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逆転

 代々木に着いたのは午後8時半である。駅前の大通りから細い路地を左に入り、しばらく行くと坂道に出る。これを登りきると突然のように閑静な高級住宅街が出現する。10分ほど歩いて、ようやくレンガ塀に囲まれた西野邸に辿り着いた。

 西野会長は息子と娘を同じ敷地内に家を建て住まわせている。門には三枚の表札が掛けられているが、南の表札はみすぼらしく、西野家における南の地位を象徴しているようだ。飯島は、チャイムを押した。しばらくしてインターホンから香織の声が聞こえた。

「どなたですか。」

「飯島です。会長にお会いしたいと思いまして。」

「こんなお時間にですか。あれから何かあったの、飯島さん。」

「南がたった今、事故で亡くなりました。」

香織は無言のままだ。しばらくして、門の扉が自動的に開いた。飯島は家と家を仕切る生垣の間を歩いた。混乱が体中を駆け巡っていて、頭の中は真っ白だった。ようやく玄関に辿り着き、重厚な木製の扉のノブを回した。


 そこには和服姿の西野会長が腕を組み、仁王立ちしていた。西野会長の後から香織が涙顔を覗かせている。飯島を見ると西野が叫んだ。

「南が死んだとは、どういうことなんだ。お前は何を企んでいる。」

「何も企んでなどいない。今から30分ほど前のことだ。車の中から、誰かが俺に拳銃を発砲した。幸い弾は当たらなかったが、犯人はそのまま車で逃走した。そして車はトラックに激突して燃え上がった。運転席から俺を銃撃した男を助けだした。すると、その男は南だった。」

香織が泣き崩れた。悲鳴のような泣き声だ。西野は口を真一文字に結び、目を見開いた。その目が徐々に赤く染まって行く。飯島は西野を睨みつけ、叫んだ。

「真っ黒焦げの南は、息を引き取る直前、うわ言のようにこう言った。俺は会長に操られていただけだと。この俺の左遷も会長の指示だと言った。これは、一体どう言う意味だ。えっ、会長さんよ。」

飯島は尚も睨み続けた。かつてこの人のためなら命を賭けてもよいと思っていた。その息子である現社長はともかく、会長だけは最後まで信じていたのだ。その会長が、何故。まったく信じられない事態だった。

西野の目が潤み、瞬く間に溢れた。涙は頬を伝って、ぽとりと床に落ちた。西野は肩を落とし、その真一文字に結んだ唇を震わせた。そして、その口から呻くように声が漏れた。

「南が今際の際にそう言ったのか。そうか、そう言ったのか。」

「そうだ、南はあんたに操られていたと言った。えっ、それはどういう意味なんだ。」

西野会長は、飯島の刺すような鋭い口調に、はっとして我に返った。気を取り直し、殊更張りのある声で答えた。

「何故、南がお前を狙ったのかは分からない。恐らく佐久間に操られたのだろう。警察に呼ばれた後、問い詰めたが要領を得なかった。何かあると思っていた。佐久間が関係していると感じた。一連の事件も奴が仕掛けている。間違いない。」

西野は涙を手で拭い、さらに続けた。

「しかし、南が言いたかったことは全く別のことだ。つまりこうだ。私は、南を香織の婿として迎えた。南にとって夢のような話だったはずだ。三流大学出身の男が一流会社の経営陣に迎えられたのだから。」

大きく息をし、続けた。

「例の産廃プロジェクトの失敗で、会社は潰れそうになった。俺は、その時、南の出番が来た。恩返しをしてもらおうと思ったんだ。」

こう言って、天井を睨み、顔をくちゃくちゃにして涙を堪えている。香織がわーっと大袈裟な泣き声を上げ、会長の袖に顔を埋めた。意外な話の展開に、飯島は呆然と立ち尽くした。

「何が言いたい。俺は南に、銃撃した理由を聞いた。その答えが、会長に操られたという一言だった。」

飲み込みの悪い生徒を諭す先生のように、会長は静かにゆっくりと言葉を発した。

「飯島、落ち着いて、良く聞け。さっきも言ったが、南は全く別のことを言いたかった。死ぬ間際になって、南は、かつて友人だったお前にだけは、本当のことを言い残しておきたかったんだ。」

西野はしゃくりあげ、洟をすすりながら話した。

「私は4年前、南に300人のリストラを命令した。南は相当悩んでいた。かつての先輩、同僚を切り捨てるのだからな。悩むのは当たり前だ。だが、或る時、南は人が変わった。私の期待に応えて、めきめきと実力を発揮し始めた。」

