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 5日前、石川から竹内が東京に向かったという連絡を受けた。奴らが動き出したのだ。石倉の次が飯島であることは間違いない。その時、石川はもう一つ、臼井爺さんからの情報を付け加えた。ニシノコーポレーションから臼井建設を通して竹内に大金が流れたというのである。

 竹内が南或いは会長を脅迫し、金を引き出したのだ。その金が飯島殺害の軍資金に使われる可能性大である。案の定、二日目と三日目に、階下の居間、次いで日本間の窓ガラスが割られた。調べてみると、鉛のエアガンの玉が6発、床に落ちていた。

 襲うとすれば家を放火する可能性が高い。奴らも当然銃器は揃えているはずだが、狭い家のなかでドンパチやるはずはない。裏は山、一方は道路、隣家は300坪の豪邸だが、家は離れており類焼の心配はない。火を避けて、飯島が家を出た時が勝負になる。


 しかし、待てど暮らせど、その後、動きがないのである。危険が迫れば何かしら肌で感じるはずだが、それもない。苛苛と彼らの襲撃を待つ。緊張はそう持続出来るものではない。肩の力を抜いて、大きく深呼吸した。

 ソファーに腰を落とし、一息入れると、次に睡魔が襲ってきた。しかし、まだ寝るには早い。両手で顔をごしごしこすり、眠気を意識の外に追いやる。飯島は腰に差した拳銃を引き抜き、スライドを引いて銃弾をチャンバーに送り込んだ。

 飯島はためつすがめつ拳銃を眺めた。その拳銃は、雑誌で調べてみるとS&W製のM945と言うニュウモデルである。銃身の前後に鱗のような彫りが刻まれ、冷たく黒光る鋼の輝きと洗練されたフォームは飯島を魅了して止まない。 

 飯島は、鉄の冷たい肌触りを頬で味わい、ほのかに残る硝煙の匂いを鼻で楽しんだ。銃弾は装着されている。飯島は銃をクッションで包むと引き金を引いた。ボンというくぐもった音と共に火薬の煙と臭が部屋中に充満し、皮製のソファに穴が開いた。


 飯島はそのままソファに倒れ、天井を見詰めた。誰かが飯島の家に近付いてくる。耳を澄まし、靴音に神経を集中させる。目を開いたままだが、虚空に女性の姿が浮かび上がった。立ち上がり、窓辺に行って覗いて見た。赤いコートは透視した通りだ。

 飯島は、自分の感覚が研ぎ澄まされて行くのが分かった。殆ど食事をせず、代わりに度の強いウオッカを飲む。酔いが覚めてくると、再びあおる。そして酔って眠る。そんな生活が何日も続いていた。

 しかし、眠っている間に襲われる可能性は、アルコールと自暴自棄が支配する世界に入ると、取るに足りない問題となり、あっさりと無視される。もともと飯島には豪胆なところがあり、開き直った時の強靭さは並ではない。とはいえ、押入れに寝ている。もし、物音に気付かず、られたら、その時は諦めるしかない。


 ふと、テレビを見ると、新興宗教の教徒が人々を勧誘する様子が放送されている。飯島はテレビに見入った。教徒が言う。

「不思議な世界があるのです。それを否定することなど、誰にも出来ません。超能力を得たいと思いませんか。」

飯島は思わす笑ってしまった。彼らの宗教の本質が終末思想だということを知っていたからだ。滅びを生き延びて永遠の命を得ようとしている。

「お前達には無理だ。死に対峙してこそ超能力が得られるのだから。」

 先ほどの女性の透視も、飯島の体が衰弱していること、そして何時襲われるかもしれないという恐怖と戦うことにより感覚が研ぎ澄まされて始めて可能になったのだ。飯島は、何度も不思議な体験をしている。それは常に死に対峙した時に現れる現象なのだ。


 その特異な体験をしたのは高校3年の時のことである。当時、山道をバイクで疾走するのが夏休みの日課だった。或る日、急カーブで突然対向車が目に入った。10トントラックが猛スピード突進してきたのである。体中に緊張が走った。

 必死で重心を左にかけ、車体を思い切り傾けた。バイクのスピードは70キロを越えていた。揺れるハンドルを握り締め、ぎりぎりのコーナリングを試みた。その瞬間、不思議なことが起こった。時間が冗長に流れ始めたのだ。

