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七年間、顔も知らない文通相手に恋をしていました。婚約破棄されて絶望した私の元に届いたのは、あの方からの最後の手紙——のはずでした

作者: uta
掲載日:2026/03/22

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「君との婚約は、退屈だった」


エドワード・セルウィン子爵嫡男は、まるで天気の話でもするかのような軽さでそう告げた。


王都の社交シーズン真っ只中、セルウィン子爵邸の応接間。私、リディア・クレメンティア・アッシュフォードは、七年間の婚約者からの絶縁宣言を、出されたばかりの紅茶が冷める前に受け取ることになった。


「……そうですか」


私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


(まあ、知っていたけれど)


エドワードの隣には、燃えるような赤毛を艶やかに波打たせた女性が、勝ち誇った笑みを浮かべて座っている。ヴィヴィアン・モーリス男爵令嬢。社交界では「情熱の薔薇」などと呼ばれているらしいが、私に言わせれば「厚かましさの権化」である。


「あら、泣かないのね」


ヴィヴィアンが猫のような目を細めた。


「七年も婚約していたのに、随分とあっさりしていること。やっぱり噂通り、感情のない人形みたいな方なのね」


(あなたに泣いて見せるほど、私の涙は安くありません)


「エドワード様のお幸せを心よりお祈りしております」


私は完璧な角度で微笑んでみせた。継母の十五年に及ぶ「教育」のおかげで、この程度の仮面は息をするより簡単だ。


「……それだけか?」


エドワードが眉をひそめる。彼は私が取り乱すことを期待していたのだろう。泣きわめき、縋りつき、どうか見捨てないでと懇願する——そんな醜態を晒させて、自分の選択の正しさを確認したかったに違いない。


残念ながら、私は七年間、この日のための心の準備を着々と進めてきた。


「ご縁がなかったのですね」


私は静かに立ち上がり、一礼した。


「長らくお世話になりました。どうぞお元気で」


「待て、リディア」


エドワードの声に、わずかな動揺が混じる。


「君は……怒らないのか? 恨み言の一つもないのか?」


振り返り、私は首を傾げてみせた。


「何を怒ればよいのでしょう。エドワード様は、ご自身の心に従われただけ。私がとやかく言うことではございません」


(あなたが私を愛していなかったように、私もあなたを愛してはいなかった。ただそれだけのこと)


その言葉は、もちろん飲み込んだ。


応接間を出る間際、ちらりと振り返る。エドワードは何か言いたげな顔をしていたが、ヴィヴィアンが彼の腕に絡みつき、甘い声で何かを囁いた。


(お似合いですよ、本当に)


七年間、冷淡な態度と小さな侮辱に耐え続けた日々。それがようやく終わる。


悲しみよりも、解放感の方が大きかった。


ただ一つ——心の奥底で、小さな痛みが疼く。


私は、誰からも愛されることなく、この人生を終えるのだろうか。


◇◇◇


アッシュフォード伯爵邸に戻ると、継母マルグリットが玄関ホールで待ち構えていた。


「聞きましたよ」


彼女の灰色の瞳が、冷たく私を射抜く。


「婚約破棄ですって? 全く、何の役にも立たない娘ね」


「申し訳ございません、お義母様」


頭を下げる私の背後で、義妹セシリアのくすくす笑いが響いた。


「まあ、お姉様ったら。七年も婚約していて捨てられるなんて、よほど退屈な女だったのね」


(あなたは三度も縁談を断られているけれど、それは言わない方がいいかしら)


「セシリア、下品ですよ」


マルグリットが娘を窘めるが、その口元には笑みが浮かんでいる。


「リディア、あなたの荷物はまとめさせました。今夜中に出て行きなさい」


「……は?」


さすがに、私は目を見開いた。


「婚約破棄された娘を置いておく余裕はありません。あなたの部屋はセシリアの衣装部屋にします」


「お待ちください、私はこの家の——」


「先妻の娘、でしょう?」


マルグリットの声が、刃物のように鋭くなる。


「あなたのお母様は、何も残さずに死にました。あなたを養ってきたのは私の慈悲です。その慈悲も、今日で終わり」


(慈悲、ですか)


