極東先端科学技術研究所_07
直後、世界から音が消えた。
否。
これまで混在していた無数の音が、新たに齎された一つの音に押し潰された、と言うべきか。
ッ!! と。無音にも等しい轟音を巻き上げ、数十メートルほど離れた場所の壁が唐突に真横へと吹き飛んだ。理論上では大規模な震災が起こっても難無くやり過ごす事の出来る強度を誇った建材が、対面の壁にドゴンッ! と壮絶な破裂音を立てて衝突。この上なく強固であるハズの壁だった物体は、粉々に砕け散って床へとばら撒かれた。
あまりに訳のわからない現象のせいで、済の思考回路は確実に停止していた。半開きになったその口は「は? は?」と呆けた数珠繋ぎの単音しか発しない。目の前で起きた破壊は、普通に考えたら人を恐怖させるのに十分な事であったのにもかかわらず、その恐怖を通り越して、ただただ何を問うているのかさえわからない疑問しか頭に浮かばなかった。
そしてやはり、自分を庇うように立ち塞がった少女は、今まさに破壊された壁の一角を鋭く見つめていた。
「いやー、探したよ、樂ちゃん。こんな所にいたんだね」
ざりっ、と。緊迫した状況には到底似合わないのんきな声と共に、ぽっかりと口を開けた壁の奥から足音が響いた。通路の低い所に漂う粉塵を掻き分ける様にして姿を現したのは、一人の少年だった。
普通の。どこにでもいる様な、他校の制服を着込んだ少年。済と、なんら変わる事の無い普通すぎる少年が、炎に燃える普通じゃない通路に悠々と姿を現した。
「おいおいおい、何で知ってるのかはわかんねーけど、そう簡単に名前を晒してくれてんじゃねぇよクソったれ。一般人が見てる前だろ?」
「ん? 一般人?」
少女――――樂と呼ばれた彼女の言葉を受け、少年の視線が背後に庇われた済の方へと向けられた。
どこにでもある様な、何の変哲もない瞳が済を見つめ、しかしザクリと、物理的に突き刺された様な衝撃を、その時済は確かに感じ取っていた。
こんな状況でのご登場ではなくとも、きっとそこらの街角でたまたま遭遇していたとしても、目の前の少年に対するこの第一印象は変わらなかっただろう。
――――――コイツ、何かがおかしい。
そして少年に対するその第一印象は、彼と対峙している少女に対する曖昧だった印象も、確かな物へと練り変えてしまう。
――――――やっぱりコイツも、何かがおかしい。
一番最初に、高い天井から彼女が堕ちて来た時から感じていた、どうしたって拭いようのない違和感。それが確固たる物となって、更に頭が混乱した。
何なんだ。ココで一体、何が起こってる?
「一般人、一般人、人間? こんな所に人間? それは凄い、どういう事だか説明してくれないかな、樂ちゃん」
「オレが知ってるわけねぇだろ馬鹿が。強いて言えば、神様に愛され過ぎちまったんじゃねぇの?」
「あー、それは頂けない、本当に頂けないよ可哀想だ。本当に、本当に可哀想だね。出来れば僕が代わってあげたいところだけど、生憎それは無理そうだ。痛みと空腹とトイレは他人に預ける事が出来ないけれど、神様の好意も他人に擦り付ける事が出来ないからね。ご愁傷様。僕が楽にしてあげようか?」
「タコが。一般人に手ぇ出すんじゃねぇよ」
「僕はイカの方が好きかな。縁日のイカ焼きは最高だね。食べた事ある? 無いかな。無さそうだね」
「くっだらね」
どこか気が抜ける様な、けれど二人が交わす視線のただならぬ凶悪さに、済が踏みいる余地など微塵も残されてはいなかった。情けなくも強張る済の体。それを感じ取ったか、樂が自身の体を済のそれへと近付ける。服越しの体温。人の形がそこにあるだけで、不思議と荒かった呼吸が落ち着いてくる。
