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救われた世界で  作者: 千悠
01__少女との出会い
6/14

夏のとある日_05

「そういや天埜」

「ん~?」

「お前、この間のテストどうだったよ」


 冷凍食品の陳列棚の前を通りながら、済は傍らの夏漣の横顔を覗く。

 腕に買い物カゴを提げた彼女は、くいっと小さく首を傾げてなにやら思案顔。う~んと唸る彼女は冷凍食品コーナーを素通りするとようやく口を開く。


「そうだな~。まぁ、ボチボチって感じ?」

「また曖昧な……、って、俺も大体おんなじだけど」

「済君こそ謙遜しちゃって。この優等生が。憎いね憎いね~」


 肘で済の脇腹をぐいぐいと。ありきたりな反応はしかし妙に気恥しく、済は頭をぽりぽりと掻きむしる。


「でもでも、数系だけは自身あるぜ? 済君にだって負けないかも」

「なぁにを仰いますのやら。悪いが、お前にゃ負けないよ。なにせ、オールラウンダーだからな」

「うわ~、自分で言ったよ」

「……いや、あぁ。確かにキモいな。失言だった」


 夏漣に導かれるように角を曲がったそこは、主に飲み物が陳列してある場所だった。スーパー北島は特別店内が広いわけではないが、しかしどこに何が売っているのかを示す物が何もないため、彼女のエスコートには非常に助かっている。

 冷蔵庫の中身を思い出し、済は手ごろなジュースを買い物カゴに放り込む。日夜問わず蒸し暑いこの季節、やはり喉が渇いた時に飲む甘味なジュースは格別だ。透明のグラスに注いだ冷たいそれを一気に飲み干す所を想像すると、それだけで唾液の分泌量が増してくる。

 夏漣はジュースの所より少し離れた場所にある牛乳を、パックに表示された賞味期限を舐めるように見つめ選別しながら言う。


「でも、数系教科の点数が良さそうなのはホントだよ? 私、将来は理系志望だからね」

「え、マジで?」


 ついつい素の驚きが口から漏れた。いやはやこの少女、普段から最高に頭の中が幸せそうであるから、てっきり数学は愚か現代国語さえ危ういのかと思いこんでいた。

 きょとんと目を丸くする済に、夏漣は「なんなのさ~」と頬を膨らませる。それから得意げに微笑み、食材の入った買い物カゴを愉快に揺らしながら通路を進む。


「だって高校入ってすぐのテスト、数系は済君に勝ってたじゃん?」

「…………うっ」

「じゃん?」


 振りかえり、ニヤリといつになく意地悪な笑みを浮かべる夏漣。


「い、いやアレだぜ。あの時は腹が痛かったから……」

「わたし数学九十三点♪」

「…………た、高いなぁ」

「え? なんて言ったのかな~?」

「た、高いなぁ、このシメジ」


 彼の視線の先にあるのは、何の変哲へんてつもないドッグフードである。


「物理は八十点。化学八十三に生物は八十八ッ!」

「……お前、そんな取ってたっけ?」

「見せっこしたじゃーん。……あれ、結局一方通行で流されたんだっけ?」

「あぁ、あの時は若かったなぁ」

「こらこら、都合の悪い記憶を過去に流すな」


 夏漣は遠い目で虚空を見つめる済の頬に、汗を掻いて冷たい牛乳パックを押しあてる。「いやっ」と情けない悲鳴を上げ、済は夏漣の手を振り払うと大きな溜め息をついた。

 そして冷たいジュースのペットボトルを夏漣の頬に押しつけつつ(逃げようとする夏漣の頭を、反対側からがっしり抑え込む。相手が良い子で助かっている事に彼は気付いていない)彼は自暴自棄風に言う。


「はいはい、どうせ俺は天埜ごときに負けるバカですよ~」

「うっわ、ひっでぇ! 今すごく酷いこと言ったよ?」


 ぐりんっ、とじる様に頭を引きぬいた夏漣は、カゴの中にあったツナ缶で済の太股に打撃攻撃を加え始める。そろそろムキになり始めた済は負けじと、結局カゴに入れてしまった特上マグロ缶で応戦。ちなみに、料金はまだ払っていない。