 そして飯島はトラックの横に書かれた社名、横浜京極運輸株式会社の文字を一字一字ゆっくりと読み終えて走り抜けたのである。時はゆっくりと流れることがある。これは、飯島が体験から得た真理である。それは体験した者にしか分からないし、体験したことのない人間には、単なる法螺としか聞こえないだろう。

 以前、ある俳優がテレビで同じような体験を語っていた。その体験とはこうである。台所のプロパンが爆発し、この俳優は吹き飛ばされた。空中で後を振りかえると、棚が倒れ、破損した食器が当り一面に散乱していた。

 彼は一ケ所だけ、何もないスペースを見出した。左足は怪我をしており、右足でそのスペースに降りた立つしかない。彼は狙いをすまして右足を伸ばした。幸い時間がゆっくり流れていたため、彼はすとんと右足の着地に成功したと言うのである。

 共演者達は彼の話を冗談だと思ったのだろう。皆、腹を抱えて笑っていたが、その俳優は至って真面目で、本当の話であると主張繰り返した。しかし、誰一人として信じようとはしなかったのである。

 この俳優も、恐らく死ぬかもしれないと思ったはずである。だからこそ時間が冗長に流れると言う不思議な現象が起こったのだ。不思議な体験は、全て死を意識した時に起こるものなのである。

 山伏と呼ばれる山岳宗教の信徒は、間違い無くこの本質を理解していた。死に対峙することによってのみ神秘体験は得られる。だから、山が修行の場に選ばれた。体力の限界に挑み、生死の境をさ迷い、つまり死に近付くことによって何かを得られることを、彼等は知っていたのである。修行とは死と向き合うことなのだ。


 飯島は立ち上がると、窓のカーテンを少し開け外を見た。通りは、帰宅を急ぐ勤め人の靴音が時折響くだけで、怪しい人影もない。佐久間達が蠢いているのは肌で感じていた。だから、その襲撃を待っているのだが、迫り来る危機の気配がないのだ。

 飯島の体はかなり衰弱している。何も食べていないのだから、当然といえば当然だ。飯島はよたよたと立ちあがり、買い込んであるウオッカの瓶を取りに台所に向かった。そこに、死んだ父親がいた。ウオッカを美味そうに飲んでいる。飯島が言った。

「どうして戻ってきたんだ。あの世でお袋に会えなかったのか。」

「いや、会えた。待っていないかもしれないと、実は心配していたんだが、なんとか会えた。本当に良かったよ。」

飯島は笑って父親の肩に手を置いた。すると父親が、飯島の目を見詰めて言った。

「母さんが、お前のこと心配してるぞ。」

「分かっているって。もう少しで今の状態から抜け出せる。そのウオッカの瓶、頂だい。」

父親は、その瓶を床に落とした。瓶が割れて、ガラスがこなごなに飛び散った。そして父親の姿が消えた。酒はもうよせというわけか。

 そうか、母さんは、俺が心配なんだ。分かったよ。心配するな。俺ももう少しで立ち直る。自分でも分かってはいるんだ。和子のことは忘れる。和子の幸せを壊すなんて考えない。分かっているって。何も心配するな。


 和子を殺して自分も死のうなんて考えてない。拳銃をヤクザから奪った時、一瞬、飯島の頭をよぎった負のイメージが、自分の意思とは裏腹に大きく膨らんだ。自分を裏切った和子を憎み始めていた。嫉妬が飯島を狂わせたのだ。

 飯島は、顔を歪め、声を張り上げて泣いた。そうすることで、邪まな感情を絞り出さねばならない。よろよろと風呂場に行き、水の中に顔を沈めた。水中で何度も叫んだ。水から顔を上げ、大きく深呼吸した。そして一言呟いた。

「これで、お前とはお別れだ、和子。いつまでも俺にまとわり着くな。」


電話のベルが突然鳴り響いた。嫌な予感が脳裏を過った。飯島は受話器を握った。男の声が響いた。

「もしもし、飯島さんですか。石原です。」

 飯島は、沈んだ石原の声に、不吉なものを感じ取った。「まさか、そんな馬鹿な」と心の中で叫んだ。しばらくして受話器の向こうから嗚咽が漏れた。石原が泣いている。飯島が叫んだ。

