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救われた世界で  作者: 千悠
01__少女との出会い
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極東先端科学技術研究所_03

 小・中学生に先んじて島に到着した高校生達が一様に昼食をとり終えた頃、極研での施設見学も本格的に始まった。

 今回の見学会では、その参加者規模と開放施設の数の問題から、多くある一般開放施設の中から参加者当人が見学したい施設をいくつか選択し、同じ施設を選択した生徒達が集団を形成して行動するようになっている。せっかくの、今後もう一度あるか否かわからない見学会。どうせだったら全ての施設を回ってみたいと思う学生も多くいるだろうが、如何いかんせん満を持して一般に公開された施設の数は無論両手の指では数えられないほどの数があり、そんな施設が並び立つこの人工島は、全ての施設をきっちり回っていたら日が暮れてしまう程の面積を有しているのである。

 そんなこんなで。

 済と夏漣、そして貴仙達が巡るルートはその選択した施設の関係上、前記の二人と後記の一人に別れてしまう事となった。

 見学会の一週間ほど前に行われたアンケートによる結果なので仕方ないと言えば仕方ない事なのだが、済と夏漣の見学コースが被った事に対する貴仙の思わせぶりなリアクションの真意を、未だ済は理解していない。


「わざとぉ……、じゃあないか」


 見学コースが学校の教師から言い渡された時の悪友のニヤリ顔を唐突に思い出し、済は頭上で光を放つ照明を見つめた。メイドイン極研であるらしいその照明は、普段学校などで見る普通の蛍光灯と外見こそ違いはないが、しかしこうして両目を開き見つめていても、どういうわけか目の奥に痛みが生じない。思えば部屋全体を満たす光の加減も騒がしくなく、それでいて大人し過ぎもしない、非常に適切な明るさである様に思える。

 ガガコン。

 極研すげー、などとぼんやり感嘆する彼の耳に、そんな衝突音が聞こえてくる。ふと視線を天井から正面へと戻し、散漫していた意識を掻き集めると、視線の先では楽しげに眼を細めた夏漣が「にっしっし」とガッツポーズをしていた。それに気が付くのと同時に、済の耳にはかしましく賑やかな電子音が。視界の下方を、煌びやかな電光が刺激する。


「あ、やられたッ!」

「はっはっは! ボーっとしているキミが悪いのだよ!」


 マジかよぉと済は唸る。しかしそんな彼の悔しさを置いてきぼりにする様に、試合は続行。再び済と夏漣の勝負は始まる。

 二人は今、極研で開発された技術を体験するために設けられたブースでとあるスポーツに興じていた。その競っている競技とは、名前を知らない人は恐らく滅多にいないであろうエアホッケー。長細い盤を間にはさみ、二人は先程から静かな、しかし苛烈な争いを繰り広げているのである。

 エアホッケーの何が極研か? と問われれば、一番の特徴はその競技方法だろうか。長細い盤を挟んでエアホッケーに興じている二人はしかし、先程から腕は愚か、指の一本も動かしてはいない。済と夏漣の二人はただただ、設けられた椅子に腰を下ろして盤上を滑るパックを視線で追い掛けているだけなのである。

 そんな二人の首筋には、心電図検査やAEDを使用する時に用いる様な、しかし驚くほどに小型な電極パッチが貼り付けられている。そしてそのパッチから伸びるこれまた細いコードは二人の間に鎮座する、座った者の目の前の縁から、表面がまるでマネキンの腕の様に滑らかなアームが飛び出したホッケー盤の下部へと繋がっている。


「あぁ、ムズムズする……」

「うん?」


 済の小さな呟きに、盤上から視線を僅かに上向けた夏漣が首を傾げる。盤の上で、滑らかに動くアームが握るマレットに弾かれたパックを見つめながら、彼は首をその筋を伸ばす様に大きく捻った。伸びた細く長いコードがだらりとたわむ。