使用人より粗末な食事、継ぎ接ぎだらけのドレス、暖房のない北向きの部屋——十五年間の「慈悲」が、走馬灯のように脳裏をよぎる。


「……わかりました」


抵抗しても無駄だと、私は知っている。


「ご厚意に感謝いたします、お義母様」


「ふん」


マルグリットは鼻を鳴らし、踵を返した。セシリアがその後に続きながら、肩越しに私を見て嗤う。


「お姉様、修道院なら引き取ってもらえるかもしれないわよ? 地味なお姉様にはお似合いね」


二人の姿が消えると、私は一人、玄関ホールに立ち尽くした。


膝が震えている。


涙は、出なかった。もう枯れてしまったのかもしれない。


◇◇◇


荷物は、驚くほど少なかった。


質素なドレスが二着、下着の替え、そして——一番大切なもの。


私は、古びた木箱を開けた。


中には、七年分の手紙が大切に保管されている。


淡いブルーの便箋、端正な文字、そして署名は常に「L」の一文字だけ。


顔も、本名も知らない。


ただ、月に一度届くこの手紙だけが——私が「生きている」と感じられる、唯一の時間だった。


最初の手紙を受け取ったのは、十六歳の春。


私が何気なく書いた、野の花についての文章。誰に宛てたわけでもない、ただの独り言のようなものだった。それを、温室の窓から飛ばしてしまったのだ。風に乗って、どこかへ消えていった。


まさか返事が届くとは思わなかった。


『貴女の文章を読みました。野の花の描写が美しく、心を打たれました。もしよろしければ、続きを聞かせていただけませんか——L』


以来、七年間。


私たちは手紙を交わし続けた。


花のこと、季節のこと、読んだ本のこと。時には悩みを打ち明け、時には夢を語り合った。


彼は、私の言葉に価値があると言ってくれた。


私の知識が誰かの役に立つと、信じさせてくれた。


「……今夜、届くはず」


月に一度、満月の夜に届く約束の手紙。


今日は、満月だ。


◇◇◇


深夜、北向きの窓から月明かりが差し込む。


私は、窓辺に置かれた木箱を開けた。


約束通り、一通の手紙が入っている。


(ベアトリスが届けてくれたのだわ)


亡き母に仕えていた老メイドは、継母の目を盗んで、いつも私を助けてくれた。この文通も、彼女がいなければ続けられなかっただろう。


震える手で封を開ける。


月光の下、端正な文字を目で追う。


『リディアへ


今宵も月が美しい。貴女は今、何を見ていますか。


先月の手紙で、貴女が記してくれた薬草の配合について、私の国の農学者たちが大変興味を示しています。貴女の知識が、いつか多くの人を救う日が来るでしょう。


私は、貴女という存在に出会えたことを、神に感謝しています。


貴女の幸せを、いつも祈っています。


——L』


その最後の一行を読んだ瞬間、私の目から涙が溢れた。


婚約破棄でも、継母の仕打ちでも流れなかった涙が、止まらなくなった。


「……幸せを、祈って……」


幸せって、何だろう。


私には、もう何もない。


行く場所も、頼れる人も、生きる理由も。


ただ一つ——この手紙を書いてくれる「あなた」だけが、私の光だった。


「……もう、書けなくなるのね」


修道院に入れば、手紙は出せなくなる。


この文通も、終わりだ。


私は便箋を取り出し、最後の手紙を書き始めた。


『L様へ


七年間、ありがとうございました。


貴方だけが、私の光でした。


明日から、もう会えない場所へ行きます。どうかお元気で。


——リディア』


涙で滲んだ文字を、それでも丁寧に折りたたむ。


これが、最後。


窓の外、満月が静かに輝いている。


私の人生は、こうして終わるのだ——そう思っていた。


この手紙が、すべてを変えることになるとは、この時の私は知る由もなかった。


◇◇◇


修道院へ向かう馬車の中、私はぼんやりと窓の外を眺めていた。


朝靄に煙る田園風景が、ゆっくりと流れていく。見慣れた景色のはずなのに、今日はどこか遠い国のもののように見えた。


(さよなら、私の日常)


