第4話:ようこそ、我が家へ
7月に入りました、ただいま暑さで死にそうだ。
ええいっ、この暑さは何とかならんのか。
蒸し暑い教室で温くなり始めたカフェ・オレを飲みながら俺は学生向けの求人雑誌を眺めていた。
「おい、悠。お前、アルバイトを始めるつもりか?」
隣の席にいつのまにかいた南岡。
俺は暑さにダレつつも「おー」とやる気のない返事をする。
「いつまでもダラダラ過ごす気はないからな。アルバイトしようと思ってるんだが、どうにもいい仕事がない。時給の相場はいいとしても、案外と楽しそうなものがないな。どこかに金のいい裏稼業はないのか?」
「お前はどこの必殺する仕事人だよ。そうだ、これなんてどうだ?」
彼が指差したのは運送業のアルバイト。
トラックから荷物を運んだり、倉庫整理したりするという仕事だ。
「力仕事か。悪くはないが、結構大変だって聞くぞ」
「お前ならできるだろ。給料いいみたいだが、身体にかかる負担もまたしかり」
「うーむ。これはパスだ、暑いのは死ぬ。他に何かないものか」
この暑い夏を熱く過ごす必要はない。
出来る事なら冷房の効いた部屋での仕事を望む。
「近所で言うならコンビニとかどうだ?」
「それは既に候補に入ってる。だが、他にもないか調べているんだ」
時給と大変さを天秤にかけながらアルバイトを探す。
求人誌には高校生向けのアルバイトの特集が組まれて様々な職種がならぶ。
「そんなにアルバイトをしたいわけじゃないなら、別に無理してしなくても……」
「暇なんだよ、暇だ。毎日に張り合いなく、ダラダラと時間を費やすのは勘弁だ」
「お前はそういう性格だな。ゆっくり決めてくれ。……っと、これが本題じゃないんだ。おい、悠。お前、前にミサンガをファンからもらったと言ってただろ?覚えてるよな?」
「おぅよ、今でもつけているぜ?」
心優しいファンからのプレゼントだ、気にいってるのでまだ外してはいない。
「そのファンって子が昨日、うちの部を訪れてお前の事を尋ねていたぞ。最近練習に来てないことを不思議に思っていたらしい。それで、お前が辞めた事を言ったら、ショックそうな顔をしていた。一応、報告な」
「俺のファンがそんな事を言ってたとは何とも言えんな」
人から期待される事は嬉しいが、応えられなかった事は残念に思う。
「それで、相手はどんな子だった?美人か?」
「……お前はファンに対して容姿を求めるか?ん?」
「うぐっ。夢は夢、現実は現実。ロマンスはなさそうだ。つまりはそういうことか?」
「ははっ。そういうことだ、現実はそう甘くないな?」
軽く南岡に笑われてしまった、それが現実なのですか。
まぁ、いいんだけど……俺を応援してくれたことには感謝している。
「そろそろ戻るよ。部活に戻りたいならいつでも言え、今月中は受け付けてやる」
「無理だな。すぐにでも俺はバイトを決めるつもりだからさ」
「お前にはサッカーしかないと思ってるんだが。いつになったらやる気を取り戻すのやら。気が変わるのをのんびりと待つさ」
南岡には有難いと思う、今の俺にそんな事を言ってくれるのは奴だけだ。
未練はあるけど、今さら戻れるとも思えないのが現実だった。
今日は凛子も部活があるので、俺はひとり繁華街にある喫茶店に向かっていた。
店構えからしていかにも西洋風喫茶店、店の名前は……?
「ま?まりんず……違うな、まりーねす……分からん。何て読むんだ、あれ?」
看板には「Malines」と書かれているのは分かるが、英語なのか、フランス語なのか分からないので解読不能。
とりあえず、その喫茶店の中に入るとことにする。
「いらっしゃいませ~」
相変わらず、ピアノのメロディが流れるいい雰囲気だ。
二度目の来店、俺を案内してくれたのはこの前出会った女の子。
「あら、悠さんじゃない。こんにちは」
「こんにちは、舞姫さん。また来たよ」
舞姫さんは俺に気づくと穏やかな微笑をする。
可憐だな……長髪がよく似合う美少女だ。
つい彼女に見惚れて、惹かれてしまう。
「どうぞ、今日は恋人さんは一緒じゃないの?」
「違うよ、凛子は妹みたいな幼馴染で恋人じゃない」
「お似合いに見えたけどね?それじゃ、小桃さんとは?」
「それこそありえないな。あの姉妹のどちらか選ぶなら俺は迷わず凛子を選ぶよ」
それこそ、小桃さんを選ぶことはありえない。
魅力的な女性ではあるが、好意の対象ではないのだ。
俺は案内された席に座るとアイスコーヒーとマフィンをを注文する。
飲み物が来るまで求人雑誌を眺めていた。
うむむっ、どこかに冷房付きで美少女と一緒に働ける職場はないものか。
おっ、ここは制服が可愛いと評判のファミレスだ。
時給も高校生でもそれなりにいい、内容は……ふむふむ。
「お待たせしました。ん、アルバイトを探しているんだ?」
「あぁ、暇だからさ。何かしないとって探し中なんだ」
俺はアイスコーヒーを飲みながら雑誌をめくる。
すると舞姫さんは俺にある事を言う。
「あの、悠さんは部活とかしないの?体格もいいし、スポーツしてたんじゃないの?」
「ははっ。実は俺、サッカー部をやめたばっかりなんだよ」
「ぇっ……どうして、やめてしまったのかな?」
「よくある内部対立というか、部長と相性が悪くてさ。それ以上は続けられなかったんだ。だからこの夏は暇なんだ」
彼女は「そうなんだ」と俯いて言う。
俺はマフィンに手を伸ばす、中々の美味だな。
甘いものにはちょっとうるさい俺、この洋菓子はここのパティシエが作っているらしい。
そう言えば、ここの店の名前なんだろう?