飯島は困惑気味に聞いた。

「それが、南の真意だと言うのか。操られたと言ったのは、そのことだと言うのか。」

会長は目を閉じ、往時を思い出している。

「ああ、そうだ。間違いない、私には分かる。私には荷が重すぎた。たとえ会社を救うという大義名分はあっても、社員の首を切るなど、とても出来ることではない。私は組織から退いた。そして南が私の代わりを務めたんだ。南にしてみれば私に操られたと思っていただろう。憎しみの矢面に立たされたのだから。」

涙ぐむ西野を見詰めながら、飯島は冷静さを取り戻しつつあった。南のうわ言の真意がようやく飲み込めたからだ。そしてこんな場面でも、事態を解説したがる西野という男の軽薄さが疎ましかった。自分の鋭さを披瀝しないではいられない軽薄さだ。

 とはいえ、飯島は、想像もしなかった事実と直面することになったのだ。それはリストラの本当の実行者は南ではなく、西野会長だったことである。西野に対する怒りがむらむらと沸き起こった。飯島は唸るように言葉を吐いた。

「みんな、あんたを信じていた。あの大不況のなか何年も歯を食い縛って頑張った。あんたを心から信頼していたからだ。あんたが失脚して、リストラが始まった。頑張った連中が軒並み犠牲になった。みんなあんたを信じて、部下達を引っ張ってきた連中だ。」

西野はぎょっとして、自分の喋り過ぎに思い当たった。南の突然の死を耳にし、頭が混乱していた。感情が昂りすぎて理性を失わせていたのだ。徐々に顔が歪んで、飯島を睨み据えている。飯島が刺すような視線を向けて叫んだ。

「そのあんたが、リストラを影で操っていたとは驚きだ。反吐がでそうだぜ。それに、何故、俺を左遷した。俺は誰よりもあんたを信頼し、誰よりも頑張ったんだ。」

西野は狼狽し、目の玉をぎょろぎょろと動かした。言い訳の出来ぬ状況に追い込まれ、本性を剥き出しにした。狡猾そうな目で飯島を睨んだ。開き直ったのだ。いや、飯島の反吐が出るという言葉に過激に反応した。

「ああ、お前は頑張った。誰もが認める。だからみなの視線がお前に集中していた。俺は、お前を中心にした不穏な動きを事前に察知したんだ。」

「馬鹿な、支社長が会議の後、集まって酒を飲み、おだをあげるのが、不穏な動きだというのか。確かに管理職ユニオン結成を言う奴はいた。俺を担ごうとする動きもあった。だが、俺は断った。群れるのは俺の趣味じゃない。それが不穏な動きとは、ケツの穴の小さい野郎だ。俺達が尊敬してやまなかった西野三郎はどこに行っちまったんだ。それが、こんな卑小な人間だったとは。」

西野は血走った目に憎悪を湛えて言い放った。

「何とでも言え。いいか、あれは俺が作った会社だ。俺は自分で作った会社を守りたかった。あのままいけば潰れるのは目に見えていた。経営者は時に冷酷になる必要があるんだ。そんな思いは、お前らに分からない。」

「自分で言った言葉を思い出せ。我が社ではリストラ犠牲者を一人も出さん。あんたはそう言って俺達を奮い立たせた。」

「みんな頑張ったと言うが、結局、収益は上がらなかった。時間がなかった。」

「時間がないから、給料の高い順に首を切ったってわけか。えっ、そんな馬鹿な話があるか。」

飯島はあきれ果て、卑しく、みすぼらしい老人を睨んだ。そして叫んだ。

「あと一年、あと一年頑張れば、挽回できた。産廃プロジェクトに曙光が見え始めていた。何件もの引き合いがきていた。俺だって3案件抱えて折衝を重ねていた。もし、一年待てば、あんたは一人の犠牲者を出さずに難局を乗り切った経営者として賞賛を浴びただろう。」

「案件数はあった。しかし、実績には繋がらなかった。あのまま行けば倒産だった。」

「違う、俺達は市場の手応えを肌で感じていた。支店長会議でも皆そう発言したはずだ。現場にこそ経営の指針がある。その現場主義はあんたが俺達に教えた。あんたは現場を離れてその感を失っていたんだ。」

