極東先端科学技術研究所_04
突として頭部を内側から襲った、名状しがたい衝撃。身体から切り離され、どこまでも深い闇に眠っていた意識が急速に現実世界へと引き上げられるのと同時に済を覆ったのは、脳髄の深く深く深い中心部から放たれる捩じ切れる様な、焼け付く様な、押し潰される様な、凍て付く様な、引き裂かれる様な。一瞬にして身体の調子を侵し異常を発生させる痛みにも似た、しかし確実に痛みとも断定できない、真の意味では理解不能な衝撃だった。
両の瞼を咄嗟に開く。暗がりが消え去ったそこに広がるのは、自分の五感が正常に機能しているのか不安になるほどの無感覚を生み出す空間。そしてそれを覆う寒色の仄かな照明。
初めここで眠りに就いた時は、科学の最先端技術が生み出したその狭い空間に、しかしこれまで味わった事の無い解放感を感じていた。
しかし今となっては、その感覚の無さが恐ろしい。
寒色の光に満たされた影響でかひんやり冷たく感じられていた空気は、しかしいくら肺の中に取り込もうと、激しく脈打つ心臓を鎮めてくれる事は無かった。ただただ貪る様に空気を吸い込み、けれどどうしても満たされた気がしなくて、物理的には、生物学的には十分な酸素を取り込めているハズなのだろうに、どうしても焼け爛れる様な焦燥に駆られる。救いようもないほど暗い海の底に沈められた様な、このまま無抵抗でいたら命が危ないとわかっているのに、抵抗したところで何も覆せないと言う、狂気さえ芽生える焦り。
済はそんな狭い無間地獄にも似た空間内で、必死にその右手を突き出す。縋る様に突き出したその掌が、カプセルの蓋の内側に触れる。ただでさえ狭いカプセルだ。高校生が右手を突き出して、触れられない訳が無い。しかしそれでも、しっかり触れているハズなのに、どうしてか手の動きが空回りする。カプセルの蓋を無理にでも押し開けて外に逃げたいのに、掌がつるつる滑って言う事を聞かない。
焦り。思考がガラガラと音を立てて瓦解し、視野狭窄に陥る。
――――と、
「大丈夫ですか!?」
カプセルの蓋が、極研スタッフの緊迫した声と共に開け放たれた。薄暗い照明に慣れ切っていた網膜に、外界からの眩い光が突き刺さる。意識がぐらりと一瞬だけ傾ぐのを無視して、済はその上半身を跳ね起こした。
カプセル内と外界の僅かな温度差に、彼は自分が、恐ろしいまでの脂汗を背中に浮かべていた事に気付く。そして、ほんの数瞬だけ冷静になった思考が読みとったのは、胸の中心で荒れ狂う嫌な不快感。
吐き気に近いが、けれど吐く事の出来ない様な。例えば睡眠時間がまったく足りていない状態で無理やり叩き起こされた時に感じる胸焼けの様な不快感。それに近い、しかしあまりにも苦し過ぎるそのキリキリと締め付ける様な感覚に、済の呼吸は自然と浅く、そして早くなっていた。
すぐ傍に寄り添っていた男性スタッフに助け起こされる様によろよろと立ち上がり、そして済はようやく気付く。
自分と同じくモニターとなった三人の少年少女もまた、自分と同じように顔を苦悶に歪めている。そしてそんな彼らを取り巻く大人たちは皆、必死の形相でコンピューターの操作に明け暮れていたり、済がそうされている様に子供の介抱に当たっていたり。
そして口々に「まずい」「失敗した」「逃げろ」「火の手が」「通信が」と。何やら不穏な言葉を口走っている。
「な、なにが……?」
スタッフに支えられた済は、呻く様な低い声音で言葉を絞り出す。
少年の至極真っ当で素朴な疑問の返答に窮すよう眉を潜め、視線を泳がせたその男性スタッフは、自身の支えから離れて、まだ僅かに覚束ない足取りで自立する済を心配そうに見つめた。
「詳しい事は言えないけど、今はとにかく――――――」
男性スタッフの言葉は、最後まで紡がれる事無く、直後に巻き起こった悲鳴によって揉み消されてしまった。
ふっ、と。どこまでも自然に何の前触れも無く、部屋全体の照明が落ちたのだ。
光量が激減したすぐその瞬間に、誰の物ともつかない悲鳴が満場を包み込む。ただでさえ本能的な恐怖を駆り立てる悲鳴にギュッと胸が締め付けられそうなのにも関わらず、しかし済は、更なる恐怖に襲われた。
照明が、コンピューターもカプセルも、隅から隅まで明かりが消えたハズの室内なのに、何故か空間全体は妙に明るい。
厚いガラスを隔てた向こう側の――――カプセルで横になる前に案内された部屋。更に今は無人であるその部屋の開け放たれた扉の奥。チラチラと赤く強い光が、済達がいる部屋までをも照らしているのだ。
――――――赤い光。
嫌な予感が脳裏をよぎる。しかしそれを、信じる事が出来ない。
まさか。まさか自分が、そんなハズはない。いくらなんでも、自分に限ってそんな事故に巻き込まれるハズが無い。
人間、誰もが陥る、逃れられぬ事実に対する無理矢理な現実逃避。しかし視界に映るゆらゆらと揺らめく不定形の影が、儚い希望までもを駆逐する。
「だ、誰か……」
混乱極まる思考に、そんなか弱い声が僅かな冷静さをもたらす。
ハッとして赤く薄暗い部屋の中を見渡すと、そこにはカプセルのすぐ傍にへたり込んで人知れず震えている夏漣の姿があった。
(ッ!!)