「いや、なんだ。確かにこの技術は凄いけどよ。やっぱスポーツって、自分で動くからこそのスポーツじゃん? それをさ、こうして座りっぱなしってのは、なんか落ち着かないっていうか」

「なるほどねー。済君って意外と体育会系だったり?」

「いや、そうじゃねぇけど」

「うおーッ! 走ってないと死ぬーッ!! みたいな?」

「あれ? 今さっき否定したばっかりだと思うのは俺だけか?」

「隙あり!」

「おっ!?」


 ぐわんっ、と唸りを上げて振るわれる夏漣の目の前から伸びたアーム。そのマレットから弾き放たれたパックが、盤上、済側のゴール目掛けて一直線に滑って来た。慌ててマレットを握った腕を振るうイメージ(・・・・)を脳裏に思い浮かべる済。直後、想像上の腕の動きとの間で全くタイムラグを感じさせない素早さで、彼の目の前に伸びたアームが迫るパックを弾き返した。


「あ、あぶねー……」

「チッ、しくじったぜ」

「何この子ちょー怖い」


 カッカッカッとパックが盤上を囲む外枠にぶつかる音。一見不規則に見える角度で滑り続けるパックに、済は再び意識を集中させた。

 極研で開発されたこのアームは、済達の首元に張り付けられた電極パッチが感受する電気信号によって動いているのだとか。この技術は主に、生まれた時から身体に障害を抱えている人や、事故などの影響によって後天的に身体の不自由を抱えてしまった人たちのために開発された技術らしい。

 アームの操作方法は至って簡単だった。済達はただ、椅子に座り、それから電極のパッチを首筋に張り付けるだけ。それさえ行えばもう、パッチが勝手に脳内で起こる生体電気の流れを読み、実際に手足を動かす事を必要とせずにその『思考』を読むだけで操縦者の思いのままにアームを動かせるのである。

 しかしこの技術にも、問題はいくつかあるらしい。済達が聞かされた話では、この生体電気の流れを読んで機器を動かすという動作には、もともと手足を自由に動かせた人間――――つまり、歩いたり手を振ったりするイメージをしっかり思い浮かべる事のできる人間の方が向いているのだと言う。

 まあ確かになぁ、と済はその話を聞いた時に思っていた。生体電気の流れによって思考を読むのだから、思考を行う為の経験が元から無い人には、こんな夢の様な機械もなかなか扱う事は難しいのだろう。

 そして、そんな最先端機器を使っての超先代的なスポーツによる争いは、両者共マッチポイントを迎えた事による究極的な局面を迎えていた。

 その局面でのこの不意打ちである。自然、椅子の背もたれに預けられていた済の背筋は伸びてくるし、パックを追う目も見開かれてゆく。過敏に研ぎ澄まされた集中力の為か、頭の中心がちりちりと火花を散らす様な錯覚さえ抱く。

 と、


「あ、ちょっと天埜さん待って――――――」


 嗚呼悲しいかな。鼻風邪なんかひいていなければ良かったのに。鼻の奥の方からつつつーっと。嫌な感触が伝わってくる。

 鼻水だ。

 水っぽい鼻水の驚くべき進撃速度に、制服のポケットに入れたポケットティッシュ(貴仙に寄付して頂いた)を咄嗟に取り出そうとした彼は、しかしそこで敵側のアームが大きくしなるのを見た。そう、そこには、夏漣側に突き進んでゆく一つのパック。そのパックが辿るだろう軌道上に、敵のマレットがすでにスタンバイしているのだ。

 カコンッ! と小気味良い音。盤上を滑っていたパックがたちまち、進行方向を一八○度反転させる。


(な……ッ!?)