「飯島、現実はそう甘くない。リストラのタイムリミットはとうに過ぎていたんだ。」

飯島の怒りが爆発した。

「貴様は恥ずかしくないのか。二人も自殺者を出した。貴様が殺したんだ。佐久間が狂ったのも貴様の責任だ。佐久間はリストラの実行者になって狂ったんだ。」

「そうだ、最初、俺は佐久間に期待した。しかし、奴はまるでカタツムリみたいな動きしかみせなかった。それでは間に合わない。私の苛立ちは頂点に達した。所詮、佐久間には無理だった。だから佐久間を捨てた。犠牲になってもらう他なかったんだ。」

この言葉が終わるか終わらないうちに、外で銃声が響き西野の額に穴が開いた。そこから一筋血が流れ、後の屏風が真っ赤に染まった。西野の見開かれた目は誰かを凝視している。そして、西野の体は後ろに仰け反った。

 飯島は、咄嗟に右に飛んだ。銃弾は飯島を追うように何発も発射され、一発が香織の腰に命中した。きゃーという叫び声が響いて、香織も倒れた。パジャマに血が広がってゆく。 

飯島は、銃撃が止んだ隙に、香織を玄関横の応接室に引きずり入れた。喉に指を当てると鼓動はある。どうやらショックで気を失っているらしい。奥で人の声がする。警察に連絡しているようだ。

飯島は部屋を出ると、僅かに開かれた扉から外を窺った。男が、門扉を乗り越え道路に飛び降りた。飯島も玄関から飛び出し、植え込みを走り抜けた。大きな庭石に駆け上り、一気に塀を飛び越し、男の行方を窺ったが、影も形もない。

角まで走り、そこから通りを見ると、片足を引きづり、佐久間が歩いている。振り返りつつ車に乗り込んだ。助手席に入ったということは、竹内が車で待機していたのだろう。車はエンジン音を轟かせ走り去った。飯島は立ち尽くすしかなかった。


 翌日の夕刻、飯島は章子の携帯に電話をいれた。殆ど衝動的にその番号を押したのだ。どうしても話がしたかった。ぽっかりと開いた心の空洞を理解してくれるのは章子しかいなかった。受話器を握り締め、飯島はその声を心待ちにしていた。

「もしもし、手塚です。どちら様ですか。」

懐かしい章子の声が響いた。飯島が名乗ると、章子は溜息をつき、ことさら冷たい口調で答えた。

「あなた、よく電話できたわね、散々私に恥をかかせておいて。それにまだ勤務中よ。」

「ああ、分かっている。兎に角、ご免、あの時、女房に逃げられて最悪の状況だった。女房は妊娠していた。俺の子供じゃあない。医者に調べてもらったら、俺は種無しだった。そんな時、君から電話があったんだ。」

「なる程ね、漸く謎が解けたわ。貴方が何故あんな怒り方をしたか。」

「ところで、お腹の子供は元気か。」

暫く沈黙が続いた。

「堕胎したの。」

と言って深いため息をついた。そして少し興奮したように言った。

「全く、それまで順調に行っていたのに、突然、愛しの君が現れるんだもの。佐久間と離婚してから、今勤めている会社の人とお付き合いしていた。相手もバツ一だし、結婚を前提に付き合っていたの。貴方が現れてからも、ずるずると関係していた。恐らくその人の子供だったんだわ。でも、その人とも別れるしかなかったの。」

と言って、さめざめと泣いた。その切なそうな泣き声を聞いて、飯島は自分の身勝手な激情を悔やんだ。

「申し訳ない。どうも君と俺はすれ違いばかりだ。本当に申し訳ない。」

飯島は章子の心が落ち着くのを待った。しばらくして、章子の泣き声が止んだ。

「それから、信じられないことだが、昨日、南が死んだ。そして西野会長も。テレビによると南の女房は一ヶ月の重症だそうだ。」

「何を言っているの、あなた。それどういうこと。会長が、南が死んだですって。何故、信じられない。」

章子の所憚らぬ嗚咽に、飯島も思わず涙を誘われた。飯島は西野会長と共に歩んだ日々、懐かしい時代を思い出していた。その一コマ一コマが走馬灯のように目の前に浮かんでは消えた。

 飯島だけではない、誰もが、この20年、西野会長と共に歩んだことに誇りと喜びとを感じていた。皆、彼の心意気に燃えたのだ。会長は常に営業の最前線に立ち、社員一人一人に話しかけ、勇気付けた。それが営業マンを奮い立たせたのだ。


 その会長が、実は大リストラの実行者だった。息子と南を裏で操り、彼に忠誠を尽くした男達を裏切り続けたのだ。飯島の脳裏に倉庫で黙々と作業する哀れな男達の姿が浮かんだ。そんな苦い思いを押し殺して口を開いた。

