大学生活
大きく息を吸って、吐く。
冬二は自宅のドアノブに鍵を差し込んだ。
夕勤バイト上がりで、時刻は午後十一時を回っている。辺りは真っ暗だ。その事実がさらに、冬二の手をセメントで塗り固めたかのように固定する。
(大丈夫。昨日は疲れていただけだ。幽霊なんていない。いわくつきなんてありえない。俺は優良物件を見つけた運の良いやつなんだ。そのはず……)
自分にそう言い聞かせ、もう一度深呼吸する。
「よし」
勢いよく鍵を回し、扉を開いた。
闇に覆われた室内がこちらを見つめる。ふと、冷えた風が暗闇の中から吹き込んできたように感じて、背筋にぞくりと悪寒が走る。
(気のせい、気のせいだ。心を強く持て)
「ここは俺の部屋だ!」
誰にともなく、そう宣言し、室内に強く足を踏み入れた。
玄関照明のスイッチを入れると、蜜柑色の光が小さく灯る。
誰もいない。
(いや、当たり前だろ)
朝、家を出た時のまま、洗濯物が脱ぎ散らかされていた。何者かが侵入した様子もない。
床に散った寝巻を洗濯機に突っ込みながら、リビングの白色灯を点ける。部屋全体が光に照らされ、冬二はようやく安堵の息を吐いた。恐る恐る、テレビに触れてみるが、昨日のような揺れも衝撃もない。
「今日は静かにしてろよ」
冗談っぽくそう呟くと、不思議と恐怖が薄れていくのを感じた。
(昨日の揺れが何かは分からんが、多分共振か何かだろ。駅も近いしな。……いや、あの時間帯に電車は通ってないか。まぁ、その内調べてみよう)
理系大学生っぽく、論理的な思考を巡らせてみる。
タンスから布団を引っ張り出し、床に敷いて、その上に腰掛ける。すると、気が抜けたのか、ドッと疲れが押し寄せてきた。
(さすがに連勤が続くとしんどいなぁ)
バイト先の人手不足もあり、彼は連日こき使われていた。仕事に慣れてきたとはいえ、まだまだ新人扱いだ。気を休める暇はあまり無い。加えて、この二年間机に噛り付いていただけの男には、体力という命綱がやや乏しかった。若さで色々誤魔化しているようなものだ。
鉛のように重い身体をどうにか持ち上げ、風呂に入り、歯を磨いた。家に帰る気が進まなかったのもあり、夕飯は外で済ませてきていた。
そそくさと布団に潜り込み、目を閉じる。照明は消さなかった。言い知れぬ不安が残っていたことと、何より、リモコンに手を伸ばすことすら今の彼には億劫だった。
「おやすみ」
空白の室内で、なぜそんな言葉を吐いたのか、彼自身理解していなかった。
大学生活が始まって約一月、未だ、冬二に友人と呼べる人間はいない。別段、人付き合いが苦手ということもないはずだが、幼馴染の陽咲に突き放されて以来、彼の中で何かが変わってしまった。会話に覇気がなくどこか上の空で、他人の言葉をしばしば聞き流してしまう。春の陽気に包まれた同回生たちは必然、雰囲気の異なる冬二に対して苦手意識を持つようになっていた。
見知らぬ土地で孤立無援。
気付かぬ内に、彼の精神は消耗していた。その残滓とも呼べる一言。言葉を交わす相手に餓えた心が、いつの間にか誰もいない空間に温もりを求めていた。
「カタンッ」
とどこかで小さく音がした。
冬二は、まるで返答を得たかのような気分になり、深い眠りに落ちていった。