「誰なんだよアイツは。せ、説明してくれ」
「んー? いやぁ、オレと同じさ。探し物を探しに来たんだよ」
冷静な思考を保つために、口を開き。多すぎる不明瞭な謎を解き明かそうと問い掛けたがしかし、返ってきた返事になおの事首を傾げたくなった。オレと同じと言われても、そのオレがもはや、何者なのか全くわからない。
しかしそんな、何も知らない彼の事など見向きもせずに。状況は宙に投げ出された小石の如く留まる事を知らなかった。
「わぁお、凄い物を見ちゃった気分だよ。『H∽h』の狂犬こと樂ちゃんが人を、しかも助けたところで何の価値も無い一般人を庇うだなんてね。どういう風の吹きまわしかな? 『反対派』なんかに加担している事と言い、キミの飼い主はご乱心かな?」
「っせーよ、そんな事はこっちの勝手だろうが。てか、馬鹿にゃ良い事を二つだけ教えてやるよ」
まず一つ、と。
「オレが牙を剥くのは、テメェみたいなクソったれを喰い千切る時だけだ。一般人に手を出したりなんかしねぇ」
そしてもう一つ。
「今、極研の邪魔をして、どうなるかわかってんのか?」
「んー、良いんじゃないかな、別に。構わないだろう? だってそもそも、僕らはキミらで言うところの『賛成派』なんだから――――――――まぁ、僕はキリスト教徒でもないし世界史の授業が大嫌いだから、この表現が正しいのかはわからないけど、でも、言いたい事は伝わるでしょう? まあつまり、もともと敵対している集団に今回キミらが加担しているって言う事の方が、どんな考えがそこにあるのか理解が出来ないんだけどね、僕から言わせれば」
「知るかボケ。オレらの考えがテメェに伝わらないところで、なんら困りはしないっての」
「まあね、僕もだ。僕の方も全然困らない。僕は僕で、今まで通りの事をさせてもらうだけだからね。……あ、僕が何をしたいのかくらい、わかるだろう? 敵対してるんだからね」
「それだから厄介なんだろ…………。て言うか、他の連中はどうしたんだ?」
「他の連中? 他の連中って言うと、僕の仲間の事かな? それとも樂ちゃんのお友達の事? まあこの状況下でその質問だったら、きっとキミの友達の事を想っているんだろうね。素敵だね、素敵な友情だ。で、質問に対する答えを述べるとするなら」
そこで少年は言葉を区切り、今まで、コレと言って特筆すべき表情を浮かべていなかった、極めて普通なその顔に、一瞬、身の毛のよだつ邪悪な表情を浮かべた。
「蹴散らしちゃったよ。蹴散らしちゃった。その中にキミの仲良しさんがいたかはわからないけど、目の前に立ちふさがった奴らは全員カッコ良く蹴散らしてあげたよ。当然だろう? そもそもキミの仲間にやっつけられてたら、僕は今、ここにはいないんだからね。……そうだ、僕からも良い事を教えてあげよう。人に物を聞く時はね、もう少し考えてからの方が良い。じゃないと、相手の機嫌を損ねちゃう時があるからね」
「キレたか?」
「別に? 僕はそう怒りっぽくは無いんだよ。毎日牛乳も飲んでいるし、カルシウムの摂取は完璧さ。ついでに言えば骨粗鬆症も怖くないね。僕って結構、健康体なんだ」
「そりゃ結構」
にやりと笑いあった二人の会話は、そこで唐突に終わった。ぷつんっ、と機械仕掛けのおもちゃが故障でもしてしまった様に、一切の音が無くなる。
少年の視線が再度、済へと向けられた。キリキリと胃を締め上げられる様な感覚を覚え、ぐっと呼吸のリズムが狂う。無意識の内に樂の白衣の袖を掴んでしまったが、すぐその瞬間に振り払われた。不意の拒絶に頭の中が真っ白に染まりかけ、彼女の「ごめんな」という小さな囁きが聞こえてどうにか僅かな冷静さを取り戻す。
…………ごめんな? どういう、事だ?