済はその瞬間、息を呑む。
――――――やっちまった。
駆け出す。滑り込む様に夏漣の元へ駆け寄り、小さくなったその背に手を添えた。
添えた手の平から伝わる僅かな震え。胸がギュッと握りつぶされそうになる。思わず苦く歯を食いしばりそうになるのを、無理矢理頬の筋肉を弛緩させて耐える。そんな自分に嫌気を感じながら、ようやく声を絞り出す。
「大丈夫か、天埜?」
「済君…………」
声を掛けられ、ようやくその存在に気付いた様に。ふっと、少しだけ目を見開き、夏漣が済の顔を見上げた。
不安を和らげるために、無理をして笑おうとする。けれどそれが本当に出来ているのか、自分には決してわからない。
「な、何があったの?」
「わからない……」
今自分達がどのような状況下に置かれているのかわからないという、途方も無い不安に押し潰されそうになりながら。けれどもやはり、そうやって、友達の相手をしている自分がいる。
無駄に冷静になり始めた思考が、自身の行動を客観的に評価し始める。その評価が確定的な物に変わるより前に、済は嫌な思考を振り払うように、夏漣の背に添えた手を強張らせる。そしてやはり、不器用で不格好な作り笑いを浮かべ、縋る様な視線を送って来る彼女に言った。
「と、とりあえず落ち着こうぜ。何が起こってるのかはわかんねぇけど、とにかく今は極研スタッフの言う通りにしてれば平気だって」
「…………うん、そうだね」
「そうそう」
立てるか? と済が促すと、夏漣は小さく首を縦に振って足に力を込めた。
慎重な足取りで立ち上がった彼女は、そこで「うっ……」と小さく漏らして僅かによろめいた。慌てて手を差し伸べようとする済を左手で制し、空いた方の手では頭を押さえている。「へへへ……」と、晒した弱々しい姿に照れた様な笑みはしかし、右手で押さえた頭に起因するのだろう何かしらの症状――――恐らくは頭痛によって、薄い影を帯びていた。
そしてそんな彼女に笑って返す済自身も、眠りから醒めた時から感じていた頭痛を解消できているわけではない。火傷の傷がしつこく痛覚を刺激する様に、執拗なその頭痛は確実に彼の冷静さを蝕んでいる。原因不明な激痛は、単純に恐怖の対象でしか無かった。
「皆、こっちだ! 早くここから出よう!」
この部屋唯一の出入り口の傍らで、極研スタッフが声を張り上げる。
その声に誘導される様に、名前も知らぬもう二人の学生がスタッフに連れられ、部屋を後にする。その後ろ姿を見送り、済はもう一度夏漣の背中に手を添え、軽く押す様にしながら言うのだった。
「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」
◇
音がした。大きな音だった。
目を開けると、そこには青白い光景が広がっていた。
青白いその光景に、視界の下方から、ぶくぶくと泡が昇って行った。
自分の口から漏れた空気だった。水の中にいた。
前を見た。
ゆらゆらした視線の先で、白衣に身を包んだ人たちが、慌てたように部屋から逃げ始めていた。
その部屋は燃えていた。
ガキンッ、と再び大きな音がした。
かと思うと、全身を包み込んでいた水が、音を立てて容器の外部へと流れ出し始めた。
その水流に抗う事も出来ず、体は水と共に容器の外へと投げ出された。
床に転がった。うつ伏せだった。
肺が水に満たされていて、呼吸が出来なかった。
肺が痛くて、咳き込んだ。口と鼻から水が溢れ出た。
ようやく空になった肺で空気を吸うと、やはり肺が痛んだ。
そして、気づくと自分は燃える部屋の中に取り残されていた。
水の中にいる時より、ずっと大きな音が続いて鼓膜を叩いた。
白衣の人が逃げていたのを見たから、自分もココから出ていくべきなのだろうと思った。
けど、体が動かなかった。酷く疲れている様だった。頭も痛いらしかった。
