夏のとある日_01
「お。 当った当った」
早朝。
空の頂上を目指し空を翔ける太陽にアスファルトは燃えていた。 目の前をまっすぐ伸びる道路はゆらゆらと蜃気楼で揺らめき、立ち込める熱気は足元に纏わりついた。 降りそそぐ太陽光は半袖のワイシャツから出る肌色の腕をじりじりと焼いて、背中の毛穴から嫌な汗を滲みださせる。
朝からこうも暑いのだ。 日中は果たしてどうなるのだろう?
死ぬんじゃないか? と。 そんな、夏には誰でもが抱く疑問にも不満にも似た文句を呟きながら、なけなしのワンコインをルーレットチャンス付きの自動販売機に投入。 暑さに負けて五○○ミリのソーダを買った時の出来事だった。
景気の良い電子音。 自動販売機の正面に取り付けられた電光板には『アタリ!』の文字が浮かび上がった。
ガタガタンとその体を小さく揺らした自動販売機は、ごく平凡なオレンジジュースをその取り出し口に吐き出した。
少年、神彅済は左手の中に未開封のソーダを持ったまま、腰をかがめて取り出し口からオレンジジュースの缶を拾い上げた。
ひんやりと。 両手に持ったジュースの缶は手の平の色が白く染まるほど冷たく、蝉の鳴き声が騒がしい夏の朝には有り難い。
かがめた腰を起こし立ちあがった済は、肩にかけた薄っぺらのスクールバッグにオレンジジュースの缶を放り込みつつ、残った缶のプルタブに指をかける。
「朝っぱらから当りくじか。 日頃の行いが良すぎるかな~」
冗談のように言いつつ、済はプルタブを引き開ける。 プシュッと炭酸の抜ける音と共に、泡立ったジュースが飲み口の手前まで顔をのぞかせた。
彼はその炭酸ジュース特有の痺れるような喉越しを楽しみつつ、止めていた足を再び動かし始める。
神彅済。 今年、近所の高校に進学したばかりのごくごく普通の少年。 背丈もおおよそ平均的な一六○センチ後半。 特に飾っているわけでもない黒髪にワックスの気配はほとんど感じられず、とは言え完全に無精ではないと言わんばかりに、やや長めのそれにはレイヤーカットが施されている。 最低限の身だしなみ程度のオシャレである。
いつも忘れていて衣替えしそこなっている、夏の日差しにはめっぽう熱い冬服ズボンに、上だけはしっかり半袖ワイシャツ。 あまり重みの感じられないスクールバッグの中にはやはり中身が存在しない。 あるのは筆箱に数枚のプリント。 そして先程のオレンジジュース程度か。
とは言え、別段彼は勉強が苦手なわけではない。
彼は周囲の人間から『真面目』と称される事の多い、つまりは勉強にも精が出る人間なのだった。
そんな彼は今、学校に向かっている最中である。 高校進学後初めての夏休みに突入するまで残り一週間のこの時期。 彼は重たい足を必死になって動かしているのだった。
「お~っす、済!」
「ごふッ!?」
唐突に、済の背中を重たい衝撃が貫いた。 雲もまばらな青空を見上げる勢いでソーダを呷っていた彼は、軽薄な声と共にやってきたその不意打ちに口の中に含んでいた液体を盛大に吹きだした。 鼻からも飛び出した。
「はっはー! 大成功だぜぃ」
「ふっざけんなッ! ピースしてんじゃねえよ! て言うかどうすんだこのワイシャツ。 濡れちまったぞ!?」
見るとそこには、見なれた面構えの人間が。 背中は汗に。 前面は吹きだしたソーダでびしょびしょになったワイシャツを摘んだ済は、そんな相手に涙目になって叫ぶ。
まだ学校に着かないうちからこんな悲惨極まりない目にあって悲しいという事もあるが、単純に鼻が痛かった。
しかし目の前の軽薄通り魔野郎はちっとも悪びれる素振りを見せず、のんきに笑い続けて済の神経を逆なでる。