「和子に何かあったのか。石原さん、何があったんだ。」

「飯島さん、和子が死んだ。車に跳ねられて、死んでしまった。」

「何だって。いつだ?」

「3日前だ。頭が混乱していて、飯島さんに知らせするのを忘れていた。」

目の前が一瞬にして真っ暗になった。飯島は受話器を落とした。気を失ったのだ。


 飯島は、ぼんやりと窓の外を見ていた。街灯が灯っている。視線を動かすと、点滴の袋が吊るされている。どうやらここは病院のベットのようだ。飯島の倒れる音に驚いて、石原が救急車を呼んだのだろう。

誰かがベッドの横に座っている。焦点を合わせた。そこにいるのは斎藤である。

「気付かれました、所長。」

「ああ、ようやく目覚めた。いつから付き添っているんだ。」

「いや、さっき来たところです。でも良かった、眠ってから今日で3日目だそうです。今時、栄養失調で入院だなんて。それに、あの日以来だから、一週間以上経っていますよ。その間、いったい何をやっていたんです。顔なんて半分くらいに縮まっていますよ。」

「馬鹿野郎、骨は縮まらん。でも、そんなに、一週間以上にもなるか?」

「ええ、間違い無く、1週間以上経っています。正確には、ええと、8日目ですね。」

飯島は和子のことを思い出し、飛び起きた。

「か、和子はどうしたんだ。石原さんは和子が死んだって言っていた。」

「ええ、先日、石原さんから、飯島さんを見舞ってくれって頼まれたんですけど、その時、聞きました。本当にお気の毒です。和子さんは酔っ払い運転の車にひき殺されたんだそうです。」

「げ、下手人は捕まったのか。」

下手人などと言う思いも掛けない言葉が突いて出た。気が動転している。斎藤が怪訝な顔で答えた。

「ええ、犯人は捕まっていますし、罪も認めています。」

「で、石原さんは何と言っているんだ。」

「石原さんですか、彼は特に言ってませんでしたが・・・。」

「葬式はいつだ。」

「確か金曜だと聞いてますが。」

「今日は何曜日だ。」

「土曜ですから、もう終わってます。」

飯島は、点滴の針を抜いて、ベッドから起きあがった。斎藤は止めようとしたが、飯島はそれを振り切った。

「俺は、もう大丈夫だ。とにかく石原さんに会う。着る物はどこだ。」

「そんなこと分かりませんよ。この病院のどっかにあるんでしょうが、僕はさっき来たばかりですから。」

飯島は、斎藤からお金をふんだくると、その場を駆け出していた。スリッパのまま、病院前でタクシーを捕まえて、取り合えず家に急いだ。

家に着くと、部屋は乱雑を極め、拳銃がソファーの下に転がっていた。部屋に行って、箪笥に銃を隠し、急いで喪服に着替えると、飯島は駆け出した。駐車場の車に乗り込み、アクセルをいっぱいに踏み込んで、石原のマンションへと急いだ。


 30分後、飯島は石原と向かい合っていた。既に葬儀は済み、白い布に包まれた和子がテーブルに置かれている。その小さな箱の中身が和子の全てだった。それを挟んで二人は無言でうな垂れていた。

 少し前、飯島が駆けつけチャイムを鳴らすと、しばらくして石原がドアからのそっと顔を出した。何も言わず、飯島をこのテーブルまで導いた。

 飯島の目に涙が滲んだ。石原の目に涙はない。時折、乾いた視線を飯島に向ける。飯島は変わり果てた和子を見詰めた。和子を抱きしめたかった。しかし、石原の手前それが出来ない。ふーとため息をつき、始めて言葉を発した。

「石原さん、何か言って下さい。俺を責めているんですか。」

「ええ、その通りです。貴方は、警察に例の写真のことを言っていなかった。」

「ああ、言ってない。でも、俺がそう証言したとしても、南はそんな事実はないと言い張った。死んでも認めないと言ったんだ。証拠の品がないのだから何を言っても無駄だ。」

「言い訳はよせ。和子が殺されたのはあんたのせいだ。あんたが和子を殺したんだ。」

石原の声が泣き声に変わった。その涙声を聞いて飯島の高ぶった感情が急激に醒めていった。

「ああ、俺は、何を言われても反論出来ない。もしかしたら、俺は本当に疫病神かもしれない。和子には申し訳無く思っている。」

「そうだ、あんたは疫病神だ。佐久間が、あんたに恨みを抱いた。そのために、和子は殺されたんだ。警察は、今度の犯人は前の事件と無関係と言っているが、絶対に関係している。事故じゃない。」