すぐ近くで炎が揺れていた。どこかの天井が崩れる音がした。
だけど疲れていたので、これ以上頑張らない事にした。
頭が痛いから目を閉じていると、炎が濡れた体を温めていた。
疲れ切っていたから、眠りに就くのに大きな音がする事なんて関係なかった。
意識が遠のいた。
◇
赤、赤、赤。
轟々と。一行が慌ただしく駆け抜けるその通路は、ドラマやアニメでしか観た事の無い様な、この世の終わりを告げる様な業火に包まれていた。
皮膚を焼き、眼球を焦がすその炎は猛り狂ったように天井高く吹き荒れ、本来は冷ややかささえ覚える純白の通路壁面を紅蓮に、そして灰黒色に染め上げていた。
時折、目の届かぬ遠くで何かが崩れる音がする。見上げた天井では、並んだ蛍光灯のどれもこれもが粉々に砕けていて、圧せられた様に拉げた天井板の向こう側では、見るに堪えないほど破壊しつくされた設備が炎の光に淡く照らし出されていた。
――――炎。圧倒的な破壊を齎す原始的な脅威。最先端の科学技術が濃縮された極東先端科学技術研究所は、原始的な破壊を前にしてもはや、何の成す術も無いままにその全てを焼き尽くされ続けていた。
先行していたスタッフが、一行に先だって突当たりの角を曲がる。そして悲鳴。
「クソ、ここもだッ!」
僅かに遅れて曲がった通路の先を覗いた済はそこで、もう何度目とも知れない絶望を味わう。
燃え盛り、灰黒色に染まった通路。天井から吊り下がるのは、非常口の在り処を告げる小さな看板。そんな通路は、本来なら非常口に繋がるハズの通路は、崩落した天井・壁の瓦礫によって、完全に行く手を塞がれていた。
これで、果たして何回目の行き止まりだろうか。そんな事を考えて、けれど考えていたら思考が恐怖に呑み込まれてしまいそうで、済は頭を大きく振った。
「クソっ、クソっ、クソォッ!!」
恥も外聞も無く、スタッフの男が強く怒鳴る。建物内に多く設けられた非常口。先程から、そのどこへ行っても変わらず自分達を待ち受けている絶望に、男はその場全員の遣る瀬無さを代弁するが如く、崩れ落ちた瓦礫を睨んで地団太を踏む。
「……どうしよう。ホントにどうしよう……!」
傍らに佇む夏漣が塞がれた非常口を見つめ、切迫した声音で一人呟く。その瞳は今に泣き出してもおかしくはないほど力強さを失っていて、しかしそんな彼女の傍にいる済は、彼女を励ます事も出来ずにいた。
ずっと。ずっと建物の中を走り続けているのに、まるで自分達が恐怖のどん底に突き落とされてゆく様を嘲笑うかのように、非常口へと繋がる通路は瓦礫で塞がれてしまっているのだ。それこそ誰かがこの混乱に乗じて通路を破壊し、彼らを建物の中に閉じ込めているかの様に、どこもかしこも塞がれている。
まったく、この場にいる全員が泣き喚いていない事の方が不思議だった。人間、こんな極限の状態に立たされたら誰だって狂ったように騒ぎだしてもおかしくはないだろうに、皆が黙々と、自身に出来る事を行ってこの地獄から逃げようとしている。
あまりにも不自然な冷静さ。果たして、一同の心を支える存在とは、何なのだろうか。
「…………神様、か」
ぽつりと、自然と口から零れる言葉。恐らく、この場にいる全員の最後の心の支えになっている物は、この世を『救済』したとされる『神』の存在だけなのだろう。
――――――努力をした者は、必ず救われる。
神の救済によって、上辺だけの道徳的な文句は現実の物となった。努力した者は報われ、愚行を働く者は罰せられる。その絶対的と信じて疑わない法則があるからこそ、今ここにいる全員が、途方も無い恐怖と闘いつつ、自我を失わないで生きようとしている。
けれど、と。こうも思ってしまうのだ。
――――――――努力をすれば報われる世界で、どうして自分達は今、地獄を見ている?