「本当に信じられないことばかりだ。西野会長を殺したのは佐久間だ。あいつは狂っている。」

章子が答えた。

「ええ、佐久間が狂っていることは確かよ。あの人は或る時期から本当に狂ってしまったの。あのリストラからよ。最後には暴力をふるうようになったわ。」

「そうか、そこまで行ったのか。ところで、今日、会えないか。どうしても話しがしたい。」

「駄目よ、貴方は自由に時間はとれるでしょうけど、今日は残業になるの。でも明日はお休みよ。朝10時頃電話するわ。この携帯にかけるわ。」

「ああ、わかった。待っている。どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ」

飯島は電話を切った。


 翌朝、飯島は池袋のビジネスホテルで寝ていたが、携帯電話の呼び出し音で起こされた。章子だと思い、携帯を耳に当てると、意外にも佐久間の声が響いた。

「おい、飯島。もう朝だ、起きろ。」

「おい、おい、佐久間さんか。良かった、あんたと話がしたかった。」

「俺は話などしたくない。何故、お前の携帯の番号が分かったと思う?」

飯島は最初、質問の意味が分からなかった。だが、すぐに思い当たった。新しい携帯の番号を知っているのは箕輪と章子だけだ。

「おい、佐久間、章子さんに手を出したら許さんぞ。愛子ちゃんのことも考えろ。」

佐久間が怒鳴った。

「愛子のことなんてどうでもいい。いいか、章子は、ここにいる。声を聞かせてやる。」

しばらく呻き声が聞こえた。その後、はっきりとした章子の声が響いた。

「飯島さん、この人は本当に狂っている。助けて、お願い」

ここで受話器が章子の口から離されたようだ。章子の「愛子は本当に貴方の子供なのよ。あんた、正気に戻って。私を信じて。」と佐久間に叫ぶ声が洩れ聞こえてくる。その声が突然途切れ、佐久間が出た。

「おい、お前の大事な恋人を俺が預かっている。今夜、会おうか?」

「ああ、会おう。何処に行けばいいんだ。」

「場所と時間は、深夜0時に電話で指定する。携帯の電源を入れておけ。いいか、警察に知らせれば、元夫婦が無理心中するだけのことだ。」

飯島は声を殺して言った。

「佐久間さん、傍に誰かいるか。」

「いや、俺だけだ。」

「いいか、よく聞けよ。佐久間さん。俺が愛子ちゃんの父親でないという証拠を持っている。それを見ればあんたも納得いくだろう。」

佐久間は沈黙した。飯島は反応を待った。佐久間が答えた。

「そいつも持って来い。」

突然電話は切られ、ツーツーという音だけが耳に残った。

 

 佐久間は築地に建設中のビルを指定してきた。勝鬨橋の手前からそのビルが見えてきた。車をゆっくりと近づけてゆく。ニシノコーポレーションの看板が鋼鉄の塀に掲げられている。地下2階地上18階、剥き出しのコンクリートの塊が暗い夜空に聳えていた。

 工事関係者の入り口のドアを押した。鍵はかかっていない。所々に裸電球が灯され、薄暗闇の中、地下への階段が数メートル先に見える。佐久間の指示はそこから地下二階の駐車場スペースまで下りてこいということだった。

 飯島は拳銃の安全装置を外し、ゆっくりと階段に向かった。一階からさらに二階の踊り場まで進むと、鉄扉が開けられているのが見えた。既に佐久間等は準備万端整っているようだ。そこから入って来いということらしい。

 半開きのドアに触れずに擦りぬけた。駐車場は真っ暗で、非常口のグリーンの明かりが左前方に見える。しばらく進むと後でドアがバタンと閉められた。じっとして暗闇に目を慣らした。後から足音がして、飯島の5メートル横を足早に歩いてゆく。

 果たして向田は、その後も竹内と佐久間に協力しているのだろうか?そこが問題だった。香織をを通じて向田に圧力を掛けておいた。竹内は左肩負傷、佐久間は少なくともまともに歩ける状態ではないのだから付け入るとすればその点だろう。しかし、向田が奴等に加わっているとすれば、飯島に勝機はない。どうあがいたところで、殺されるだろう。その時は、その時と、腹を括るしかないかもしれない。

 ぼーっとした暗闇に、濃い影が浮かび上がった。10メートルほど先に高さ3メートルほどの脚立が置かれている。その上に章子らしい人影が見える。ぶるぶると震えているようだ。首にロープが巻かれ、ロープは天上まで伸びている。