 幾度か鉄の円柱が二人の間で交差し、そろそろ互いの太股が痛くなってきたところで彼らの動きが止まった。


「数系だけは自信アリなのさ。済君なんか、けちょんけちょんにしてやるぜい」


 距離をとり、ツナ缶片手に息を肩を上下させる夏漣。済との戦いが無駄に白熱したせいか、その額にはうっすら汗がにじんでいた。

 それに対峙する済もまた、特上マグロ缶を構えながら「ふっふっふ」と不敵に気持ち悪く笑う。


「なぁ、知ってるか? 数学の上原が出した大問五番、ありゃひっかけ問題なんだぜ? 授業前小テストでクラス全員が涙を呑んだ例の問題の類題の更に応用だ。それがお前に解けたのか?」

「なっ……! い、いや、でもたぶん、途中点が少しは…………」

「フッッッッハッハッハッハッ! 来た来た来たァァァ! いやぁ、答案返却日が楽しみだなぁ!!」


 大声で唸りながら頭を抱える女子高生。その目の前で踏ん反り返り、今頃B級映画の悪役でさえ発しない様な笑い声を高らかに上げる同年代男子。異様である。つまみ出されても文句は言えない。

 しかしこの時、このスーパー北村内に、世にも哀れな学生二人組に構ってくれる様な人間は誰一人としていなかったのである。

 ――――その時は、突然やってきた。

 じりりりりッ! とけたたましいサイレン音が店内一杯に響き渡った。それまで切なさ全開で笑い狂っていた済は、突然の警報音に我に返って音のする天井を見上げる。僅かに血の気が引くのを感じた。


「な、なんだ? 何が!?」


 大きく目を見開いて周囲を慌ただしく見渡す済は、そこで夏漣ががっくり項垂うなだれている事に気付く。鳴り止まないサイレン。済は、心臓が異様に収縮するのを確かに体感した。

 かくかくと、俯く彼女の肩が僅かに揺れていた。いよいよ済は言葉を詰まらせ、本格的な恐怖に冷静な思考を食い破られそうになる。

 ふっ、と。サイレンの音が止んだ。同時、夏漣がおもてを上げる。


「――――時が、来てしまったようだ」


 りんとした表情で彼女が言った瞬間――――――、


『これよりタイムセールスを始めます』


 サイレンの音に代わり、静かな声でそう、天井から投げ掛けられた。え? と脱力する済。が、しかし、彼は同時に気付いた。スーパー北島に漂う空気が、それまでの物とはまるで異質な物になった事に。

 凄まじいスピードで済との距離を詰めた夏漣が、ガシッと状況を呑みこめていない済の腕を掴んでそのまま走りだす。その勢いによろける彼の耳に、切迫した夏漣の声が飛び込んだ。


「不覚なり! 下らない会話のせいで時計チェックを怠ってしもうたッ」

「あ、いや。意味が分からないんですけど」

「良いかい、済君」


 店内を駆けながら、彼女は済の顔を振り向かずに言う。


「これから、スーパー北島の一大イベントであるタイムセールが始まるのさ!」

「…………あぁ、そうですか」

「タイムセールでは、いろいろな商品が安く手に入る事は知っているね?」

「ああ、さっき聞いたからな」

「今日、私たちは二人組。だから連係プレーで安い商品を手に入れようッ! って企んでたんだけど、済君のせいで忘れてたよ」

「俺のせいですか!?」


 学校で見た時と同じく、夏漣は男の済でさえ本気を出してしまいそうな速度で駆けていく。すると徐々に、慌ただしい喧騒が近づいてくるのが分かった。

 言葉をつづる彼女の声が、より低い物になる。


「私たちは既に出遅れてしまった……。こうなったら強硬手段!」

「きょ、強硬?」

「済君の男子パワーの力技で、出遅れた分を取り戻してちょうだい!」


 角を曲がると同時に、夏漣がぐいっと掴んでいた済の腕を大きく振るう。まるで砲丸投げの様に投げ出された彼は、そこで息を呑んだ。


「な、なんと……」


 そこには、店側が用意したタイムセール専用の陳列カゴにむらがる、異様な迫力を放った主婦の方々がいたのだ。

 彼女達が一心不乱に奪い合っているのは、近頃値段の上昇がお財布に優しくない長ネギである。そう、納豆に入れたり味噌汁に入れたり、そのまま焼いてもおいしかったりととにかく何にでも使えるあの長ネギである。