「そろそろ良いかな。時間が無いのは、僕も樂ちゃんも同じだろう? 僕は今、ちゃっちゃと仕事を終わらせてシャワーを浴びたい気分なんだよ。夏は暑いからね。汗が酷いんだ。そうだろう?」
「はぁ、しかたない。そうするか」
「い――――――」
二人の間に漂っていた空気が、そこに内包されていたただならぬ気配が、見る見るうちに膨れ上がってゆくのが感じて取れて、済はビリビリと焼け付くような殺意の余波を肌に感じながら、喉から言葉を絞り出した。あまりに呑み込む事の出来ない展開に、頬が緩んでしまう。笑えて来た。意味がわからなかった。
「いやいやいや、お前ら、何やってるんだ? おい、俺にも説明してくれよ。なんだ? 演劇の練習か何かか?」
自分の口から飛び出した言葉が、まるで自分の物ではない様だった。頭の中の一部に残った僅かな冷静さはもっと大切な事を言葉にしようとしてはいるのに、圧倒的に冷静さを欠いた脳細胞の数々が口からわけのわからない事を垂れ溢させる。
そして、そんな済の事を少年は一瞥し、ふぅと溜め息を漏らす。それはまるで済に関心が無い様で。
それでいて、邪険に扱う様な態度でもあった。
「僕、個人的な趣味嗜好で言うと、俺っ娘より森ガールの方が好きなんだよね」
「どっちも一世紀ほど前にブームが過ぎてるっての」
「あ、でも通じるんだ? ネットに依存し過ぎてない? 心配だなぁ。もしかしてキミ、考古学者とか目指してる? 目指してないか。化石じゃないもんね。――――――ごめん、我ながらわけのわからない事を言ったよ。まあ、それくらいに痺れを切らせてはいるんだ」
「痺れ、ねぇ。カルシウムは足りてるんじゃなかったのかい?」
「足りてるよ? 足りてるけど、何も知らない様な奴に気安く馬鹿呼ばわりされるのはさすがに嫌でね。だからこのままだと、俺っ娘批判に手加減出来なかった勢いでさ、間違ってそっちの子にも危害を加えてしまうかもしれない」
少年が向けた瞳の深さに、済の意識は吸い込まれて行きそうになった。その漆黒の風穴にも思える黒目に宿った殺意は、済の意識を揺さぶるのに十二分な威力を宿していた。
思わず、数歩、少女の事を気にもかけずに後ずさる。その事に一瞬はっとした思いを覚え、射る様な眼差しから逃れるが如く彼は樂の後頭部へと視線を向ける。
そして。
何とも絶妙なタイミングで、少女は振り返るのだ。その赤く染まった髪を柔らかく揺らし、肩越しに、済の顔を見つめる。どこか不敵にも思える笑み。どこか強がっている様な笑み。
聖母を思わせる柔らかく清く、憂いに満ちた笑みで済の恐怖に満ちた視線を受け止めながら、言うのだ。
「お別れだな。このまま道なりに進めば、外に出られるだろうよ。大丈夫、退路の確保は万全だ」
「い、いや。本当に意味がわかんねぇって。い、一緒に行こうぜ、こんなわけのわからない奴はほっといてさ。ほ、ほら。二○分なんて短いんだから、急がなきゃ――――――」
「短いよ。短いから、キミだけは逃げな。大丈夫、オレだって死ぬ気はねぇ」
「だから、死ぬとか、蹴散らすとか、それが意味わからないんだよ。本当に何やってんだお前ら? 頭大丈夫か?」
こんな言葉、この局面ではもう既に、何の意味も成さない事など、わかり切っていた。目の前で起こっている事の理解などこれっぽっちも出来てはいないが、ただ、自分の知り得ない世界がそこには広がっていて、自分はそこに追い付く事が出来なくて。
目の前の少女を、そこから引き戻す力が自分にない事が、痛いほどよくわかっていた。
「あぁ、なんか、後ろめたさとか感じちゃってたりする? 気にしなくて良いぜ、別に。てか、気にするな。命令形ですよー」
「で、でも、おま――――――」
「じゃあ、アレだ。タイムリミットが来ちゃったら面倒だから、まあ、気が向いたらで良いけど、オレの探し物をさ、代わりに拾って行ってよ。大丈夫、見りゃすぐにわかるから」
「…………………………」
「黙るなって。別に、拾って行かなくても責めないよ。無理難題を言ってるのはコッチなんだからね」