一発殴ったって罰は当たるまいと密かに拳を握りしめる済。 が、その鉄拳が唸りをあげる直前に、軽薄野郎は笑うのをやめた。 なんとも絶妙なタイミング。 まるで見透かしたようなその切り替えの速さにやはり怒り心頭な済ではあったが、ふと、通り魔は小さく唸る済を見据えるとその表情を強張らせた。
そしてどこか真剣な面持ちで彼は口を開く。
「…………お、おい、済」
「なんだよ……」
「お、お前………………、乳首デカいな!」
真面目な眼差しから一転。 スケスケだ~ッ!! と大笑いしながら軽薄通り魔野郎が指差す通り、見れば済のワイシャツは透けて中の様子が良く分かる状態になっていた。
「う、うるせぇッ! わざわざ言うな! て言うか特別デカくはねぇよ!!」
わかんないけどさ! と、特にそう言った趣味は持ち合わせていない彼は怒鳴りながら、早くも逃走を始めている軽薄通り魔野郎の後を追って全力ダッシュを始める。 なんだってこんなクソ暑い時に全力で走らなくてはいけないのかと思わなくもないが、しかしここで奴を見逃したら、そこで負けな気がしていた。
済の前を同じく全速力で走っている軽薄通り魔野郎の名は守堂貴仙。 中学一年の時に同じクラスになって以来、何がどういうわけなのか、そのままズルズルと三年間ぶっ通しで同じクラスだった悪友。 そしてついには高校まで丸被り。 全くもって腐れ縁で面倒な友人だ。
ほとんど金に近い茶(と本人が言い張る。 何が譲れないのか分からない)の、ワックスべたべたなその頭を追い、済は走る。 もともと彼らの通う高校は、済の家から徒歩で三十分、自転車でその半分ほどと至って近場にあり、公道を普通に進んでいけば同じ学校の制服を身につけた生徒達がちらほらと見受けられるようになる。
この日も、顔を真っ赤にしながら爆走する彼らは徐々に人で賑わう界隈へと足を踏み入れ始めていた。
道中に広がる他の生徒達が奇異の視線を二人に向け、わざわざ道を譲る始末。 しかし二人は止まらない。 ただただ鼻息荒げに人込みの間を縫うように駆け続ける。 この時にはもう、ジュースで服が濡れたとか、スケスケだとか、そんな事はほとんどどうでも良くなっていた。
そこに残るのは単に、馬鹿な意地の張り合いだけだった。
そしてそんな馬鹿さ加減も、二人の間では毎日の恒例行事となっていた。
「だ~ッ! もう良いよ! 疲れたからやめるよ!」
通りの角を曲がり、高校にたどり着くまででの最期の関門たる長い坂道に差し掛かったところで、済が膝に手をつき降参宣言。 すでに坂を駆け上がり始めていた貴仙は、そんな済の声に足を止めると顔中に大粒の汗を浮かべながら楽しげに笑った。
「なっさけないな~、済。 もう終わりかよ」
「強がるなよ……」
「はっ。 確かに、ちょっとばかし疲れたかなぁ」
言って貴仙はワイシャツの袖で額を拭う。 しかし、所詮は半袖だ。 その小さな面積では到底彼らの汗を拭いきる事など出来ない。 長袖であっても恐らくは間に合わないほどの汗なのだが。
そして手の平をパタパタと振って風を生み出す貴仙の手前、済は薄っぺらなスクールバッグの中から、つい五分ほど前に自動販売機のチャンスルーレットで手に入れたオレンジジュースを取り出す。
嬉しい事に、経過した時間が短いだけあって、中身はきんきんに冷えていた。 砂漠を散々彷徨ってようやくオアシスへ辿り着いた旅人よろしく、済は一本のオレンジジュースを両手で握りしめて恍惚とした表情を浮かべる。
「俺、マジでついてるぜ」
いただきま~すとプルタブに指をかけ、一気に引き起こした――――――ハズなのに。
あれ、何だろう? 手ごたえが全然無いぞ? 唐突に、手の中の重みが無くなったぞう?
