夏のとある日_03
地平線の向こうを目指し、しかし未だに陰る気配を見せない太陽を追うように、済はのんびりした足取りで自宅へと向かっていた。
一日中、休む間もなく熱せられ続けたアスファルトは、太陽が空の頂上を通過してしばらくした今でもムワリと人々を足元から熱し続けている。 そうは遠くはないどこかから延々と聞こえてくる 蝉の声は、夏の暑さを何倍にも、何十倍にも引きあげていた。
しかし、コレだけ騒がしく鳴きまくっていても、これから夏休みに入るにつれ、奴等の勢力は徐々に拡大していくのだからたまげたものだ。 成虫になってから一週間しか生きられないくせして、なかなかのツワモノである。
加えるならば、奴等は引き際も凄まじい。 毎年毎年、秋が近づいてくると奴等は平気で路上で倒れている。 あの光景は、虫嫌いではない人間にとってもなかなか精神的に応える物がある。
蝉、すげー。
などなどと、本当にとりとめの無い事をつらつらと考えつつ、早くも彼は、今朝ソーダを買いオレンジジュースを引き当てた自販機の前を通り過ぎていた。
これまでの所要時間、約一五分。 見慣れたを通り越して見飽きた住宅街をもう少しだけ歩けば、すぐに我が家も見えてくる。
「雨、降るかなぁ」
未だ明るい空の向こう。 真っ青な空を覆いつくすように入道雲が立ち込めていた。
陰影にかたどられた、彫り物の様にはっきりしたその雲はどこか生クリームで作られた芸術にも見える。 そしてそんな吸い込まれそうなほど真っ白なそれを見ていると、普段空など見ない済でも、つい不思議な感動を覚えてしまった。
この日は風が少し強い。 ひょっとするとあの雲が流れて来て、買い物に出かけている内に一雨来るかもしれない。 洗濯物は早めに畳んでしまおう。
「あぁ、買い物か。 待たせると悪い……、のかな?」
世間では、女性を待ち合わせで待たせるのは大変よろしくない事だと言う。 ならば、今回も早く待ち合わせの場所に向かっておいて失敗はないだろう。 それに夕立に関係なく、洗濯物は取入れだけでもやっておきたいところだ。
済はずり落ちかかったスクールバッグの肩ひもを一度背負いなおすと、歩調を少し強めた。
◇
男の早歩きにかかってしまえば、残り一○分強の距離を踏破するのにそう長い時間は必要なかった。
額にうっすら汗を浮かべつつ自宅まで到着した済は、制服のポケットから鍵を取り出すと引き戸の玄関を開く。
「ただいまぁ……」
無音。
返ってきたのは果てしない無音。
開け放たれた玄関から差し込む光は、暗いフローリングの廊下を照らし出す。 太陽光を反射させる埃が、静かに吹き込む風に舞い上げられるのが分かった。
玄関には、済が今脱ごうとしている靴以外に他の物が一足も無い。 すぐ横手に備え付けられた下駄箱の中にだって、彼が学校以外の場所へ出かけるときに履く靴に、このあいだ学校から持って帰って来た運動靴以外に物は存在していない。 ぽっかりと。 一人暮らしには不必要な虚空が静かに口を開けているだけ。
後ろ手に玄関を閉める。 ガチャン、と音を立てて完全に締まり切った扉からは光が入り込まず、目の前に伸びる廊下は夏の世界から切り離されたように暗かった。
彼は革靴を脱ぎ、綺麗に揃えてから廊下に立つと慣れ切った様子で暗い廊下を真っ直ぐ進んでいく。
家は二階建て。 彼の部屋は二階にあるのだが……、しかし彼はそこには向かわない。
廊下の突き当たり。 ドアノブを回してドアを押しあけると、そこはリビングに繋がっていた。
世間の家の物と比べると、多少大きい様な気もする窓ガラスは、本来暗いはずの室内いっぱいに太陽の光を注ぎ込んでいた。 廊下と違って照明のいらないそこは、家族が一堂に集まるだけあってそこそこ広く、少し型の古い薄型3Dテレビに大きなソファー。 そして人が四人まで使用できる四角いテーブルには四脚の椅子が。 他にもカウンターを挟んで対面式になっているダイニングキッチンやら何やら、親達が趣味で集めた家具達が一斉に済の事を迎え入れる。
しかし、その親達はそこにいなかった。
彼の帰宅を迎えたのはあくまで、スイッチを押さなくては一人で動く事も出来ない無機質な物体たちだけである。
