が、胸に手を当てながら言った。
「きっと、さみしいよね。転校してきて、みんなと仲良くなろうと必死だったのよね」