突然、飯島はサーチライトの強烈な光に照らし出された。一瞬、暗闇に慣れた目が再び視力を失った。手をかざして光の方をみると、佐久間らしき男がサーチライトの後から姿を現し、脚立に近付いて、その横に立った。佐久間の声が倉庫全体に響いた。

「飯島君、誉めてやるよ。愛する女のために犠牲になる。見上げた根性だ。以前からお前のその根性を評価していた。しかし、それが命取りになったな。」

飯島は、目を瞬かせ目の回復を待った。ちらり章子の様子を窺がった。ガムテープで口を塞がれ、後ろ手に縛られている。逆光でよく見えないが、すがるような視線を飯島に向けているようだ。飯島は心の中で謝った。君を巻き込む気などなかったのだ。

 飯島はゆっくりと佐久間に近付いて3メートル前で立ち止まった。佐久間の手には拳銃が握られ、その銃口は飯島の顔に向けられている。

「さあ、手に持っている拳銃を渡すんだ。」

飯島は銃をくるりと回して握りを前に向けた。佐久間はゆっくりと近づきそれをむしりとって、尻のポケットにねじ込んだ。そしてゆっくりと後退してゆく。

「それでいい、飯島君。それでこそ男だ。彰子は既に覚悟を決めている。さあ、ショウの始まりだ。高みの見物としゃれ込んでくれ。」


飯島は、はっとして章子を見上げた。佐久間がしゃがみこみ何かのスイッチを入れた。モーターの音、そして鎖の擦れ合う音。その時、大きな音を立てて脚立が倒れた。飯島の口から悲鳴とも怒声ともとれる声が漏れた。

「佐久間、なんていうことをする。止めろー」

章子の体が左右に揺れている。何度も何度も体を蠢かせ、そして最後には動かなくなった。怒りで飯島の体はぶるぶると震えた。絶望が胸を締め付け、憎悪が体中を駆け巡る。両手を組んで、震える指先を押さえ込んだ。冷ややかな佐久間の声が響いた。

「あの時、言ったはずだぞ。俺を殺さなかったことを後悔させてやるとな。またしてもお前は、判断をミスった。あの時、俺を殺してさえいれば、章子も死なずにすんだのだ。」

飯島は狂った佐久間の言葉など無視し、怒りを押し殺しながら言った。

「何故、和子を殺した?あいつは俺と離婚していた。俺とは何も関係なかった。」

一呼吸して叫んだ。

「何故、章子を殺した?いいか、愛子ちゃんはお前の子供だ。その母親をお前は手にかけた。狂ってる。」

佐久間がせせら笑いながら答えた。

「飯島君、俺は君に地獄を見せたかった。和子さんと別れてからも、君は家で和子、和子と呼び続けた。君の悲しみは、いずれ時間が解決しただろう。だから、時間が経たないうちに、和子をこの世から抹殺してやった。それに愛子がお前の子供だと言う証拠も揃っている。お前の寝言など聞く耳を持たない。」

飯島が怒りに震えながら叫んだ。

「この気違い野郎、てめえなんて地獄に落ちろ。たとえ殺されてもお前を地獄に引きづり込んでやる。」

にやりとして佐久間が怒鳴り返した。

「ふざけるな、この間男が。いいか、よく聞け、飯島。俺は今、地獄の真っ只中で生きている。あの世の地獄も楽しみにしているくらいだ。いいか、お前が俺に地獄を見せたんだ。お前は、俺の愛する者全てを奪った。愛子まで奪ったんだ。だからそれ相応の地獄をお前に見せてやった。」

飯島は言葉を失った。佐久間が悪魔に魂を売り渡していることを悟ったからだ。佐久間が、笑いながら叫んだ。

「さて、飯島君。私の協力者を紹介しよう。今回の章子誘拐の立役者だ。もっとも、西野家で、最初にお前を撃っていれば、こんな面倒なことはしないで済んだ。だが、西野会長の言葉についかっとなってしまった。」