 ごくっ、と済は喉を鳴らす。家に一人暮らしである彼にとっても、長ネギが安く手に入ると言うのは非常に嬉しいことだ。がしかし、目の前の光景はどういう事だろう。長ネギの争奪に明け暮れる主婦の方々が繰り広げているのは、まさに死闘だ。押しあいし合いの潰し合いである。こんな場所に、修羅場に自分が跳びこむことが、そして長ネギを手に入れる事が、本当に可能なのだろうか?

 こういう時に悔やまれるのが、自分が中学時代からずっと帰宅部である事だ。日頃から厳しい筋力トレーニングを積み、心身ともに強く成長していたらひょっとして、こんな土壇場どたんばでの逡巡など無かったかもしれない。こうして見ている内にも、用意された長ネギは物凄い勢いで消えてゆく。

 くそッ、くそッ、くそぉッ!

 彼は奥歯を噛みしめた。足が震える。握りしめた拳は、柔らかなてのひらの肉に爪が食い込んでしまいそうなほど硬くなっていた。

 どうすれば、どうすれば、どうすれば……!


「さあ、ここで止まってちゃこれから先、生き残れないぞ!」


 強張るその背中を、夏漣の温かな両手が強く押した。肩越しに振り返ったそこでは、彼女が右手の親指をグッと立てて微笑んでいる。


(そうだ、ここは俺が行かなくちゃならねぇ。絶対に負けられねぇッ!)


 棒の様に動かなかった足に力を入れ、済は黒い人だかりに突っ込む。

 衝突。そして衝撃。

 彼は野人の様に雄叫びをあげながら、人混みを必死に掻きわける。足を、歳に似合わないヒールのかかとで踏まれた。そのふくらはぎを、誰かの蹴りが襲う。横腹に、えぐるようなエルボーが直撃した。しかし彼は立ち止まらなかった。彼は『男』と言う先天的ポテンシャルを存分に振るい、見る見るうちに陳列カゴに近づいてゆく。

 そしてついに、その視界の中に純白に光輝く長ネギが現れた。残り――――ラスト一本。

 視界の端から、目にも留まらぬ速度で猛者もさの腕が飛び出した。長ネギに標準を合わせたその一本の腕は、迷うことなく長ネギに近づく。

 済は、反射的に右腕を伸ばした。距離と時間はギリギリだ。このままでは、最後の長ネギは目の前で奪われてしまう。

 相手は歴戦の猛者。実力差は未知数。その差を埋め、逆転させる最後の要素は、己の信念。


「うをおおおおおおおおお!!」


 まるで背中を見えない力で押されたように、彼の右腕がグイと押し出された。それと同時、指先に長ネギが触れる。迷いなく、握りしめた。


「よ、っしゃ…………」


 戦いが終わるのとほぼ同時に、人込みが素早く引いていく。済は陳列カゴの前に立ち尽くしたまま、長ネギを両手に握って感嘆の声を漏らす。

 叫びたくなる衝動を必死に堪え、彼は背後を振りかえった。右手に長ネギを握り、天高く掲げる。


「やったぜ。俺、やったぜ!」


 視線の先、夏漣が確かに頷いた。そして空気を思い切り吸い込むと、駆けだしながら大きく叫ぶ。


「よくやったぞ済君! それは君の戦利品だ、君にあげよう。次は豚の粗挽あらびきだ!」


 溌剌はつらつとした声が空気を揺るがし、済の頬をなぶった。心地よい衝撃。心温かな感傷。それらを振り払って、済は長ネギを買い物カゴに仕舞う。

 戦いはまだ終わっていない。彼は夏漣が消えた方向へ、緩んだ頬を引き締めながら駆けだす。


   ◇


 通路の先。済が駆け付けた時、その場所はすでに戦場と化していた。

 用意された薄手のビニール手袋に手を通し、猛者達が群がるのは豚の粗挽き肉の詰め放題セール。専用のビニール袋が裂けない限り、いくらでも粗挽き肉を詰めていいそのセールは、なんと驚きの一袋三○○円。他のスーパーで見るトレイに封された物の倍以上は入るであろう袋一つで、たったの三○○円なのだ。