「まだよ。まだ諦めるのは早いわ!」
一行の後ろで、白衣に身を包んだ女性スタッフが言う。
「ここのすぐそばに階段がある。その階段から下の階に下れば――――」
「もう無理だッ!」
女性スタッフの言葉を遮る様に、また他の男性スタッフが叫ぶ。
「わかってるだろう!? この建物はたとえ過去に日本で起こった大震災同等かそれ以上の地震が起こっても、理論上では外壁にヒビ一つ入らない。どんな衝撃だって、最適の方法で受け流すよう建てられているんだ。使っている建材だって、火炎放射器の一点集中砲火を受けても決して燃えはしない。どれもこれも、全部実験済みだ! なのにこの状態は何なんだ? コレでも助かるって言うのか!?」
「じ、実験ではそうでも! 何らかの小さな誤差が大きな間違いを生むことだってあるじゃない! 今回だってその誤差のハズ――――」
「違う!」
声を遮り、自らの髪の毛を両の手で掻き毟り、引き抜くように強く握りしめ、掛けたメガネの奥に見える瞳をギラギラと見開き、彼は押し殺し震える声で言う。
「コレは天罰だ……。人間が余計な事をしたから、神様が罰を下したんだ……! もう助からない、俺たちはここで死ぬんだ。全員死ぬんだッ!!」
叫び、その場に崩れ落ちる男。ガクガクと震えるその肩に、仲間のスタッフが包み込むように腕を回す。
しんと静まり返る。炎の燃え盛る音と、建物が崩れる音以外、耳に届く物は無かった。
きっとこの場の全員が抱いていた僅かな疑いを、その男は口に出しただけだった。暴走ではない。ただの決壊だ。誰かがいずれ言っただろう当然の文句を、一番最初に叫んだだけだった。
足元を見つめ、済は唇を噛む。
男の言っていた『天罰』や『余計な事』の事は、いまいちよくわからない。だがしかし、この気持ちだけは恐らく、目の前で全身を震わせる男と同じであるに違いない。
――――――きっと自分達は、神様に見捨てられたのだ。
甚だ疑問だ。別に自分は、罰あたりな事をした覚えはない。毎日真面目に、正直に生きて来た。こんな弩級の罰が下る様な事なんて、した覚えが無い。
けれども実際、自分は業火のど真ん中に放り込まれてしまった。これから助かるかどうかわからない、ひょっとしたら死んでしまう可能性の方が圧倒的に高い状況下に立たされてしまった。その事実だけは、決して覆す事が出来ない。
ならば。
ならば、どうすれば良いのだろうか。
「…………行こう。諦めるのはまだ早い」
諦めなければ、きっと救われる。きっと神様も、救いの手を差し伸べてくれる。今はそう、信じるしかない。
ぼそりと呟いた言葉に、全員の視線が僅かに上向いた。知らず知らずの内に絶望に支配されかけていた心に、一条の希望が射す。その場の者全員の瞳に、再び毅然とした光が灯る。
仲間に助けられ、崩れ落ちていた男がゆっくり立ち上がる。その姿を確認し、女性のスタッフがまた通路を進み始めた。
これから向かった先の通路が、また崩れているかもしれない。ひょっとしたらそこへ辿り着く前に、アクシデントが起こって最悪の場合、命を落としてしまうかもしれない。そんなマイナス思考は、きっと全員が胸に抱いているだろう。
しかし今は、とにかく進むしか他に無い。絶望するにはまだ早い。信じる事さえ止めなければ、最後には神様に想いが届くかもしれない。人々が太古の昔からそうして来たように、信じ続けていれば。
駆け足に階段を駆け降りる。遠くで聞こえる崩壊の音が、徐々に強くなり始めている気がした。高い天井に垂れ込めていた煙の量も格段に増し、更に更に死の可能性が高まってゆく。
最後の一段を跳び下り、一行は再び通路を走り始める。時折ガラガラと嫌な音が聞こえて来て、通路はすでに、多くの瓦礫が邪魔をしてスムーズな走行を困難にしていた。
恐怖と炎の熱で、背中は汗でびっしょりだった。きっと通路の横幅が広くなかったら、とっくの昔に全員丸焼けになってただろう。炎を見つつそんな事を考えてしまって、恐怖に固まりかける足を懸命に動かす。
通路を曲がり、しばらく直進。更に角をまがった所で、誰かが歓喜の声を上げた。
「非常口だ、崩れてない!」
まっすぐに延びた通路。多くの瓦礫が床の上を覆うその先に、緑色の光を放つ非常口の看板を見る事が出来た。
「やった、やったぞ天埜!」
「い、痛いっす」
死に物狂いで探し求めていたその光に、思わず力んでしまった済。気付けば、心の中で乱舞する歓喜の感情を包み隠すこともせずに、夏漣の背中をバシバシと強く叩いていた。