それでも自然と、足が少女の方へと動いてしまう。何故だかはわからない。何故、自分は必死になって彼女を引っ張ろうとしているのかわからない。それはひょっとすると、本能的に、突如現れた少年に対して恐怖を覚えているからであり、その不可思議な威圧の対象が、少女一人だけに集中される事を恐れていたという事だろうか。けれど確かに、自分が彼女と共にいたところで別段何が出来るとも思わないし、足手まといになるだけかもしれない。けれど、けれどそれでも、ここで黙って逃げ出すのだけは、どうしても嫌だった。その気持ちだけは、とてもとても確かな物だった。
けれど、けれど。
少女は、
「来るんじゃねぇッ!!」
叫び、
「ここから先は救われぬ世界だ! キミが足を踏み入れちゃいけない、クソったれな地獄なんだよ!!」
ひらりと白衣を翻して振り返った少女が、済の制服の襟首を容赦なく片手で掴み上げた。喉が締まって呼吸が困難になり、動転する済をそのままたった一本の腕で振り回し、男子高校生の体を、謎の少年がいるのとは逆方向の廊下の奥へとぶん投げた。
身体の運動では体験する事の出来ない速度で宙を飛び、直後床へと叩きつけられる。肺から空気が漏れ、血なのか胃液なのか判別の付かない物の臭いで鼻腔が満ち、激痛に悶えながらも勢いでゴロゴロと数メートルほど転がされる。勢いが死んでようやく体の運動が停止したところで済は、咄嗟に顔を少女の方へと向けた。
視線の先、少女は壁――――――そこに埋め込まれたコントロールパネルらしきものへ、ズドンッ! と壮絶な音を立てて拳を叩き込んだ。瞬間、今まで死んだように黙り込んでいた照明が一斉に息を吹き返し、眩いばかりの閃光を辺りへと振り撒く。思わず顔を顰めると、ガガガガガ、と鈍い機械音が鼓膜を揺すぶった。光から逃げるように俯かせた顔を再度持ち上げ、音のする方向――――――済と少女との間を隔てる通路の天井を見つめる。
そこに存在していた隔壁が、徐々に徐々にその顎を閉ざそうとしていた。
「かっ、樂!!」
聞いたばかりの少女の名を叫ぶが、背中を強打した衝撃で体が上手く動かない。その間にも隔壁は上下から確実な速度で二人を完全に隔絶させようとしていて。
いよいよ人が通る事が不可能になった隔壁の隙間の向こう。少女が、にやりと笑っていた。キザに手を振った彼女の口が、無音に言葉を紡ぐ。
――――――達者に生きろ。
ガゴンッ。いとも簡単な音が響き、隔壁が沈黙した。次いで、頭上の照明がより一層眩く発光したかと思うと、全ての照明がパンッ! と破裂音を立てて損傷。再び廊下が炎の光のみで埋め尽くされる。つい先ほどまで恐怖に満ちていた空間とは完全に隔離され、けれど酷い喪失感に襲われて。目の前で起きた事が、何一つ信じられなかった。
それでも弾かれた様にギチギチと痛む背中を引き千切る勢いで体を起こし。無意味とわかってはいても鉄壁の遥か向こうから少女を連れ出そうとして。
彼が隔壁に縋り付こうとするその直前に。ズゴンッ!! とけたたましい音が響き、眼前の隔壁が手前へ大きく隆起した。
「ぃっ――――――」
一瞬の間に足が運動を放棄し、舌の根が痺れる様に痙攣した。
――――――死ぬ。
突き刺す様に拉げて隆起した鋼鉄の先端を見つめ、単純にそう思った。当然だった。ありえない。こんな見るからに強固な鉄壁を一発でここまで歪めてしまう外力とは果たして、どれほどの物なのか。そしてそんな力の塊が荒れ狂う隔壁の向こうへ自分が踏み込んだところで、一体それが何を招くと言うのだろうか。
問うまでもない。死、だろう。
駆け出した。隔壁に背を向け、振り返る事もなく、道なりに、ただただ、必死に駆けた。足が止まらなかった。
仕方ない。仕方ないんだ。だって、だって自分はただの高校生なのだから。つい少し前まで友人とのんびり施設見学に興じていた学生でしかないのだから。コレがアニメや漫画、映画の世界であると言うのなら話は変わるが、しかし当然、自分がいるこの世界はどこを見渡しても現実世界。現実世界に生きる自分が今ここで、自身の身に似合わぬ行動を起こして命を危険に晒す方がよっぽど馬鹿なのだ。だからこれは、この逃亡は何も間違ってはいない。
そうだ、そうだ。彼女だって、言っていたではないか。逃げろと。彼女は言っていたではないか。死ぬ気は無いと。だったら、平気なのだ。ここで自分が逃げ出したって、平気なのだ。
否、否、否。これは逃亡などでもない。そんなみっともない行動ではない。自分はただ、ただただただただごくごく当たり前の行動をとっているだけなのだ。言わば生き物が呼吸をするのに等しく、食事をするのに等しく、生きている事そのもの自体に等しく。