「ねぇ、舞姫さん。この店の名前は何?看板の字が読めなかった」
「このお店は『マリーヌ』って言うんだ。ほら、あそこに文字が書かれているでしょ」
彼女が指差した場所には何やらフランス語で書かれている。
「あれは日本語で『我が家へようこそ』という意味らしいの。アットホームな雰囲気を演出して、それぞれ思い思いの時間を過ごしてほしいと店長が以前に言ってたわ。内装もそれに合わせて落ち着いたものになっているの」
「へぇ、そうなんだ。で、何で、まりーぬ?どう考えても人の名前だよな?」
「えっと、それは……」
「――それは僕が自ら答えてやろう。マリーヌは僕の愛する妻の名前だ」
いきなり俺達の前に現れた男、年は30代前半と言ったところか。
彼は何だか意味深なセリフを語る。
「僕の名は深井光太郎(ふかい こうたろう)、32歳、この店のオーナーだ。そう、マリーヌは僕の美しい妻だった……」
「誰もプロフィールなんて聞いてないし。ていうか、だった?まさか亡くなった妻の名前を店の名前に……?」
「いや、普通に元気で生きてる。今の時間は娘のリリーを幼稚園に迎えに行ってる最中だ。このお店を作るときに名前を考えていたら勝手に自分の名前を採用された。『私の名前にして(はぁと)』とね。ははっ、最愛の妻の笑顔には勝てないな」
「……なぜ目じりを拭いながら言う。不本意だが笑顔=脅されたのか」
どうにも彼は俺が小桃さんにやられてるような事をされているらしい。
気の強い女と付き合うとどういう将来を送るのか。
その悲愴感をたっぷりの彼の背中を見れば分かる、人生のいい教訓だ。
「でも、深井店長の奥さんって美人ですよね」
「ふっ、世の中、キレイだからと言って安易に結婚すると痛い目にあうんだよ」
「なぜだが、おっさんにはものすごく同情できるぞ」
これがアットホームという持ち味のお店のパワーなのだろうか。
初対面でありながら、何となく親近感を抱くこの店長。
「おっさん言うな、まだおっさんじゃない。おや、バイトを探しているのか?」
「このファミレスに決めようと思った所だ。女子の制服が可愛いと評判だし、ついでに彼女もできそうだし、さらに接客業って楽そうだからな」
「……テトゥワッ!!(黙れっ!)」
いきなり店長は俺に向けて怒鳴る。
何で怒られたのか俺は理解できずにポカンっとする。
て、とわ?何語だ、フランス語か?
「てめぇ、接客業をなめるなっ。人様の前に出て奉仕することがどれだけ大変なのか分かっていない。ただでさえベテランが次々とやめて接客の質はかなり落ちて、このお店も赤字経営寸前……またマリーヌに怒られる、しくしく。うぉあああ~!!」
何やら泣きそうになりながら経営状態に嘆く店長、どうしたこの人?
「……は?あ、あの、舞姫さん。どういうこと?」
「えっと……実はこのお店、立て続けに長年働いてきたスタッフが何人もやめてしまって、人材募集中なのよ。なので、『バイトを探しているならうちで雇ってあげる』と深井店長は言ってると思う。ですよね、店長?」
「どうしてもというなら、この店の立て直しに協力させてあげようじゃないか」
かなり強引な誘いだが、どうにも人手が足りていない様子だ。
それに何より可憐な美少女と同じ職場で働けるのは素晴らしいことじゃないか?
「そう言う事なら、舞姫さんもいるし、この店でバイトしてもいいかな」
「え?私?や、やだぁ、もうっ。悠さんって口が上手いんだから」
「うちの看板娘に手を出すなよ。特別に採用してやるが、名前は?」
「速水悠だ、深井店長。バイト未経験だけど、よろしく頼む」
特別に採用って人材不足で困ってるって言ってたくせに。
初アルバイトがあっさり決まった事にこちらとしては一安心だ。
「……よしっ、これで雑用係決定だな」
「ちょい待て、店長。今、何て言った!?」
「男なら力仕事と雑用って決まってるんだよ。ふぅ、マリーヌにいい報告ができそうだ」
「……妻以外の相手には強気なのな。女性の尻に敷かれる典型的なタイプだぜ」
そんなわけで頼りなさそうな悲壮感を背負う店長と可憐な美少女が店員の、妻に脅されて名付けられたという西洋風喫茶店「マリーヌ」が俺の新たな日常を作ることになる。
……のはずだったのだが、さっそく思わぬ騒動が起きることに。