 迫り来るパックとにじみ出る鼻水の恐怖。たちまち立ち込める焦燥に挟み撃ちされ、彼の思考は真っ白に染まった。

 このまま、女子を目の前に鼻水を撒き散らしながら試合を続行するか。女子に負けると言う屈辱を覚悟で鼻水の進撃をき止めるか。

 ――――――究極の二択。


「くっそーッ!!」


 AとB、さてどっち? と問われ、C! と答える様な。『鼻水をすする!』という強引な選択肢を選びつつ、済はパック迎撃のために神経を集中させた。そして、パック目掛けて己のマレットが繰り出されようとした時に、

 勢いよく吸い込み過ぎた鼻水が、悲しいかな、肺の気管支にまで吸い込まれて行ってしまった。


「ゴホッ」


 そして噎せる。

 ――――――嗚呼、それは、咳をするときは口を手で塞ぐと言う、非常に礼儀正しいマナーが存在したがために生まれた事故だったのだろう。反射的に右手で口を塞ごうとした済はその視界の隅で、アームの異様な動きを捉えてしまった。

 そう。盤に取りつけられたそのアーム――――済の思考によって動くそのアームは操縦者と同じく礼儀正しい事に、済が自分の口元に手を持って行くのと全く同じ軌道で、パックを迎撃しようとしていたそのマレットを変な角度へと持ち上げてしまった。

 ガココンッ! と。パックがゴールインする軽やかな音。次いで、その耳元ではゴールが決まった事を告げる賑やかな電子音が炸裂した。


「………………えええぇぇぇぇ」


 簡単に言えば負けた。詳しく言っても負けた。先にマッチポイントを制され、負けた。

 ホロリと。まるで悔し涙が垂れるが如く、済の鼻から透明な液体が垂れる。

 ――――――いろんな意味で負けました。


「イエーイ! 勝ったぜ勝ったぜ超勝ったぜ!」


 長細い盤を挟んで向こう側。両の手を握り締めた夏漣が、さも嬉しそうに「っしゃーッ!」とかやっている。


「嘘だろ……?」

「いやー、ごめんね? ホントにごめんね? 勝っちゃってごめんね?」

「うわああああああん!!」


 その後少年は、鼻水とか涙とか汗とか、様々な液体を撒き散らしながら(勝者夏漣脚色)敗北の悔しさを噛み締める様にのたうち回ったとか。


   ◇


「済君、風邪ホントにだいじょーぶ?」

「んあー……」


 夏漣に問われ、今は調子の良好な鼻の頭を指で擦り、敗北のショックからいまいち立ち直れていない済は小さく呻く。

 彼ら二人を含めた集団が歩いているのは、先程の体験ブースがあるのと同じ施設内に伸びる、人が両腕を伸ばして四人ほど並んでもまだなお余裕がある様な広い通路だった。体験ブースでも使用されていた照明に明るく照らされるそこでは、通路の端を邪魔にならないように歩く生徒集団のすぐ横を、胸元にネームプレートを下げた極研の従業員達が忙しそうに行き交っていた。白衣に身を包んでいたり街角で見る様なラフな格好をしたその従業員達は一様に、常人とはどこかかけ離れた様な雰囲気を周囲に放っている。

 さすがは極研と言うべきか、選ばれた天才たちが肩で風を切るその姿を見るたびに、済はびりびりと、動物としての本能のどこかで強者との邂逅かいこうによる単純な、畏怖にも似た衝撃に襲われていた。


「まあ、帰ってやすみゃ良いだろうけどさ。鼻風邪って、何が辛いっていつまでも続くところが辛いよな」

「ですなー。んでんで、鼻をかみ過ぎて痛くなるんだよね、鼻の下が」

「だよな! もうさ、すでに痛くてメンタル的にキツいんだよ」

「あらら」

「ほんと、助けて下さいよ天埜さん」

「いや、風邪移されちゃたまんないから離れてちょうだい」

「……えっ?」


 驚愕。

 並んで歩いといて?