壁が燃えているとか。瓦礫が足元に転がっているとか。そんな事は関係なく。ただ貪欲に、生きる事だけを求め。
それが人間だ。それが生き物だ。それが命だ。
自分はごく当然の行動を取っているだけのハズなのに、どうしても胸が引き千切られる思いで一杯だった。けれど引き返したところで何が出来るわけでもなく。悶える様な心の苦しみを必死になって振り払うが如く、ひたすらに進んで。
少女の言う通り、駆けるのに不備の無い、確保された、誰かのために、きっと彼女のために確保された退路を駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて。
頭の中身がグチュグチュと嫌に痛かった。そう言えば自分はモニターの役目を引き受けていて、事故が起こった直後、酷い頭痛に悩まされていた。そんな事を、今更になって思い出して。けれど頭痛は影を潜める事を知らず。胃が痙攣し、肺が萎縮し、血反吐でも吐き出しそうなその口に生えた歯を目一杯に噛みしめて。
一本の長い通路へと辿り着いた。気が遠くなるほど長いそのまっすぐな通路はその出口を完全に闇の中へと埋没させている。進んだ先に果たして何があるのかわからず、しかしやはり、足を止める事が出来ず。いや、生きる事に必死になり過ぎた脳味噌に、行く手が見えるか否かなどという取るに足らない不確定要素など、四肢へ信号を送る際の判断を下すにあたっては何の意味もなさず。足が止まる訳もなく。
駆けて、どれほど通路を進んだ時だろうか。頭蓋骨を内側から押し開こうとしている様な痛みが、突としてこれまで以上の熾烈さを極めて済の五感を襲った。左側頭部に、穴でも穿たれたのかと勘違いする様な激痛が走る。思わず吐瀉物を噴き出し掛け、必死に飲み下し。
ゴトン、と。何かが倒れるような音が、視線の外。左側から聞こえて来た。
その行動は、果たしてどのような理由があった上での物だったのだろうか。
生きるために、より多く情報を得ようとしていたための反射的な反応か。
左側頭部に痛みを感じていた状況での『左』だったが故に、やはり反射的に視線を送ってしまったのか。
はたまた、ただ単純に、ただの反射として、左側へ顔を向けてしまったのか。
理由はなんにせよ。
酷く、後悔した――――――音の発信源を確かめようとした自分の反射神経に、呪う様に後悔した。
耳が聞こえなければ良かった。目が見えなかったら良かった。首が動かなければ良かった。足が動かなければ良かった。――――――そもそも自分という存在が、今この空間に存在していなければ良かった。
見てしまったのだ。
自分の真横の壁。そこに存在した扉。開かれた先の空間。ビーカー状の巨大なガラスの円柱。その下に倒れ伏す、一人の少女。
――――――何でそんな所にいてしまったんだ。
――――――ふざけるな、なんでいる。
足が止まってしまった。それまで一度でも止める事の出来なかった足が、その瞬間に止まってしまった。そして逡巡。
助けるか、否か。
馬鹿なのか? と自分を客観的に評価する。見捨てれば良い。今すぐ逃げなくては。そうだろう? このままでは死んでしまうかもしれないんだぞ? そんな荷物、抱えて逃げる余裕がお前にあるのか? 今ここで足を止めている一秒一秒が、そのまま死へと直結するんだぞ。
その通りだった。人一人を抱えてこの建物から脱出する体力も気力も、今の自分には残ってはいなかった。ここは、見捨てるしかない。普通に考えたら、誰だってそう思う。
確かに辛い。人を見捨てる事は、とてもとても辛いのだ。その想いを彼は、つい先ほども味わって来た。こんな場所で人を見捨てて逃げる事が、どれだけ辛いのか、すでに彼は知っている。
けれど、仕方ないだろう。こっちだって、生き物だ。生きなくてはいけないんだから。誰だってそうだろう。
それに、仮にもし自分が目の前に倒れた少女を見捨てて外に逃げたとしても、誰も自分の事を責めはしないだろう。よく頑張ったね、辛かったね、仕方なかったね。そんな優しい言葉を掛けて、早々に病院にでもどこにでも、安全な場所へ運んでくれるだろう。
だから、だから。
だから、見捨てたってなんら問題は無いのに。ふと、思い出してしまったのだ。