膝の上には、小さな鞄が一つ。中には着替えと、そして——七年分の手紙。


これだけは、手放せなかった。


「お嬢様」


御者台から老メイドのベアトリスが振り返る。彼女は最後まで私に付き添うと言って聞かなかった。


「もう少しで修道院です。お疲れでしょう、お水でも——」


その言葉が、途中で途切れた。


「……何事?」


私は窓から身を乗り出し、目を見開いた。


道の前方に、馬車を囲むように人影が並んでいる。一人や二人ではない。二十人はいるだろうか。全員が統一された黒い装束を身にまとい、整然とした隊列を組んでいた。


(盗賊? いや、違う)


盗賊にしては、あまりにも規律正しい。そして何より——彼らの装束には、見覚えのある紋章が刺繍されていた。


銀の三日月と、それを抱く蒼い龍。


(ヴェルトラン公爵家……?)


隣国の、それも最高位の貴族家の紋章だ。なぜこんな場所に?


「止まれ」


低く響く声に、馬車が停止した。


御者のベアトリスが震える声で答える。


「な、何者ですか! この馬車には伯爵家の令嬢が——」


「知っている」


隊列が左右に割れ、その中央から一頭の白馬が進み出た。


騎乗しているのは——


月光を溶かしたような、銀色の髪。


深い紺碧の瞳。


彫刻のように整った容貌と、人を寄せ付けない冷たい威厳。


(……美しい)