 済は密かに恐怖する。先程手に入れた長ネギもそうだった。あれだって、通常のスーパーで買ったらそこそこの値段がする物を、それのおおよそ半額で売っていた。

 長ネギと言い粗挽き肉と言い、おそらくこれから売られるセール対象商品も同じことなのだろうが、とにかく安い。お財布に優し過ぎる。

 ――――何なんだ、スーパー北島。気前がよすぎるだろ……!

 冷房の利いた店内を蒸し返さんばかりの熱気を放つ集団の中に、済は夏漣の後ろ姿を見た。お世辞にもスリムとは言い難い猛者達の間を、彼女のか細い身体がまるで鬱蒼うっそうとした密林を掻きわけるように進んでいく。ともすれば弾き返されてしまいそうな力の差をものともせず突き進む彼女の背中は、日ごろ学校で見せる良い意味でも悪い意味でも柔らかな印象を一切見せない。そこにあるのはただ、他の猛者達に引けを取らない気迫だ。

 その姿が人混みに呑まれるのと同時、済は汗のにじむ手を無意識に握りしめていた。

 本当に彼女は大丈夫なのだろうか。無事に粗挽き肉を手に入れる事が出来るのだろうか。応援に行くべきなのか。ここで待機しているべきなのか。

 やはり、自分も加わった方が良いだろう。そう判断した済は、気合を入れ直すと人混みに駆け寄ろうとした。

 と、その時。その人混みの中から、


「おぉぉぉい、済くぅん!」


 済の偉大なる師匠こと夏漣の声が。ふと足を止め声のした方向に目をやると、まるでお団子状態なそこにひょこりと彼女の顔が飛び出していた。

 同じく突き出た彼女の右手には、これでもかと言うほど粗挽き肉が詰め込まれたくだんのビニール袋。彼女はライバルに押しつぶされそうになりながら、懸命に声を張り上げた。


「これを持って今すぐお魚コーナーにダッシュだ!」


 言うが早いか、彼女は手にしたビニール袋を済に向かって投げた。


「おい、馬鹿!」


 中身が空中で飛び散るのではないかと言う不安をよそに、綺麗な放物線を空中に描いたそれは、済が伸ばした両手の中に無事着地する。

 「おいおい食べ物を」と一人呆れたように呟く済が視線を前に戻すと、すでに夏漣の姿は確認できなくなっていた。恐らく、まだあの人混みの中で格闘を続けているのだろう。

 彼女は「お魚コーナーにダッシュだ!」と言っていた。なるほど、と済はほくそ笑む。

 こちらはコンビ。店内にいる他の猛者とは違い、彼らは一人が戦場で戦い、もう一人が次に起こる戦いに備えて準備をしておく、という戦法と取れるわけだ。それはつまり、一人で戦っている戦士達が次の戦地に向かっている間に、すでに戦闘を開始できると言う最高の時間短縮が可能と言う事である。