「う、嘘だよ済君。そんなにしょげないで、ね?」

「いやぁ、相当ザックリきましたわぁ……」

「う、うおー! ヘイッ、カモン済君! 夏漣先生の胸にバッチ来ォいッ!」


 何を血迷ったか夏漣先生、周囲の視線を気にもせずに両腕を大きく開いてドンと構える。そこに露わになるは、実は大きい方なのかもしれないワイシャツを押し上げた夢と希望。

 ――――――いいんだな? その胸にバッチ来いしてイインダナッ!?

 っしゃーッ! と跳び込みそうになる自分の足を、太股をつねることで制す。熱があるんだ。そう、きっと熱があるんだ。


「御気持ちだけ有り難く頂戴します」

「う、うん、そうしてちょうだい」


 しばらくして一行は、一辺の壁が強固なガラスでできた場所へと通された。曇りの無い透明なガラスからは隣接する小さな部屋が覗けるようになっていて、そこには四つの酸素カプセルに似た小さな円柱状の物体が横になって並べられている。

 一行を引率していた極研の女性従業員は立ち止まると、さっそくその物体に興味津々な学生達に振り返り、ガラスの向こうを指しながら言う。


「こちらでは今、皆さんにとって最も身近な病気の一つである『風邪』について研究を行っています」


 風邪? と。現在進行形で鼻風邪に悩まされる済がその話に食い付いたのは言うまでも無く。そうでなくとも、進んで極研見学に名乗り上げたその場の生徒達は、ガイド役を務める従業員の言葉に耳を澄ます。つい今までガヤガヤと部屋の中を騒がせていたささやかな喧騒は、一転して物音ひとつ立たない静寂に包まれた。


「皆さんご存じの方も多いでしょうが、現在の風邪に対する治療は例えば咳を止めたり頭痛を抑えたりと、風邪を直接的に治療するのではなく、その外堀を埋めてあとは人の免疫力に頼る形で行われています。世の中で一番ポピュラーな病気であるがために一見簡単に治せてしまうように思われていますが、その実風邪という病気は、直接には手を加える事が出来ていない、手ごわい病気なんです」


 言ってから女性従業員はその視線を、隣接した部屋の中から生徒の集団へと戻した。未だ部屋の中を覗いている者や従業員へ顔を向ける者、小声で友人と囁き合う者など様々な生徒達に構わず、彼女は言葉を続ける。


「しかしここ、極東先端科学技術研究所では以前より風邪を起こす根本である風邪ウイルスを撃退する手段を研究していたのですが、その研究がもうすぐ完成しようとしているんです」


 ザワザワと、静まり返っていた集団に騒がしさが蘇る。

 済と夏漣もその場で目配せ。夏漣はその唇を小さくすぼませて声も無く歓声を上げていた。


「そこで今日は!」


 人差指をピンッ、と立て。頬に落ち着いた頬笑みを浮かべた従業員が明るい声を張り上げた。生徒達が撒き散らしていた喧騒が再び潮が引くように収束してゆき、全員の視線が彼女に集まる。彼女は多くの視線を受けてなお落ち着いた様子を崩すことなく、にこやかに微笑みながら言う。


「皆さんの中で四人、隣の部屋にあるあの装置を使ってモニターをしてもらいたいのです」


 再び、先程より更に大きなどよめきが部屋を満たした。恐らく世間には発表されていないだろう、ひょっとしたら学会でも発表されていないのかもしれない技術を体験できると聞いて、集った生徒達は目を見張り口々に驚きの言葉を発する。

 隣の部屋ではこちら側の話が聞こえているのか、四つ並んだ装置の傍で作業を行っていた数名の作業員たちがにこやかに手を振っている。そんな歓迎ムードを機敏に察した学生達のどよめきは、更に大きな物へと成長を遂げる。


「うおー、マジかよー」


 済の隣に並んだ夏漣も例に漏れる事無く、目玉が跳び出さんばかりに目を見開いて興奮気味に隣室の様子を窺っていた。そしてそんな彼女と共にいる済もまた、心拍数を上昇させながらゴクリと生唾を呑みこんでいた。