それが、最初に浮かんだ感想だった。恐怖より先に、ただ純粋に、その姿に見惚れてしまった。


青年は馬から降り、こちらへ歩いてくる。


長身の体躯、無駄のない動作。その足取りには、生まれながらの支配者が持つ確信が滲んでいた。


私は馬車の扉を開け、外に出た。逃げても無駄だと、本能的に理解していた。


「……どちら様でしょうか」


声は、思ったより落ち着いていた。


青年は私の前で立ち止まり、じっと見下ろしてくる。その紺碧の瞳に、なぜか懐かしいものを感じた。


「リディア・クレメンティア・アッシュフォード嬢」


私の名を呼ぶ声は、低く、どこか震えているように聞こえた。


「……はい」


「間違いないな」


青年は、一通の手紙を取り出した。


——私は息を呑んだ。


その便箋。その封蝋。その宛名。


昨夜、私が書いた手紙だった。


「な……ぜ……」


「七年前」


青年が口を開く。


「私は病で死にかけていた。回復しても、生きる意味を見失っていた。そんな折に——一通の手紙が届いた」


銀髪が風に揺れる。


「差出人不明の、野の花について書かれた他愛ない文章。けれどその言葉は、私の凍った心を溶かした」


青年の瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。


「以来、私は貴女の手紙を待つために生きてきた」


——嘘、でしょう。


「貴女が記した花の知識は、私の国の農業改革を支えた。貴女が教えてくれた薬草の配合は、疫病から多くの民を救った。貴女は——」


青年は、膝をついた。


道端の泥など気にもせず、最高位の貴族が、私の前に跪いている。


「貴女は、私の命の恩人だ」


「あ、あの……」


「私の名はレオンハルト・ヴェルトラン」


その名を聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。


「『L』の署名は、私の名の頭文字だ」


——L。


七年間、私が手紙を交わし続けた、顔も知らない相手。


私の言葉に価値があると言ってくれた、たった一人の人。


「昨夜の手紙を読んだ」


レオンハルトは、私の手紙を握りしめる。


「『もう会えない場所へ行く』——そう書いてあった。私は、夜通し馬を飛ばしてきた」


「で、でも、なぜ私が……どうして手紙の主が私だと……」


「七年間、貴女の手紙だけを生きる糧にしてきたのだ」


レオンハルトが立ち上がり、私の両手を取った。


冷たい指先が、確かな熱を持って私を包む。


「貴女の筆跡を、文体を、言葉の癖を、私は誰よりも知っている。貴女の実家の場所を突き止めるのは、さほど難しいことではなかった」


「……」


「リディア」


私の名を呼ぶ声が、優しく震える。


「今度は私が、貴女を迎えに参りました」


◇◇◇


気がつくと、私は泣いていた。


婚約破棄でも、追放でも流れなかった涙が——否、昨夜も流したはずの涙が、また溢れ出していた。


「な、泣かないでくれ」


レオンハルトが慌てたように私の顔を覗き込む。


「私は……貴女を困らせに来たわけでは……」


「ち、違うの」


私は涙を拭いながら、首を振った。


「嬉しいの……嬉しくて……」


「……そうか」


彼の表情が、ふっと和らいだ。


氷の公爵と呼ばれているらしい彼の顔に、春の陽だまりのような笑みが浮かぶ。


「それなら、良かった」


「あの、でも……」


私は現実に引き戻される。


「私は……何も持っていません。財産も、地位も、後ろ盾も。婚約破棄された、ただの伯爵令嬢です」


「知っている」


「それなのに——」


「リディア」


レオンハルトが、私の言葉を遮った。


「私が七年間、待ち続けたのは、貴女の財産でも地位でもない」


彼の手が、そっと私の頬に触れる。


「貴女の言葉だ。貴女の心だ。貴女という存在そのものだ」


「……」


「私の国へ来てくれないか」


静かな、けれど有無を言わせない声。


「もう二度と、貴女を泣かせはしない」


私は——何も言えなかった。


ただ、小さく頷くことしかできなかった。


◇◇◇


「閣下あああ!」


感動的な空気を打ち破る、野太い声が響いた。


馬に乗った一人の男が、こちらへ駆けてくる。短く刈り込んだ銀髪に、日焼けした肌。精悍な顔立ちには、なぜか涙が光っている。


「ついに……ついにお会いできました、姫君!」


男は馬から飛び降りると、私の前で深々と頭を下げた。


「フェリクス・ヴェルトラン、公爵家執事兼護衛を務めております! 七年間、閣下の恋文を運び続けた功労者でもあります!」


「恋文ではない」


「いいえ恋文です! あんなに美しい便箋を選び、香水を振りかけ、何度も書き直していたのを私は知っています!」


「フェリクス」


レオンハルトの声が、氷点下に下がった。


「黙れ」


「姫君!」


フェリクスは私の手を取り、熱く語り始めた。


「この方は普段は氷のように冷たいお方ですが、貴女様のお手紙を読む時だけは、まるで春が来たかのように——」


「フェリクス!」


「失礼しました!」


逃げるように馬に飛び乗るフェリクス。その背中をレオンハルトが睨みつけている。


(……あの方が、L様)


冷徹な外見と、手紙に込められた優しさ。そのギャップが、急に腑に落ちた。


私は、小さく笑ってしまった。


生まれて初めて——心から笑った気がした。


「……リディア?」


「いえ」


私は首を振り、レオンハルトを見上げた。


「お供させてください、レオンハルト様」


彼の瞳が、大きく見開かれた。


「……レオンでいい」


「え?」


「貴女には——レオンと呼んでほしい」


耳の先が、かすかに赤くなっている。


(かわいい)


そう思った瞬間、私は自分の心が、とっくにこの人に傾いていることを知った。


七年間、顔も知らずに育んできた想い。


それは、確かに「愛」だったのだ。


◇◇◇


老メイドのベアトリスが、御者台から降りてきた。


「お嬢様……」


彼女の目にも、涙が光っている。


「ベアトリス」


私は彼女の手を取った。


「ありがとう。あなたが手紙を届けてくれなければ、この出会いはなかった」


「勿体ないお言葉です……」


ベアトリスは何度も頷きながら、私の手を握り返した。


「奥様も、きっとお喜びでしょう。リディアお嬢様が、ようやく幸せになれるのですから」


「ベアトリス」


レオンハルトが口を開いた。


「貴女にも、私の屋敷に来てもらいたい」


「え……?」


「リディアが信頼する人物を、私も大切にしたい。それに——」


彼はわずかに目を逸らした。


「七年間、手紙を届けてくれた恩がある」


「まあ……」


ベアトリスは目を丸くし、それから深々と頭を下げた。


「光栄でございます、公爵様」


◇◇◇


白馬に並んで揺られながら、私は何度も後ろを振り返った。


遠ざかっていく故郷の景色。


私を苦しめた場所。私を否定し続けた場所。


けれど、母との思い出が詰まった場所でもある。


「……後悔しているか」


レオンハルトが静かに問う。


「いいえ」


私は前を向いた。


「振り返る必要は、もうないわ」


銀髪の公爵が、小さく微笑んだ。


「そうだな」


私たちの前には、新しい道が続いている。


まだ見ぬ国、まだ見ぬ未来。


けれど、隣にいるこの人となら——きっと大丈夫だと、そう思えた。


(お母様、見ていてね)