そう言って、目を赤く染め涙を貯めている。飯島が聞いた。

「犯人は捕まったと聞いたが、犯人は何と言っているのですか。」

涙を拭きながら石原が答えた。

「急に飛び出して来たって。マンションから急に飛び出して来たって言っている。だけど和子が跳ねられたのは、マンションの出口から5メートルも歩いた位置だ。マンションから飛び出したなんて嘘だ。」

飯島は石原の涙を見て、かえって冷静になれた。男二人で涙に暮れる姿なんて、飯島のプライドが許さない。飯島は泣きたい気持ちを無理矢理怒りに変えた。

「石原さん、警察はそのことについて何と言っているんです。」

「三枝は、つまり和子を殺した男ですけど、酔ぱらっていたし、暗かったので、そんな風に見違えたんだろうと言ってます。でも、あいつは和子を殺そうと待ち構えていたんだ。だってそうでしょう、飯島さん。あんたが、和子の命が危ないと言った直後に事故は起きたんだ。」

飯島はいよいよ冷静にならざるを得なかった。石原は参っている。あの冷静な判断を下す聡明な石原はそこにはいない。

「石原さん、落ち着いて下さい。よーく、考えて下さい。まず、その三枝はどんな男です。仕事は何です?」

「トラック運転手で、独身、酒と賭け事で家族にも見放された哀れな男です。」

「だとしたら、佐久間に雇われた可能性は大だ。しかし、警察は佐久間には経済的には困窮していると見ている。」

「でも、佐久間は西野家から金を強請ったと言ったじゃないか。その金で三枝を雇うことは出来たはずだ。」

「いや、それが証明出来ない。さっきも言ったが、南は写真など見ていないし、佐久間から脅迫された事実もないと言い張っている。」

石原は、深くため息をつき、頭を抱えてまた泣き出した。飯島が続けた。

「そして、その写真を見た唯一の証人の和子もこの世にいない。」

石原は涙を拭い、飯島を見つめた。そして言った。

「飯島さん、僕は、兎に角、頭が混乱している。どう考えたらいいか分からない。僕の現実はあまりにも酷過ぎる、普通じゃない。飯島さん、和子だけじゃない。僕は子供まで同時に失ったんだ。」

めそめそと泣き崩れる石原に、飯島は慰める言葉さえ失っていた。


 翌日、飯島は立川に向かった。背中に拳銃を差している。佐久間が本当のことを喋らなければ、それで脅すつもりだった。

 実を言えば、佐久間が狂っているとは言え、和子を殺す動機が思い当たらなかった。石原の言う通り、唯一の証人を消すという目的は、佐久間にとって大きな意味を持たない。佐久間の目的は何なのかそれをはっきりさせたかった。

 病院の駐車場は離れた所に位置しており、車を降りて少し街なかを歩かなければならなかった。細い路地を抜け、広い道路に出た。そのはす向いに病院の入り口が見える。ぐっと腹に力を込め、病院に近づいてった。

 自動ドアを通りぬけ、受け付けでルームナンバーを確認し、病室へと急いだ。306号室が佐久間の部屋である。ノックをし、反応を待たずにドアを強く押し開けた。そこは個室だった。新聞を広げる男がそこにいた。

 佐久間が新聞から顔を出し、にやりとして飯島を見た。そして、野太い声を響かせた。

「良く来た、後輩。愛すべき後輩が見舞いに来てくれたよ、姉さん。」

ドアの陰になっていた白髪の女が飯島を振りかえって見ていた。佐久間に良く似ている。

「飯島、そんな怖い顔するな、それから姉さん、駅前の煙草屋でハイライトマイルド買って来て下さい。」

女は無言のままバッグをテーブルから取り上げ、部屋を出て行った。どこか暗い印象を引きずった女である。

飯島は、ベッドの横の椅子に腰掛けた。佐久間は笑顔を崩さず、無言の飯島に話すよう催促しているようだ。飯島が重い口を開いた。

「章子と関係を持ったのは、佐久間さんと駅前で飲んだ後だ。センターへ異動になって、やけっぱちになっていた。つまり、佐久間さんが離婚した後だということだ。」

佐久間は、飯島と章子が肉体関係を持った事実を掴んだ。そして、飯島が長年にわたり章子と浮気をしていたと勝手に思い込んだ。だからこそ、佐久間は態度を豹変させた。こう考えるのが筋だろう。