 実に興味深い。物凄くモニターを務めたかった。何せ自分は今まさに風邪をひいているのだ。こんな最高のモニター材料を前にして、果たして自分の右に出る者がいるのだろうかと考える。

 しかし同時に彼は、未知に溢れ過ぎた行為に対する小さな不安も覚えていた。一般人にモニターを頼むと言うのだから、きっとその研究はほとんど完成間際まで迫っているのだろう。それはわかる。わかるが、やはりもしもの時を考えてしまわない事もない。

 「うわー……」と、知らず知らずの内に小さく声が漏れていた。期待と不安のせめぎ合いは、しかし期待の方が頭一つ分勝っている。

 そんな彼の鼻に、再びつつつー、と嫌な感触が伝わった。済は慌ててポケットからティッシュを取り出し、あまりにも治まる事を知らな過ぎる風邪の症状に辟易へきえきしながら鼻をかむ。

 と。そんな他意の無い彼の行動を、集団の先頭に立った女性従業員は決して見逃しはしなかったようだ。

 彼女はその双眸そうぼうを三日月形に細めると、済の事を指示し、にこにことした表情で言った。


「そこのキミ! ひょっとして風邪ひいてます?」


 自分を指され、しかし状況の理解に戸惑った済は「じ、自分ですか……?」と人差指で自分の顔を指して見せる。すると女性従業員はうんうんと幾度か頷き、


「風邪、ひいてますね?」


 首肯の代わりに、垂れて来た鼻水を啜る音。やはり反射的に行ってしまったその行動は、しっかりとした肯定の意となっていた。

 ざわざわわー! と。サトウキビ畑も顔負けなザワメキ。笑顔で手招きをする従業員と、おずおずと歩み出る済の様子を見、その騒がしさには一層の拍車が掛かる。そして済が従業員のもとまで到達すると、彼女は済の肩に手を置き、「よろしくお願いしますね」と瞳を線の様に細めた笑みと共に見えぬ圧力が加わった命令文を口走る。

 いくら興味深いモニターだとは言え、さすがに何十人といる集団から選抜されるというのは気が引ける事だった。ほとんど怯える様にして集団の方へ視線を向けていると、無数に思える瞳からは一様に、恨めしい光が彼に目掛けて放たれている。その威圧感に嫌な汗を背中に浮かべる済を気にもせず、従業員は残り三名となったモニターの選抜をし始める。

 ふと、済は人混みの中に紛れた視線を感じ、そちらの方へと目を向ける。自分がたった今までいた集団の一角には案の定、友人である夏漣の姿があった。彼女は済と目線が合った事に気付くと笑って手を振り、しかしその瞳にはやはり、他の者と同じ、恨めしそうな光も見え隠れしていた。

 そう言えば、彼女は極研の見学会を楽しみにしていたな。いつしか行ったファミレスでの事を思い出し、済は頭を掻く。それから意を決したように鼻から息を吐き出し、隣に立つ従業員の肩を小さく叩いた。

 「ん?」と振り返る女性従業員。済は彼女にしか聞こえない様な小さい声で、やはりおずおずとした様子を抑えきる事も出来ないまま囁く。


「その……、出来たらで良いんですけど、俺の友人もモニターに選んでやってもらえませんか?」


 きょとんと一瞬目を丸くし、けれどすぐに彼女は優しげな表情を取り戻すと、小さな声で「誰ですか?」と問い掛けてくる。済は大きな達成感にも似た衝動が頬の肉を吊り上げるのをどうにか抑え、人込みに紛れる夏漣の姿を指差した。