私は心の中で、亡き母に語りかける。


(私、幸せになるから)


◇◇◇


ヴェルトラン公爵邸は、私の想像を遥かに超えていた。


白亜の城のような本邸、手入れの行き届いた庭園、そして——数え切れないほどの使用人たち。


「ようこそ、公爵邸へ」


レオンハルトが馬車から降り、私に手を差し出す。


「……すごい」


思わず呟くと、彼は小さく笑った。


「慣れるまで時間がかかるかもしれないが、ここが貴女の家だと思ってほしい」


「家……」


(家、か)


十五年間、「厄介者」として暮らしてきた私に、「家」という言葉は重く響いた。


「まずは、見せたいものがある」


レオンハルトは私の手を取り、邸内へと導いた。


長い廊下を進み、階段を上り、やがて一つの扉の前で立ち止まる。


「ここは……?」


「私の書斎だ」


扉を開けた瞬間、私は言葉を失った。


壁一面の本棚。その一角に、見覚えのある便箋が——


「これ……」


「七年分だ」


レオンハルトが静かに言う。


「貴女からの手紙、全て保管してある」


私は本棚に近づき、手紙の束に触れた。


日付順に丁寧に分類され、専用の箱に収められている。どの手紙も、大切に保管されていることがわかった。


「これは……」


別の棚に、額に入れられた紙が並んでいる。


見覚えのある——私の字だ。


「貴女が描いてくれた、野の花のスケッチだ」


「こんな下手な絵を……額に……」


「下手ではない」


レオンハルトの声が、わずかに熱を帯びた。


「貴女の描く花には、命が宿っている。見る者の心を癒す力がある」


「大げさですわ……」


「大げさではない」


彼は私の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめてきた。


「リディア、貴女は自分の価値を知らなすぎる」


「……」


「貴女の手紙に記された知識——薬草の配合、土壌の改良法、害虫の駆除法。それらは全て、私の国の農業改革に役立てられた」


「え……?」


「三年前の疫病の時、貴女が教えてくれた薬草が多くの民を救った。去年の不作も、貴女の知識のおかげで乗り越えられた」


私は呆然とした。


手紙に書いていたのは、母から教わった知識だった。何の役にも立たない、ただの趣味だと思っていた。


「貴女は——」


レオンハルトの声が、優しく震える。


「顔も知らない私のために、七年間、知識を分け与え続けてくれた。貴女がいなければ、私の国は今頃どうなっていたかわからない」


「そんな……」


「だから」


彼は私の手を取った。


「貴女を、絶対に手放さない」


◇◇◇


「姫君! 姫君!」


フェリクスが駆け込んできた。その手には、一通の手紙が握られている。


「閣下、至急です! アッシュフォード伯爵家から——」


「読め」


レオンハルトの声が、瞬時に冷たくなる。


「えー、では。『ヴェルトラン公爵閣下へ。我が娘リディアがご厄介をおかけし、誠に申し訳なく——』」


「娘、だと?」


「続きを読みます。『つきましては、リディアの身柄を引き渡していただきたく——』」


「断れ」


「閣下、まだ続きが——」


「読む必要はない」


レオンハルトは手紙を取り上げ、暖炉に投げ入れた。


「追放した娘を、今さら取り戻そうとは厚かましい」


私は胸が締め付けられる思いだった。


継母が私を取り戻そうとしているのは、私への愛情からではない。隣国の公爵と縁ができたから、利用しようとしているのだ。


「レオン」


彼の名を呼ぶと、彼は振り返った。


「ありがとう」


「……礼を言われることではない」


「でも——」


「貴女を傷つける者は、誰であろうと許さない」


彼の瞳が、深い紺碧の炎を宿している。


「それが、七年間貴女を待ち続けた私の答えだ」


◇◇◇


数日後、予想通りの来訪者があった。


「まあ、リディア」


継母マルグリットが、まるで慈愛に満ちた母親のような顔で私の前に立った。


「心配していたのよ。元気そうで何より」


(嘘ばかり)