だが済も済で、そこに感慨を感じることは一切なかった。 両親の職種の関係で小さい時から一人でいる時間が多かった彼にとって、帰宅の挨拶に返事が無い事などまさに日常茶飯事だ。
彼はリビングを進み、スクールバッグをソファーに放る。 すると、
「にゃー」
「お」
ソファーの影から、一匹の猫が現れた。
白と黒のブチ猫である。 名前は――――――、
「元気してたか、佐藤さん」
佐藤さん。
つい去年まで近所に住んでいた佐藤さん(ただのおっさん五六歳)にどことなく似ていたから、なんとなくのノリで済によって付けられた名前である。 ニックネームではない。 真名だ。
佐藤さんは喉を鳴らすと、猫なで声を発しながら済の足元に擦り寄った。 済はその場に屈みこんで佐藤さんの頭をわっしゃわっしゃと豪快にかつ乱暴に撫でる。 そして撫でられる佐藤さんは、一切それを嫌がる素振りを見せない。 しかし特別懐いていると言うわけではない。 単に屈強なのだ。
「相変わらずシケた顔してるな~、佐藤さん」
「にゃ~お」
「うん、そうかそうか。 何言ってるか全然わからん」
済がヒゲを弄くると、佐藤さんは煙たそうに目を細めてトコトコとどこかへ消えてしまった。 猫が消えていった方をしばらく眺めていた彼は、よしょ、と立ち上がって外の小さな庭に続く窓の方へと進んだ。 スライド式のガラス窓を開き、サンダルを穿いて外に出る。
その先に広がっていた庭には、今はなにも植わっていない小さく淋しげな花壇に、竿にかけられた洗濯物があった。 高い木が植わっているわけでもないそこは太陽の光が燦々と降り注ぎ、地面を緑に染める芝生が活き活きと輝く。
竿に干された洗濯物は、もちろん済の物のみ。 この家に住んでいる生物と言えば、人間の済と猫の佐藤さんだけなのだ。
「ちゃっちゃと取りこんじまうかな」
済は言うと、室内のガラス窓すぐ近くに常時セットされている洗濯籠を引っ張り出した。 それを芝生の上に直接置き、竿から取り外した洗濯物を放り込んでいく。
一見、何の考えもなしに行っているような行為だが、その選択の取り込み方には一定の規則が存在する。 それは、彼が箪笥に衣服を収納する際の順番通りに取り込んでいくと言う至極平凡な事なのだが、しかし彼はこの数年間、その順番を破った事はほとんどない。
済と佐藤さんだけが知りうる、とてつもなく地味な秘密にも満たない生活の癖である。
「よっしょと」
彼はいつも、一週間に二度洗濯を行う。 学校が休みである日曜日と、それから三日後の水曜日だ。
男の一人暮らしでそれだけこまめに洗濯を行っていると言う事もあり、洗濯物の取り込みは、彼の慣れもあってあっという間に終わってしまう。
洗濯物を取り込み終わった済は洗濯籠を抱えると、冷房も付いていない蒸し暑い室内に戻っていく。 そしてガラス窓を閉めて施錠も行った所で一つ溜め息を吐いた。 仕事、一つ消化である。
しかし、ここで一息ついている時間はあまりない。 夏漣との待ち合わせまでに必要な食材などなど、買っておく必要がある物を書き出さなければならないし、集合時間より少し早めに向こうへ向かっていたいと言うのもある。
その全てを考えると、なかなかのんびりしている時間は無かった。
彼は洗濯籠にスクールバッグを突っ込むと、両手にそれを抱えたままリビングを出、二階の自分の部屋へと向かって行く。
廊下、階段は相変わらず日光が差し込まず薄暗い。 しかし彼はしっかりした足取りで部屋に辿り着くと、その足元に洗濯籠を下ろした。 そしてワイシャツで汗を拭い、そのワイシャツも脱いでいく。 箪笥に洗濯物を仕舞うのは、後回しだ。
「ん~。 着ていく物は考えた方が良いのか?」
箪笥の中身を見てから、ふと彼は首を傾げた。 生まれてこの方、異性と交際した事の無い済である。 加えて、そう言った事に執拗な執着心もない彼は箪笥の前で、今回着ていく物について逡巡してしまった。
やはり、単なる買い物とは言え相手は花の女子だ。 ここはそれなりの服を取り繕って行った方が良いのだろうか? だとすれば自分は、果たして何を着ていけば良いのだ? 半ズボンはアウトか? ジーンズか? あれ、今の時代はデニム?