「あ。わ、悪い」
「うへ……。やっぱり男の子の腕力は違いますなー」
「…………なんか、勝手にテンション上がっちゃってすまん」
「あ、いや、そんなに気にしなくて良いから。大丈夫だって」
ふふふ、と。決して危機的状況から完全に脱した訳ではないのだが。しかし、これで助かるという安堵の気持ちが、強張っていた夏漣の頬を自然と柔らかく綻ばせた。
そしてそれを見た済もまた、更なる安堵を覚えてにこやかに笑う。先程の物とは打って変わった、自然な笑みが頬に浮かぶ。
自分達を取り巻く人々も、確実に安堵している様だった。済の耳にはしっかりと、「やった……」「助かった」と口々に言う声が聞こえる。
スタッフの一人が皆を導くように歩き出す。その歩調は非常口に近づくにつれて早まっており、早く外へ出たいと言う気持ちが如実に表れていた。
しかし――――、しかし。
非常口までもう少し。残り三○メートルも無いだろうところで。全員の足が駆け足になっていたところで。
ドゴンッ!! と。今までにない爆発音が、一行のすぐ傍で巻き起こった。
弩級の地震にすら耐えると言う建物が、その一発の爆発で明らかに揺らめく。ギシギシギチギチと、散々ダメージを受け続けていた建物全体が悲鳴を上げた。
「あっ」
一行の最後尾を駆けていた済と夏漣。突として起こった大きな揺れと足元に転がる瓦礫に、夏漣の足元がすくわれた。
「危な――――――」
反射的に夏漣の体を支えようとした済の声が、前方で巻き起こった狂乱に呑まれる。
ギギギギギ、と。聞くに堪えない嫌な音。立ち止まり、手を取って夏漣を支えた済は背後を――――――非常口のある方向を見て、それを見て、
「崩れるぞッ!!」
二人の少し先を行く集団の誰かが叫ぶ。
見上げた先。天井が、お椀をひっくり返した形に垂れ下がる――――――崩れ始める。
ギュッ、と心臓が縮まる痛み。ギギギギギギギギ、と天井の軋む音が更に大きな物となる。
目測でも、時間が無い事は明らかだった。その場全員の駆け足が、本気の物となる。我先にと通路を進んでゆく集団に済と夏漣も遅れて追随。
無意識の内に繋ぎっぱなしだった二人の手。夏漣を引っ張る様にして走っていた済は、ふと気付いた。
気付いて、これまで以上に驚愕した。
遅い。
明らかに、夏漣の走る速度が遅い。
何故か。
すぐに悟る。
左足を庇う様なぎこちない足取り。
理由は簡単。
先程転びかけた時、その左足を捻ったのだろう。
ギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ。
「あ、天埜!」
「ごめん、足が……」
一呼吸おいて、
「先に行って、済君……!」
「無理だ。無理に決まってんだろ!」
「でも、このままじゃ間に合わないから!」
「間に合う間に合わないじゃない」
――――――間に合わすんだよ!
「早くしろ! もう崩れるぞ!」
いつ崩落し始めてもおかしくない天井の真下を通過し終えたスタッフの男が、遅れる二人の存在に気付いて振り返る。しかしそのスタッフは、否、すでに対岸へと駆け抜け終えた二人を除く面々は、誰一人として、心配そうな眼差しこそ向けては来るが、決して二人を助けようとしたりはしなかった。
誰かが叫ぶ。二人が駆ける。誰かが怒鳴る。二人が駆ける。
ギギギギギギギギギゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴガガガガガガガガガガガガガガガガガガ。
あと残りほんの少しのところでタイムリミット。
どんな衝撃にも耐える建材が、決して燃える事の無い建材が、音を立てて崩れ始めた。
希望が絶望に。そして諦めに塗り替わった瞬間。
目に見える早さで瓦礫が落下する。
今この瞬間、繋いだ手を振りほどけば、ひょっとしたらギリギリで間に合うのかもしれない。そんな事を、考えてしまう。
けれど。
けれど、もしも神様が本当にいるのだとすれば、
「わ、済君!?」
小学生がハンマー投げを真似る様な汚いフォームで。夏漣の腕を、両手で掴んで大きく振るう。
無理な軌道とか、相手の腕の事とか。そんな事は二の次で。
とにかく、振り回す。それこそ、自分の腕の方が壊れてしまう様な力を込めて。
それは祈る様に。
――――――もしも神様が本当にいるならば、
「外で待っててくれ」
「済く――――――」