「お義母様」


私は丁寧に頭を下げた。


「わざわざご足労いただき、恐縮です」


「何を他人行儀な。あなたは私の娘ですからね」


(追放した時は、そう言っていませんでしたけれど)


「伯爵夫人」


低い声が割り込んだ。


レオンハルトが、私の隣に立つ。


「何のご用件ですか」


「まあ、公爵閣下」


マルグリットは媚びるような笑みを浮かべる。


「うちの娘がご迷惑をおかけしておりますでしょう。早くお引き取りいたしませんと——」


「引き取る?」


「ええ。リディアは我が家の大切な娘ですから。伯爵家で面倒を——」


「伯爵夫人」


レオンハルトの声が、氷のように冷たくなった。


「貴方は先日、彼女を追放したのではありませんか」


「そ、それは——」


「使用人より粗末な扱いを十五年間続け、婚約破棄の翌日に荷物をまとめさせ、夜中に追い出した。違いますか」


マルグリットの顔から、血の気が引いていく。


「どうしてそれを……」


「私は七年間、リディアの手紙を読み続けてきた。彼女がどれほど辛い日々を送っていたか——全て知っている」


「そ、それは誤解で——」


「誤解?」


レオンハルトが一歩踏み出すと、マルグリットは怯えたように後退した。


「では、持参金を着服したことも誤解ですか? 彼女の発案した事業を義妹の手柄にしたことも? 暖房のない部屋に住まわせたことも?」


「……」


「貴方たちが捨てた宝石を、私は七年かけて探し当てました」


低く、しかし絶対的な声が告げる。


「返す道理がありましょうか」


「し、しかし閣下——」


「お帰りください」


レオンハルトは、それ以上の会話を拒絶するように背を向けた。


「二度と、リディアの前に姿を見せないでいただきたい」


◇◇◇


マルグリットが去った後、私はしばらく呆然としていた。


「……すまない」


「え?」


「勝手に話してしまった。貴女は、自分で決着をつけたかったかもしれない」


「いいえ」


私は首を振った。


「嬉しかった。初めて……誰かが私のために怒ってくれた」


「リディア……」


「ずっと、一人だったから」


涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。


「誰も、私の味方なんていないと思っていた。私には価値がないと——」


「違う」


レオンハルトが、そっと私を抱きしめた。


「貴女には、計り知れない価値がある。それを見抜けなかった者たちが愚かなだけだ」


「……」


「私は知っている。貴女がどれほど聡明で、優しくて、強い人間か」


彼の腕の中で、私は静かに泣いた。


十五年分の涙を、ようやく流すことができた気がした。


◇◇◇


その夜、私は久しぶりに手紙を書いた。


宛先は——レオンハルト。


同じ屋敷にいるのに、手紙を書くなんておかしいかもしれない。


でも、これが私たちの始まりだから。


『レオンへ


今日、あなたが私を守ってくれた時、私は確信しました。


七年間、顔も知らずに育んできたこの気持ちは、確かに「愛」でした。


あなたの国で、あなたの隣で、私は新しい人生を歩んでいきたいと思います。


——あなたの、リディアより』


翌朝、私の部屋のドアの下に、一通の返事が届いていた。


『リディアへ


明日、正式に貴女に伝えたいことがある。


大広間で待っていてほしい。


——貴女だけのレオンより』


私は、その手紙を胸に抱きしめた。


七年間の文通が、ようやく「会話」になろうとしている。


◇◇◇


その日、ヴェルトラン公爵邸の大広間は、異様な熱気に包まれていた。


居並ぶ貴族たち、整列する使用人たち、そして——中央に敷かれた深紅の絨毯。


「何事ですか……?」


私は、フェリクスに連れられて大広間に入った。


「姫君、こちらへ」


彼は満面の笑みを浮かべながら、私を絨毯の端へと導く。


「え、でも——」


「閣下のご命令です。どうぞ、このままお進みください」