ふと、遠い目をしてため息をついた。そして呟いた。

「まったくあんな奴に身も心も捧げてきたなんてお笑い種だ。しかし、南が俺のことをカタツムリと言って馬鹿にした訳か漸く分かったよ。全く。」

自嘲するように顔を歪めると、叫んだ。

「おい、出て来い。」

サーチライトの光の陰から一人の男がおずおずと顔を出した。強烈な光が竹内の脂ぎった顔を浮かびあがらせた。竹内は拳銃を携えながら、ぼそっと言った。

「悪いな、飯島、こんなことになって。今の俺は金が全てだ。金のためなら何でもやる。」

飯島は憎憎しげに竹内を睨みつけた。そして言った。

「ふん、お前にぴったりの言葉じゃないか。そう、お前には金しかない。金でしか何物も得られない。そんなつまらん男だ。」

「俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ。泣きを見るのはお前なんだよ。それをこれから分からせてやる。」

「ああ、結構。分からせてくれ。もう覚悟は出来ている。」

そう言った直後、飯島の脳裏に、ふとある疑問が浮かんだ。それを聞いた。

「おい、竹内、一体全体、何故、南がお前等の協力者になったんだ?」

佐久間が怒鳴った。

「そんなことお前が知る必要はない。時間稼ぎしようとしても無駄だ。いえることは、こういうことだ。誰にでも魔が差す心の隙があるってことだ。」

どうやら、この疑問はあの世に行って南に聞くしかないようだ。飯島は冷静になるよう努めた。相手のペースに乗っていてはチャンスを作れない。それを崩すことだ。それには、例のものがぴったりだ。飯島は小声で佐久間に語りかけた。

「佐久間さん。電話で言った証拠がこの胸のポケットに入っている。さあ、これを受け取れ。」

佐久間の狂気に満ちた目が、一瞬正気に戻った。拳銃をむけたまま、飯島に近付き、革ジャンの内ポケットを探った。そして封筒を取り出した。

飯島は病院に精子を送って、診断書を郵送してもらった。人前で惨めな思いをしたくなかったからだ。だが、それがかえって良かった。そのぼろぼろの封書の中には八王子の総合病院、徳光病院の診断書が入っている。その信頼性は高い。


 佐久間が診断書に見入っている。頬がぴくぴくと小刻みに動きだした。次第に般若のような顔に変わっていった。佐久間は振りかえり、竹内に向かって叫んだ。

「いったい、これはどういうことだ。DNA鑑定では、愛子は飯島の子供だと判定された。しかし、この診断書は飯島を種無しと断定している。おい、竹内、これはどういう訳だ。」

一瞬、竹内の視線が揺れた。そして、さっと銃口を飯島から佐久間に変えた。そして怒鳴った。

「佐久間、動くな。左手の指先で拳銃をつまんで捨てろ。」

佐久間はお構いなしに拳銃を竹内に向けようとする。すかさず、竹内が叫んだ。

「真実が知りたくないのか、佐久間。言う通りにするんだ。そうすれば本当のことを教えてやる。」

佐久間は竹内を睨みつけながら、ゆっくりとした動作で拳銃を闇の中に放り投げた。竹内が笑いながら言った。

「おい、佐久間、ケツのポケットにしまった飯島の拳銃もよこすんだ。」

竹内は佐久間に近づき拳銃を抜き取った。竹内が顔を飯島に向け喋り始めた。

「佐久間は肝臓ガンで後半年も生きられない。佐久間は最初、飯島、お前を信用しきっていた。お前を保険金の受取人にするほどな。お前なら、その保険金を愛子が成人するまで上手く管理してくれると思ったからだ。今、愛子に金を残せば、章子が潤うだけだ。どうしても章子には渡したくなかった。」

その声は何故か弾んでいる。息使いも荒い。漸く主導権を握れた喜びで有頂天になっているようだ。飯島は、センターの食堂で、佐藤に白髪を抜かれたことを思い出した。

「つまり、お前がDNA鑑定でイカサマをやったのは、その保険金を自分のものにするためだった。愛子が俺の子供となれば、保険金は中に浮く。しかし、鑑定書を偽造するなら、何も、本物の俺の毛を使う必要はなかったはずだ。」

「ああ、そうだ。俺のでもよかった。しかし、もしかしたら佐久間の言うとおりかもしれないとも思ったのさ。もし、そうだったら鑑定書を偽造する手間を省ける。」

「なるほど、そして復讐を遂げるために佐久間はお前の助けが必要だった。そしてお前は、保険金の受け取り人になったというわけか。」

「まあ、当たらずとも遠からずってとこだ。佐久間の保険金は3億だ。これを手に入れるのにだいぶ頭を絞ったよ。最初にやったことは、佐久間にお前と章子がホテルに入るとことを見せてやることだった。」