「考えるじゃねぇか、天埜……」


 「相当なチートだぜ」と付け足し、彼は夏漣に言われた次の戦場へと歩を進める。場所は既に、彼女の後をついて店内をめぐっているので安心だ。

 策士・天埜夏漣の誕生である。


   ◇


 しかし、戦いとはそう甘い物ではなかった。

 幾度かの転戦を終え、セールも残る所ラストの商品。どうやら店側の準備が遅れている様で、この時だけは二人同時攻略の必殺技を繰り出す事を断念せざるを得なかった。

 並んで立ち、額に良い汗を掻きながら呼吸を整える済と夏漣が待っている次のセール商品は――――卵だった。


「いや、舐めきってたぜスーパー北島。本当に凄いところだ」

「ふっふっふ。そうだろうそうだろう、済君。でも、今日はまだ楽な方なんだぜい?」

「まぁ、戦力が他の二倍だからな。そりゃ楽だ」

「ノンノンノン。違うんだな~、これが」

「は?」


 済が首を傾げた丁度その時、視界の端に映る『関係者以外立ち入り禁止』のプレートが掛かった両開きの扉が静かに開けた。

 暗い扉の向こうから店員によって押されてきたのは、いくつかの卵パックが置かれた陳列カート。カートを動かすタイヤが、時々金属を擦り合わせた様な音を発する。店員に押されるそれは、済達の注目を浴びながら静かに客達の間を縫い、少々開けたスペースまで辿り着いた後に静止した。

 店員がカートのタイヤを固定して動かないようにすると、その手にメガホンを持つ。


「これより、本日最後のセールを行います」


 ごくりと、静寂の中にはっきりと唾を呑みこむ様な音が聞こえた気がした。自然、済は腰を落として臨戦態勢に。隣の夏漣もまた、ピリピリとした空気を四方八方にかもし出す。

 店員の口が、再び滑らかに動いた。


「一パック六個入り卵、二○パック用意させて頂きました。お一人様一パック限りで――――――」


 カートの影に隠してあった、黄色い長方形の紙を取り出す店員。恐らくそれが、卵パックの値段なのだろう。

 いたずらに間を置く店員。じりっ、と思わず足がり足に動いてしまう。

 にこりと、店員が笑った。まるで子供の様に無邪気な笑みを張りつけ、店員が言う。


「――――――三四円でご提供させて頂きます!」


 ドッ、と店内全体が言い知れぬ重圧に包まれた。店員が、手に持った長方形の紙をカートに叩きつけるように貼る。

 ――――――それが合図となった様に、店内全域の客が一斉に動き出した。


「決戦の時が来たぞ、天埜!」

「うっしゃあーッ!」


 口々に叫んだ二人は、若者のおとろえる事を知らない筋力にものいわせ、スタートダッシュから全速力でカートに駆けよる。学校の体育の授業でもここまで出るかと言う程の速度で駆けた二人は、見る見るうちにカートへ近づく。

 だが憎いことにスーパー北島のラストセールは、夏漣に言わせるとその商品が店内どの位置で売りに出されるか分からないのだそうだ。そしてこの日二人は運が悪いことに、そう遠くは無いにしても、他の人間が先にカートに辿り着くには十分なほどの距離を取られてしまった。

 二人が駆ける間にも、卵のパックは一個二個と消えてゆく。そして二人がカートに辿り着いたその時が丁度、人波が押し寄せるピークだったようだ。

 どんっ、と背中に容赦のない衝撃が突き刺さった。人の波に揉まれながら、済は前を目指しつつも傍らの夏漣に気を向ける。人を二、三人挟んだ向こうに、彼女はしっかり存在していた。小柄な体を懸命に働かせ、必死に食らいついている。よし、と力強く頷いた済は、今度こそ前方に集中力の全てを注ぎ込む。

 済達の前に、人数はそういなかった。だが同時に、二人とパックとの距離は、届きそうで届かないと言う、非常に歯がゆい距離でもあった。指をつるほど伸ばせば触れられそうだが、しかし僅かに足りず。人を押し退けようにも、それが意外なほど固い。

 そうこうしている内に、最初から数の少なかった卵のパックは見る見るうちに姿を消してゆく。

 卵と言えば、食卓には欠かす事の出来ない存在だ。ここでそんな貴重な物を手に入れ損なえば、その時のショックは一様ではないだろう。

 避けたい。卵を逃す事だけは避けたい。

 奥歯を噛みしめた済は、必死に手を伸ばす。その指先が、僅かにパックの表面に触れた。

 その時。

 ざわざわぁ……、と。人混みが、今までとはまた種類の違った動揺を起こした。今まで血気盛んだった周囲の人々が、僅かに動きを鈍くする。

 よし、今だッ! と目を見開いたその直後。

 彼もまた、背後から感じる恐ろしい気配に身をすくませてしまった。


(なんだ!?)