訳もわからないまま、私は絨毯の上を歩き始めた。


左右から向けられる無数の視線。ひそひそ話が、波のように広がっていく。


「あれが例の……」

「閣下の文通相手の……」

「伯爵令嬢だとか……」


絨毯の先に、銀髪の姿が見えた。


レオンハルトは正装に身を包み、私を待っていた。


その瞳が、私を捉える。


紺碧の深淵。けれど、今日はどこか——緊張しているように見えた。


「リディア」


彼が私の名を呼ぶ。


「ここへ」


私は彼の前に立った。何が起ころうとしているのか、まだ理解できていない。


「皆、聞いてくれ」


レオンハルトの声が、大広間に響き渡った。


「私には、七年間想い続けてきた人がいる」


ざわめきが走る。


「顔も知らず、名前も知らず、ただ手紙だけで繋がっていた相手だ」


彼は私の手を取った。


「その人が——今、目の前にいる」


私の心臓が、激しく脈打つ。


「リディア・クレメンティア・アッシュフォード」


レオンハルトは——片膝をついた。


大広間に、息を呑む音が響いた。隣国の公爵が、伯爵令嬢の前に跪いている。前代未聞の光景だった。


「七年間、貴女の手紙だけを生きる糧にしてきた」


彼の声は、静かに、しかし確かに震えていた。


「貴女の言葉が、私に生きる力を与えてくれた。貴女の知識が、私の国を救ってくれた。貴女という存在が——私の全てだった」


「レオン……」


「今度は、手紙ではなく言葉で伝えさせてくれ」


彼が見上げる。


紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「——愛している」


大広間が、静寂に包まれた。


「私の妻になってくれないか」


私は——答えられなかった。


涙が溢れて、言葉にならなかったのだ。


「リディア……?」


彼の声に、不安が滲む。


「だ、駄目か……?」


「ちが……違うの……」


私は涙を拭いながら、必死に首を振った。


「嬉しくて……嬉しすぎて……」


「では——」


「はい」


私は、彼の手を握り返した。


「喜んで、あなたの妻になります」


◇◇◇


大広間が、歓声に包まれた。


レオンハルトが立ち上がり、私を抱きしめる。


「ありがとう」


耳元で囁かれた言葉に、また涙が溢れそうになった。


「ううう……姫君ぅ……」


後ろで、フェリクスが号泣していた。


「七年間……七年間待った甲斐がありましたぁ……」


「フェリクス、うるさい」


「だって閣下! 私がどれだけ苦労して手紙を運んだか! 山を越え谷を越え! 時には国境を密かに——」


「黙れ」


「はい!」


私は思わず笑ってしまった。


幸せすぎて、おかしくなりそうだった。


◇◇◇


「姫君」


祝賀の席で、ベアトリスが私の傍に寄ってきた。


「おめでとうございます」


「ありがとう、ベアトリス」


私は彼女の手を取った。


「あなたがいなければ、この日は来なかった」


「いいえ……」


老メイドは目に涙を浮かべながら、首を振った。


「お嬢様のお幸せが、私の何よりの喜びでございます。奥様も……先代の奥様も、きっと天国でお喜びでしょう」


「……うん」


私は窓の外を見上げた。


満天の星空。その中で、一際明るく輝く星がある。


(お母様、見てくれている?)


私は、ようやく幸せになれそうです。


◇◇◇


その夜、衝撃的な知らせが届いた。


「エドワード・セルウィン子爵嫡男が、詐欺の容疑で拘束されたそうです」


フェリクスが報告する。


「詐欺?」


「はい。愛人のヴィヴィアン・モーリスという女性が、過去に複数の貴族から金を騙し取っていたことが発覚しまして。エドワード殿も共犯として……」


「なるほど」


レオンハルトは無関心そうに頷いた。


「因果応報だな」


私は複雑な気持ちだった。


七年間、婚約者だった人。愛してはいなかったけれど、恨んでいたわけでもない。


ただ——


(見る目がなかったのね、エドワード)