飯島が唸った。

「ふざけやがって…」

「まったく、お前には悪いことしちまった。佐久間の最初の計画は、香織を強姦することと、そして石倉を捕らえて締め上げる程度のことだった。殺す予定はなかったんだ。だけど、お前と章子がホテルに入るのを見た途端、佐久間は、本格的に狂っちまった。」

「なんて奴だ、なんて卑劣な人間なんだ、貴様と言う奴は。」

「はっはっは、許せ、許せ、飯島、全ては金のためだ。お前の奥さんには気の毒したと思っているよ、俺もな、途中から、生贄に選ばれちまったんだから。でも、お前の奥さんを襲うのを手伝ったが、佐久間は、まだ俺を受取人にすることを渋っていた。」

飯島が怒鳴った。

「ふざけやがって、この野郎。許さんぞ、絶対に許さんからな。」

竹内はにやにや笑いながら言った。

「飯島、そう興奮するな。お前の悪い癖だ。話はまだ途中だ。DNA鑑定の結果を見て、佐久間はさらに本格的に狂っちまった。殺してやる、みんなして俺をコケにしやがって。みんな、ぶっ殺してやるって叫んでいたっけ。おかげで、狙った通り、佐久間は自分に掛けていた保険金を俺に差し出す気になった。」

そう言うと、満足げに頷きながら、佐久間を見た。佐久間の目は、屈辱と憎悪で赤く濁っていた。その目で竹内を睨んでいる。竹内はゆとりで応えた。

「そうそう、佐久間さんよ、あの鑑定書は偽物だ。実は、愛子はあんたの本当の子供だったわけ。はっはっはっは」

突然、佐久間が奇声を発して、竹内に飛び掛かった。銃弾は3発発射され、佐久間の胸のあたりを赤く染めた。佐久間の伸ばされたその手はとうとう竹内には届かなかった。ぼろ雑巾のように床に転がった。竹内が飯島に言った。

「そう驚くな。最初から、佐久間は俺が殺すことになっていた。それも佐久間の意思だ。その順番が少し狂っただけのこと。つまりこういうことだ。佐久間がお前を殴り殺す。その後、思いを遂げた佐久間を俺が冥土に送ってやる手筈だった。そして最後に、佐久間を撃った拳銃は、死体となったお前に握らせるという手順だ。」

「そんな子供だましのことで警察を騙せるものか。既に警察はお前が和子襲撃に加わったことも、ホテルで俺を銃撃した事実も掴んでいる。保険金を受け取れると思っているのなら甘い。」

「そんなに俺のこと、心配するなって。保険金の受取人は俺の妹だ。妹と俺は一心同体だ。とりあえず、妹は佐久間の内妻ということにしてある。それに、この胸には偽のパスポートも用意されている。大仕事の後だ。しばらく海外で休暇ってこと。向田がすべて用意してくれている。」

「やはり向田敦は仲間だったわけだ。」

「ふっふっふっふ、いいか、飯島。向田はなあ、腹違いの弟の兄貴分だ。腹違いの弟とは、ホテルで死んだ男のことだ。つまり向田も俺の協力者だ。奴は金さえ出せば、殺し屋の手配でも何でもやってくれる。」

一瞬、殺された和子を思い出し、かっとなったが、そんな感情を押し殺して、飯島は呆れ顔で言った。

「まいった、まいった。竹内さんよ、あんたがそんな悪党だなんて想像もしなかったよ。」

竹内は満足そうに微笑みを浮かべながら答えた。

「ああ、俺もびっくりしているくらいだ。もっとも、石倉をやる時は、膝ががくがく震えた。正一がいてくれて助かったよ。奴がいなければ、ああは上手くいかなかった。しかし、一度、壁を越えると後は楽なもんだ。そうそう、もう一人、あの殺しには協力者がいたんだ。誰だと思う。」

「ふん、そんなこと誰だって分かる。南だ。」

「そう南だ。南が石倉を殺しの現場まで来るよう、携帯に電話した。奴はタクシーを使って駆けつけた。俺がいるので不安そうにしていたが、南は後から来ると言うと奴も納得した。石倉は何の疑問も抱かず、西野社長を陥れ、南を社長に担ぎ出す嘘八百の俺の話にほくそえんでいたっけ。椅子に座って俺とカップ酒を飲んで話していたんだ。」

「その後から正一が縄を首に掛け、一気に吊り上げたってわけだ。」

「ぴんぽん。正解。最初、吊り上げられて、奴は何が起こったか分からなかった。目だけひん剥いていた。だが、佐久間が車椅子に乗って笑いながら姿を現すとすぐに了解した。その時の、奴の哀れな顔が忘れられない。本当に気の毒だったよ。」