とは言え、彼氏彼女の間柄ならそれはそうだが、しかし今回の相手は単なるクラスメート。 特別好意を抱いてもいない、ただ仲の良い女子と言うだけである。 それに、買い物と言っても大都会のオシャレな地区を闊歩するわけでもあるまい。 せいぜいスーパーで遭遇したおばちゃん達と、安物の食品を巧みな連係プレーで奪い合う事ぐらいが今回の買い物の目標。 貴仙の言葉を借りるわけではないが、ラブラブしに行くのが目的では決してない。
ま、いいだろ別に。 と、結構マジな思考を簡単に絶ち切った彼は、タオルで汗を拭いてからなんとなくオシャレに見えそうな半袖のシャツを選び出して袖を通す。
それから背中に不快な感覚を覚えた彼は、僅かに眉をしかめると自身の勉強机へ。 その上に置かれたデオドラントスプレーを手に取ると、超おざなりに襟元から背中に向けて噴射させる。
シューっと、アクアソープの匂いが鼻をくすぐり、煙たい空気が部屋に充満する。 内容の制汗剤が真夏の熱せられた体を適度に冷却してくれる。
それからズボンも制服から動きやすい膝下程度の半ズボンに履き替え、身支度は完了。 彼は汚れたワイシャツとタオルを持って部屋をあとにした。
一階に戻ってきた彼が洗濯物を洗濯機の中に入れてから一番に向かったのは、キッチンにある冷蔵庫。
「そうだな。 野菜に肉に、ソースももうすぐ切れるか」
彼はその中身を眺めまわしながら、買い物リストを携帯に打ちこんでいく。
魚、肉、野菜、飲み物、そして忙し時に使用するインスタント食品などなど。 必要だと思われる物を片っ端から携帯にメモすると、彼はパタンッとそれを閉じてズボンのポケットにしまう。
「んにゃー」
どこから湧いて出てきたのだろうか。 いつしか彼の足元には佐藤さんが行儀よくお座りをしていた。 ギラギラと野生に輝くその瞳はまっすぐ済の事を捉えている。
「あー、はいはい。 お前のエサもだったな」
「ふんぎゃー!」
「いいやダメだ。 特上マグロ缶は月に一度だけだってこの間条約を結んだではないか」
「ウ゛ゥゥゥゥ……」
「な、なんだよ、その剣幕は。 何だ? 約束は破るためにこそあるってか? んなこと俺は認め――――――いや、か、噛みつかないで佐藤さん! きゃっ。 ごめんなさい、佐藤さんッ!」
飼い猫に負ける高校男子生徒ここにあり。
「ってぇー。 マジ噛みされたし。 血ィ出てんじゃん」
しばしの戦闘の末、勝ち誇ったように背筋を伸ばしてスタスタ去ってゆく佐藤さん。 そんな飼い猫の後ろ姿を、文字通り飼い猫に噛まれた済は涙目で睨み返す。 このバカ猫! などと負け犬の遠吠えを放ちながら。
猫やら犬やら忙しい少年である。
「さぁて、そろそろ行くかな」
目尻に滲んだ心の汗を親指の腹で拭った済は立ち上がると、適当に水分を補給してからキッチンを出る。 それからポケットの財布を取り出して現金を確認。 よし、十分な金は入っている。
温暖化現象が解決方向へ向かっている今日、済がエコバッグなど持ち歩くはずもなく、彼はそのまま手ぶらで廊下へと出ていった。
そしてその途中、彼はトイレの前で立ち止まる。
「…………紙も買っておいた方が良いんだっけか?」
ドアを引き、中を確認。 だが、照明も付けていない廊下は光がほとんど射さず、トイレの中は不気味なほど暗い。
済は壁際を探る。 そして手探りのままスイッチを発見し、パチッ、と入れる。
が、
「あ、あれ?」
もう一度、パチパチッ、とスイッチを連打。 しかし、トイレの照明はむんずと黙ったまま反応を示さず、畳一畳分と少しの空間はしんと静まり返ったままだった。
う~ん、と。 買うべき品々を頭の中で整理整頓。
結構面倒な買い物になるかもしれなかった。