 飯島は佐久間の顔の変化を窺った。その笑顔から感情が抜けてゆく。佐久間の薄い唇が僅かに開かれた。

「お前は役者だよ、まったく。俺は騙され続けた。結局、愛子はお前の供だった。これは誰も否定出来ない。もう、いかげん惚けるのは止めろ。」

「おい、何を言っているんだ。この前も言っただろう、俺は種無しだ。何で愛子ちゃんの親になれるんだ。」

「愛子ちゃんか、成る程ね。おっと、そうそう、君の元奥さんには気の毒なことをしたねえ。飯島君があくまでも嘘をつき通し、反省しないために、彼女は死ぬはめになったのだから。」

飯島の心の片隅に押さえ込んでいた激情が、いきなり炸裂した。佐久間の胸倉を掴み、背中から拳銃を取り出すと、佐久間の鼻先に付きつけ、怒鳴った。

「この気違い野郎が、やはり、貴様だったんだ。貴様が、和子を殺したんだ。その償いをさせてやる。」

「そうだ、俺が和子を殺した。ふん、気違いだと。俺を気違いにしたのは誰だ。」

「黙れ、殺してやる。いいか、これはモデルガンじゃない。本物のスミス&ウエッソンだ。カートリッジには7発の鉛弾が詰まっている。さあ、お祈りをしろ。」

飯島は本気で殺すつもりだった。和子の復讐を遂げることで、自分の人生を終りにしてもよいと思った。佐久間は狂気に満ちた目で、飯島を見詰め、そして言った。

「そうだ、飯島、俺はお前の元奥さんを殺した。そしていずれお前を殺すつもりだ。そうだ、飯島、今、ここで俺を殺せ。今、俺を殺すんだ。」

佐久間の眼差しには、強固な意志と狂気が入り混じり、その唇はわなわなと震えていた。直前まで、飯島は銃を見て怯える佐久間を想像していた。しかし、佐久間は自分を殺せと叫んでいる。一瞬、飯島は途惑った。


 死を熱望する?佐久間の歪んだ唇から笑みが洩れる。ふと、風呂場での体験を思い出した。佐久間はあの時の自分と同じように恍惚の中にいるのではないか。あのライオンを挑発したインパラのように。死を賭す恍惚の中に。飯島の激情は一気に醒めた。

 佐久間は死にたがっている。飯島は、思った。ならば殺すわけにはいかない。飯島は狂気から立ち直り、にやりとして言った。

「佐久間さん、何を死に急いでいるんだ。何故、そんなに死にたいんだ。」

佐久間は冷静を装いながらも、その視線は揺れた。

「別に死に急いでなんていない。いいか、俺は和子を殺したんだぞ。子供もろ共、殺した。分かっているのか。敵を討ちたいと思わないのか。何を躊躇している。貴様、それでも金玉をぶる下げているのか?」

「嘘を言うんじゃない。お前は死に急いでいる。つまり、自分が死ぬこと、そして、俺を殺人者に仕立て上げることが目的ならば、その手には乗らない。えっ、佐久間さんよ。」

と言うと、飯島は掴んだパジャマの襟を放した。佐久間が叫んだ。

「飯島、今、俺を殺して全てを終わらせろ。俺は罪もない和子を殺したんだぞ。」

飯島は立ち上がり、佐久間を見下ろした。そして言った。

「あんたは狂っている。俺も狂いかけてはいたが、幸いまだ正気が残っていた。あんたは、俺を狂わせて、自分を撃たせようとした。しかし、何度も言うが、俺はまだ正気だ。」

何と言うことだ。和子殺害の目的が飯島を殺人者に仕立てることだったとは。佐久間の狂気が肌を粟立たせた。佐久間を殺していたら、和子は浮かばれなかっただろう。飯島は、拳銃を背中に戻し、ドアに向かった。佐久間の怒鳴る声をが響いた。

「俺を殺さなかったことを、後悔させてやる。どういう意味か分かるか。恐怖に震えろ。明日か明後日か。いずれにせよ、いつかお前の命を貰いに行くぞ。」


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