と言って、声をあげて笑った。勝ち誇ったようなその顔は、竹内にとって一世一代の晴れ舞台のそれである。だらしなく口が開いた。

「そうそう、南の銃はちっとも当らなかっただろう。あれは空砲だ。あれで嚇しておいて、その後、安心しきったお前をホテルで襲う手はずだった。まさか南が事故を起こし、お前が代々木にぶっ飛んで行くとは思いもしなかった。しかし、何しに行ったんだ。」

「別に。ひさびさに会長のご尊顔を拝みたくなっただけだ。」

これを聞いて、またしても笑い転げた。そうしている間も竹内は相変わらず銃口を飯島の胸に向けている。何か良い方策はないものかと辺りを窺がった。

眩しいライトの光を遮るように手をかざして視線を落とすと、暗闇の中に、濃い黒い線が見えた。サーチライトの電源コードが、飯島の足元を這っているのだ。幸いサーチライトの光は飯島の上半身に向けられていて足元まで届いていない。左足でコードを押さえ、右足のつま先で持ち上げ、それを踝に巻きつけた。

飯島はいちかばちか、賭けに出ることにした。飯島はぎょっとして竹内の右後方に視線を向けて叫んだ。

「箕輪、やめろ、奴は銃を持っている。」

竹内は一瞬驚いて後を振り向いた。飯島はコードを右の踝に巻き付けたまま、佐久間が銃を放り投げたあたりに向かって飛んだ。

 竹内は振り返り、すぐさま引きがねを引いたが、銃弾は飯島の腰のあたりをかすめ床に当って弾けた。竹内が、ごろごろと転がる飯島を視線で追いながら、銃を構え直した時である。突然、サーチライトが竹内に向かって倒れてきた。

 咄嗟に体を引いてそれを避けた。ガチャンとガラスが弾ける音がして、サーチライトの光は消えた。暗闇が倉庫全体を覆った。竹内は銃を撃とうと身構えたが、強烈な光で目をやられ、しばらく動けなかった。

 飯島は体を回転させ壁際に逃れた。幸い、佐久間の拳銃は体を回転させている途中で背中に当った。運が良かったのだ。沈黙が暗闇を支配した。

 飯島は息を殺し、暗闇に目を慣らそうとするが、サーチライトの光りが瞼の裏にまだ残っている。瞼を閉じて残像が消えるのを待った。

最初に行動を起こしたのは竹内である。拳銃を闇雲に撃ちまくり、そのうちの一発がコンクリートの壁に弾けて飯島の耳を掠めた。しかし、カチッカチッという金属音が響き、銃弾は五発目で途絶えた。竹内の声が響く。

「ふ、ふ、ふ、銃火がちらりとお前の影を映し出した。」

 竹内は撃ち尽くした空のカートリッジを床に落とし、予備を装着した。銃を構えて最初に発砲した時だ。飯島はこの瞬間を待っていた。飯島は竹内の銃火の残像に向かって佐久間の銃を撃ち尽くした。カチ、カチという撃鉄の音が響く。

 竹内が倒れる音がした。飯島はゆっくりと近づいていった。暗闇に慣れた目に竹内の死体がぼんやりと浮かんだ。飯島は竹内の体を足で蹴った。ぴくりともしない。飯島は溜息をつき、へたり込んだ。ようやく全てが終わった。そう感じた。

 飯島はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。深呼吸して煙を肺に送り込んだ。全てが終わったのだ。急に拳銃が重く感じられ、指の力を抜くとそれはぽとりと落ちた。みんな死んでしまった。和子も南も、そして佐久間も。飯島は深いため息をついた。

 突然、竹内の骸がむっくりと上体を起こした。飯島は目を見開き凝視した。咥えた煙草がぽとりと落ちた。竹内は両手で顔をごしごしと摩った。ポケットをまさぐり、ライトを取り出すと、自分の顔を照らした。そして飯島に向かってにやっと笑った。

 背筋に悪寒が走った。鳥肌が立った。どうなっているんだ。これは現実だろうか。あれだけ銃弾を浴びて生きているなんて信じられない。背後で音がした。ごそごそという音だ。恐怖で引き攣った顔をおずおずと後方に回した。

 竹内が飯島の背後にライトを向けた。その瞬間、飯島は悲鳴をあげそうになった。章子が飯島の後ろに立っていたのだ。飯島は、目を剥いて体を硬直させた。その瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じた。


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