――――――オレの探し物をさ、代わりに拾って行ってよ。大丈夫、見りゃすぐにわかるから。
探し物――――探し者。
者――――人間――――生きている――――自分と同じ――――彼女と同じ。
―――――――黙るなって。別に、拾って行かなくても責めないよ。無理難題を言ってるのはコッチなんだからね。
別に、拾って行かなくても責めないよ。
ギチリ、と。太股の肉が悲鳴を上げた。
「ふっ………………」
笑みを浮かべ。釘で縫い付けられた様に動かない足を、強引に床から引き剥がし。全身の筋を断裂させる様なイメージを頭の中で思い起こし、必死になって、片方の足の爪先を、部屋の方向へと捻じ曲げた。
それだけで、足の関節という関節が痛かった。心が、体が、完全に倒れた少女を助け起こす事を拒否している。けれど、それでも。心とか、体とか、そんな面倒な物は関係無しに。
「――――――ふざっけんな」
だんッ、と。やたら勇ましい踏切で。動こうとしない体を、強引に部屋の中へと放り込む。言う事を聞こうとしていなかった全身はしかし、一度動き始めてしまえば、あとは面白い様に動き回ってくれて。
けれどそれは決して、車道を法定速度で走行している様な安定感のある疾走ではなく。凍りついた雪山の急斜面を、一切の抵抗も出来ずただ底の知れぬクレバスに向けて転げ落ちている様に。
走った。無駄に広い部屋だった。無機質的な部屋だった。赤く燃えていた。全てが破壊に呑まれていた。
「ふざっけんな、もうウンザリだ! 助けてくれよ、神様よぉぉぉッ! 良い事をすりゃぁ、それだけで救われるんだろッ!!?」
もう嫌だった。滅茶苦茶だった。何一つ頭に入ってこない。
何で自分はこんな目に遭わなくてはいけないのか。良い事は沢山しているのに。どうしてなんだ。どうして樂を引っ張って来れなかった。どうしてここに人が倒れている。なんで俺に面倒を掛けさせるんだ。話が違う、違い過ぎるぞ。このままではショートしてしまう。無事に建物の外へ出たところで、思考とか心とか、何か大切な物がショートしてしまいそうで怖かった。
今ここでこの女の子を助けてやるから、黙って俺を、皆を、救いやがれ。
必死に走って、ようやくの思いで倒れた少女の元へと辿り着き。伏した体の下側に手を突っ込んで、腰に力を入れ、勢いを付けて持ち上げる。
「っ!」
体の重心が、真後ろへと引っ繰り返りかけた。それを、転倒寸前で持ちこたえて、ぎょっと目を丸くしたまま、腕の中に御姫様だっこよろしく収まった少女に視線を落とす。
馬鹿にならないほど、馬鹿なほど、少女の体は軽かった。
腕の中から長く垂れた炎に照らされて金に輝く髪はどうやら、本来は綺麗な銀髪らしかった。抱きかかえた、薬品の臭いが鼻につく肢体は力を込めなくとも、触れただけで砕けてしまいそうなほど華奢な造りをしていて。その肌理細やかな肌は真珠の様に白く。小さな唇の間からは、微かに吐息が漏れていて。
眠っていた。こんな状況下で、一人別次元に住んでいる様に、安らかに、眠りについていた。その寝顔はあまりに美しく、見惚れてしまい。それと同時に恐怖も覚え。
何かとても大切な物が、欠落してしまっている。彼女と言う存在の重みが、一切合財喪失されてしまっている。
それがとても恐ろしくて。全身がガタガタと震えて。なんなんだ、コイツは、と。
それでもそうやって、いつまでも凍りついているわけにもいかず。済は踵を返し、再び通路に向かって駆けだした。
腕に抱えた少女の重みは決して彼の枷になる事は無く。けれど少年は、その重みの無さが何を意味するのかを知りもせず。それが果たして、どれだけ重き事なのか自覚も無いままに。
済が少女を抱えて廊下へ飛び出した直後、ドゴガガガガッ!! と脳を揺さぶる様な音が背後で巻き起こった。一瞬だけ振り返り、戦慄する。今の今まで自分達がいた場所に、瓦礫の山が出来あがっていた。
ギュッと肝を冷やし、ギリギリのところで助かった事に安堵を覚えるのと同時に、ひょっとしたら押し潰されていたかもしれないと言う可能性が頭によぎり、ぐらぐらと視界が揺れた。
それでも必死に。腕の中の温もりを無我夢中になって手繰り寄せ。神様に向かって咆哮しながら、燃える通路を駆け抜けた。
救われた世界における、神様に愛され過ぎた少年の物語。
互いを噛んで離さない無数の運命の歯車は今、更なる加速を果たした。