「くーッ! 運動後のジュースは最っ高だな! この冷たさがまた良い!!」
見れば、済から一歩引いた場所で貴仙が一人で缶ジュースを豪快に呷っていた。
すっごく美味しそうに。
オレンジの缶ジュースを。
数秒前まで済が手にしていたきんきん缶ジュースを、とてもとても美味しそうに。
「なんなんだお前のその素で気持ち悪いレベルの素早さは! て言うか返せ! 俺のジュース返せよ!!」
「良いじゃんか~。 どうせチャンスルーレットか何かで手に入れた代物なんだろ? 暑さにバテちまってる子羊に恵んでくれたって罰は当たらないぜぇ」
「……自販機の所から見てたのかよ」
「いんやぁ。 見ちゃねぇよ。 ただまぁ、お前の事だからな。 大方、そんな事だと検討はついたさ。 一気に二本も、自腹で缶ジュースなんか買わねぇからな」
「はぁ……。 全くもってビンゴだよ」
からからに乾いて瀕死状態の喉で溜め息をつき、済はがっくり項垂れる。
貴仙は楽しげに笑いながら缶を小さく振り、笑みはそのまま、しかし眼差しだけは鋭く光らせて言う。
「まったく、お前はラッキーすぎるぜ。 たしかにこんな世の中だが、それでもだ。 賭け事でも何でも、全部お前が掻っ攫っちまうんだからな。 神様とやらに、愛されすぎてるんだよお前は」
「神様ねぇ~。 どうなんだろな」
「はは。 まぁ、人間ごときが神様の事を知ろうって事の方がおかしいってか。 はいよ、あとはやる」
貴仙は、鋭い視線をどこかへ消し去ると、今の今まで自分が呷っていた缶を済に差し出す。 済は、まるで鼻先に良い匂いのする食べ物を突き出された動物の様な素早さでその缶を掻っ攫うと、その勢いのまま缶を逆さまにした。
ぽつんと。 大きく開いた口の中に垂れてきたのはたった一粒の味すら分からない液体。 いや、雫と言うべきか。
「ぜ、絶交だぁ……!」
炎天下の公道で、不特定多数の視線の中心で、アスファルトに両手両ひざを突いて項垂れる高校生がそこにはいた。
「はっはー! ささ、立って立って。 そんな恥ずかしい事されると、マジでお前から距離を取らなきゃいけなくなっちまうからよ」
「うるさぁいッ! 黙れ黙れ黙れッ!!」
「はいはいはい。 あとでジュース奢ってあげるから。 よし分かった。 奮発して果実入りにしてあげよう!」
「ちゃっかり太っ腹装ってんじゃねえ! すっげぇみみっちいぞ!」
「あぁ、構わん」
「デカい! 変な所で器がデカい!!」
て言うかそんな悲しい事言うなよッ! と。 なんだかんだでもう元気な済。 周囲の視線が痛いのなんて気にしない。 器がデカいのは案外、彼の方かもしれない。
ヒビが入っていそうである。
「…………まあ、飲んじまった物は仕方ないか。 勘弁してやるよ」
「ははっ。 助かるぜ」
全力疾走したために、結局スケスケになってしまっている二人は小さく笑いながら坂道を登り始める。
彼らの学校はちょうど町の高い所に建っており、彼らが登る坂道は向かって左側には住宅地。 向かって右側には町をある程度見下ろせる切り立った丘の様になっていた。
背の低い草が茂るそこはよく風が通り、時折強く吹き付ける草の匂いがする風は二人の体を一気に冷ましてゆく。 ワイシャツが吸い込んだ汗もまた風によって冷たく冷やされるが、それが背中に触れたときの感覚も今はどこか気持ち良かった。
「まったく夏だぜ」
「まったく夏だな」
大きく伸びをした貴仙は、そこで盛大に欠伸をした。
それから町の遠くを見つめつつ、のんびり口を開く。
「夏と言えばもうすぐ夏休みだな」
「あぁ、そうだな」
「お前は行くのか、済。 例の見学には」
「あ~……、お前は?」
「俺は絶賛お悩み中だなぁ。 お前が行くと言えば行こうと思ってたけど……、そっちはどうなん?」
「こっちもおんなじ事考えてたさ。 お前が行くんだったら行こうかとも考えていたけど。 なんだ、絶賛お悩み中か」
「おう。 大絶賛だぜ」
「俺と二人で絶賛同時上映中か」
「悪い。 つまらねぇ」
済が放った肩パンを、ひょいと軽く貴仙がかわす。 日常茶飯事のコミュニケーション。
「まあ、滅多に公開されない場所だからな。 行っても損は無いだろ」
「はっは。 ま、それはそうなんだけどなぁ」
「あれだ。 クラスの奴にも聞いてみようぜ」
「だぁな。 それが一番手っ取り早い」
その後、二人はとりとめの無い会話に興じながら坂道を登り続けた。
そんな二人の背中を押すように、夏の風は吹き続ける。 太陽は輝き続ける。 蝉は鳴き続ける。
――――――この時。 この時にはもう既に、物語は始まっていたのだろう。
どもども。
お読みいただいて、誠にありがとうございます。
さて、後書き本題突入。
傍点リーダー等々、ケータイ読者様には優しくない当小説ですが、アレです。
主人公の名字が、ケータイでは表示されない事が判明しました(少なくとも私の物では)。
主人公の名前は「かんなぎ わたる」ですが、この「なぎ」の字が出てこないんですね。
簡単に説明しますと、アイドルグループSM○Pのクサナギさんのナギが同じ文字だったと思います。
はい、そんなかんじ。
すみません(汗)
さてさて、そんな説明も終わったところで、そろそろ後書きも終えようと思います。
それでは、また次話でお会いしましょう。