 指差されている夏漣本人はどうやら、済の行動に気付いてはいないようだった。他の生徒達がそうしている様に、隣接した部屋の方へと視線を向けている。


「彼女さんですか?」

「残念ながら違います」

「じゃあ、好きな人だ」

「それも違いますけどね」

「じゃあ、優しいんですね」


 それだけ言った女性従業員は、僅かに屈めていた腰を伸ばすと、


「では、ここは私の独断と偏見によって選ばせて頂きます。恨みつらみは全て、極研宛てまで」


 何事も無かったかのようにそう切り出す。それから「ではですねー……」などと名演技。数秒間悩む素振りを見せてから、彼女は人込みに紛れた夏漣を指した。


「お願いできますか?」

「わ、私ですか?」

「よろしくお願いします」


 現地従業員に言われては、やはりあらがう事も出来ず。それに元から興味津々だった夏漣は困った様に頭を掻きながらも、うっすらとその唇にささやかな頬笑みを浮かべていた。


「おう。良かったじゃん」


 残り二名を選び出す従業員。心の中で彼女の計らいに感謝しつつ、済は隣に並んだ夏漣に言う。


「もう最ッ高! 日頃の行いが良すぎると困りものですなぁー」

「それは何よりだ」

「マジ、一生の思い出になるぜ!」


 何の装いもないその嬉々とした表情に、済はふぅ、と小さく息を吐く。風邪の治療は出来て夏漣は喜んでくれて、なかなか良い流れではないか。

 そして一言、心の中で呟くのだった。

 ――――――日頃の行いが良いと、困りものですな。


 別室に移された済達はそこで、ワクチン接種よろしく注射を受けた。それから例の機器が並ぶ部屋に通され、私服のままその機器の中に寝転がる。酸素カプセルを使用した事はない済だが、それもこの機械と同じような物なのかなー、とぼんやり考える。

 バタン、とカプセル上部のふたが閉められる。一瞬、機器の内部を濃密な暗闇が包み込み、そしてすぐ次の瞬間には内部に取り付けられた照明に明かりが灯る。

 ぼんやりとした青色の光に全身が包まれる。その柔らかな寒色の影響もあってか、人一人が入ってしまえば一杯なカプセルの中は、しかし空気がひんやりとして澄んでいる様にも思えた。


『それでは、モニターを始めます。三十分程度で終了しますので、目を閉じていてください』


 先程の女性従業員の声が、内部に取り付けられたスピーカーから程よい音量で届けられる。済はその声に従うように、そっと瞳を閉じた。

 眩いとは言えない内部の照明がまぶたを透過してくる事は決してなかった。視界からは一切の光が消え去って、すでに機器も作動しているのだろうにも関わらず、モーター音の様な騒がしい音も皆無。仰向けに寝そべっている体は、その背中に何かが密着する感覚すら感じない。極研で開発されたのだろうその素材の上で寝ていると、まるで自分が無重力空間におもむいた様に、重力の感覚すらわからなくなってくる程だった。

 まるで五感がシャットダウンされた様な錯覚。魂が身体から切り離された様な無感覚。

 やがて訪れたのは、それに抗う気にもなれないほど柔らかく優しい、包み込むような眠気だった。


   ◇


 爆音――――それは煙。

 悲鳴――――それはとどろ

 警報――――それは炎。


 前代未聞。


 予測不能。


 緊急事態。


 阿鼻叫喚。


 とある施設の一角で行われた『冒険』の結果。

 人が犯そうとした『罪』に対する当然の報い。


 『それ』は様々な経路で、施設全体に張り巡らされたパイプ内の薬品を介して、施設全体に根を張る電子回路を介して、『それ』が刺激しうる媒体が存在する場所全てを介して、『それ』は人間が生み出した先端技術の結晶を鉄槌てっついの如く駆逐する。

 それは一瞬だった。

 音より速く、光より遥か。

 気付いた時には始まっていて、気付いた時には終わっていて。

 人は、生き物は、三次元世界の物質は一切抗う事もかなわず。




 ――――――そこに広がるはまさに、神のみぞ知る世界。














ついに始まります、今作初の見せ場。

ようやくですね。ようやく書けます。

おたのしみにw

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