 背後からの尋常ではない何かに、済はとっさに振り返る。そして、僅かに顔を強張らせた。

 視線の先。そこにはゴリラ――――――の様な貴婦人がそびえたっていた。いや、実際には聳えたっていた、などという表現はおかしいのだろう。男子で、しかも高校生の済に身長で勝る女性など、そう簡単には存在しない。目の前のその存在だって、確かに他の女性よりは背が高い様だが、済に勝つことはまず無理だ。

 なのに、そのはずなのに、済には一瞬、その貴婦人が自分よりはるかに巨大な、決して超える事のかなわぬ存在に見えてしまった。ここが過酷な戦場であるにもかかわらず、周囲の一切を無視して立ちすくんでしまった。


「ぬをぉぉッ! ぬしだー! 主が出たぞぉぉぉッ!!」


 視界の端で、夏漣が悲鳴じみた声を上げる。その直後、

 グオンッ、とゴリラ――――の様な貴婦人が振るった手によって、人混みが大幅に退けられた。その例外ではなかった夏漣の小さな体が、ほかの主婦の方々と共に場外へ追いやられる。

 背中に、まるで氷を大量に流しこまれた様な緊張が走った。

 なんだ。コイツは一体、何なんだ。

 再び、その手が大きく振るわれた。直後、視界右の大半を占めていた人混みが払拭される。たったの二激で、あれだけ戦場を活き活きと戦い抜いてきた戦士達の三分の二がほふられてしまった。

 ――――――主だ。まさしく、コイツはスーパー北島に現れる主だ。

 なるほど、先ほど夏漣は言っていた。今日はまだ楽な方だと。その通りだろう。普段からこんな規格外の敵と戦闘を行っている彼女にとって、今日の買い物はまさに楽なものだ。お遊びに等しい。

 この時になってようやく、済は思い知った。夏漣は、店に入る前から自分の油断をつとめて戒めていた。自分はこれまでの座興で、その行為の意味を理解したつもりになっていた。

 だが違う。まったく分かっていなかった。彼は、神彅済は、今この段階に至って、ようやくスーパー北島の本当の姿を見たと言って良いのだ。ここで、ようやくスタート地点なのだ。

 戦わなければいけない。主と対峙し、戦い、かつ勝たねばならない。卵パックを、一パック三四円の激安パックを勝ち取らなければならない。行動しなければならない。

 なのに、そのはずなのに。


「なっ…………」


 ずん、と主が踏みだした一歩で、済の心は完全に委縮してしまった。おかしい、規格外だ。自分達の戦法をチートとするならば、この主はゲームの創造者だ。それほどに、主の存在は大きすぎた。

 全ては気迫である。実際には目にする事の出来ない、単なる気持ちの問題でしか無い物に、しかし済はやられていた。完全に全身を抑え込まれていた。

 視界の端、スローモーションの世界の中で、夏漣が手をこちらへ必死に伸ばしているのが分かった。それはまるで、アメリカ映画のワンシーンの様だった。


(ああ……)


 済は悟った。

 ――――――俺、死ぬんだ……。

 その魔手がグイと伸びた。体は動かない。避けることも、立ち向かう事もかなわない。

 しかしこの時、彼の心の内は驚くほどにみ渡っていた。主の存在に対する恐怖は自然と氷解ひょうかいし、波風のいっさい立たない湖面の様な心がそこにある。耳をすませば、小鳥のさえずりが幻聴として聞こえてきそうな気さえした。あまりにも強大な存在を前にして、もはや彼は無我の境地に達していた。

 ひょっとしたら、知らず知らずのうちに微笑んでいたのかもしれない。自分では、確認できなかった。だが、恐らくそうであろうと思っていた。最期ぐらい、笑っていたい。

 差し伸ばされる夏漣の手。その顔を見つめ、そっと笑う。声にならぬ言葉を紡いだ。


 ――――――やっぱ、主は無理だわ。














と言う事で、戦闘(?)でしたw

まぁ、チョットふざけ過ぎましたかね(汗)

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