あなたが「退屈」と捨てた私は、隣国の公爵に求婚された。


あなたが「情熱の薔薇」と呼んだ女性は、詐欺師だった。


皮肉な話だ。


「リディア」


レオンハルトが、私の肩に手を置いた。


「過去は、もう気にしなくていい」


「……わかっているわ」


「これからは、私が貴女を幸せにする」


彼の言葉に、私は小さく頷いた。


「ええ——あなたを、信じています」


◇◇◇


数週間後、もう一つの知らせが届いた。


アッシュフォード伯爵家が、財政難に陥っているという。


エドワードとの婚約が破談になったことで、セルウィン家からの援助が打ち切られた。さらに、私が密かに行っていた領地経営の補佐がなくなり、あちこちで問題が噴出し始めたらしい。


「継母が、援助を求めてきています」


フェリクスが苦い顔で報告する。


「お会いになりますか」


「……いいえ」


私は首を振った。


「もう、あの家とは関わりたくないの」


「賢明です」


レオンハルトが頷いた。


「貴女を十五年間苦しめた家に、情けをかける必要はない」


「でも……」


「リディア」


彼は私の手を取った。


「貴女は優しすぎる。だから、私が守る」


その言葉に、私は小さく笑った。


「ありがとう、レオン」


(お母様、私は大丈夫)


私には——守ってくれる人がいる。


◇◇◇


婚礼の日は、雲一つない快晴だった。


純白のドレスに身を包んだ私は、大聖堂の入り口に立っていた。


「緊張していますか、お嬢様」


隣で、ベアトリスが微笑んでいる。


「……少しだけ」


「大丈夫ですよ」


老メイドは私の手を握った。


「公爵様は、ずっとお嬢様を待っていてくださったのですから」


「……うん」


扉が開く。


聖堂の中に、光が満ちていた。


参列者たちの視線が、一斉に私に向けられる。けれど、私の目には一人しか映らなかった。


祭壇の前で、私を待つ銀髪の青年。


レオンハルト・ヴェルトラン。


七年間、手紙だけで繋がっていた、私のたった一人の人。


一歩一歩、彼に向かって歩いていく。


長い、長い道のりだった。


婚約破棄から始まり、追放され、絶望し——そして、救われた。


全てが、この瞬間のためにあったのだと思える。


「リディア」


祭壇の前で、彼が私の手を取った。


「綺麗だ」


「……ありがとう」


照れくさくて、俯いてしまう。


「顔を見せてくれ」


彼の手が、そっと私の顎を持ち上げた。


紺碧の瞳が、私を見つめている。


「七年間、この日を夢見ていた」


「私も」


「もう、手紙は要らないな」


「……ええ」


「これからは、毎日貴女の声が聞ける」


彼の言葉に、私は微笑んだ。


「毎日、あなたに会えるのね」


「そうだ」


「……嬉しい」


司祭の声が響く。


「汝、レオンハルト・ヴェルトランは、この女性リディア・クレメンティア・アッシュフォードを妻として迎え——」


厳かな誓いの言葉。


それは、七年間の想いが結実する瞬間だった。


「誓います」


レオンハルトの声。


「誓います」


私の声。


「神の御名において、二人を夫婦と認めます」


大聖堂に、祝福の鐘が鳴り響いた。


◇◇◇


その夜、私は久しぶりに手紙を書いた。


宛先は——「未来の私へ」。


『未来の私へ


今日、私はレオンハルト・ヴェルトランの妻になりました。


七年前、顔も知らない誰かに手紙を書き始めた時、こんな未来が待っているなんて思いもしませんでした。


母を亡くし、継母に虐げられ、婚約者に見捨てられた私。自分には価値がないと、ずっと思っていました。


でも、一人だけ、私の言葉に耳を傾けてくれる人がいた。私の知識を認めてくれる人がいた。顔も知らないまま、私を愛してくれた人がいた。


顔も知らない誰かを愛することは、きっと——相手の魂を愛すること。


外見でも、地位でも、財産でもない。言葉を交わし、心を通わせ、魂と魂で繋がること。それこそが、真実の愛なのだと思います。


私は今、世界で一番幸せな文通相手です。


これからどんな困難があっても、私たちは乗り越えていけるでしょう。だって、七年間の手紙で培った絆は、何よりも強いのだから。


未来の私へ。


どうかこの幸せを、忘れないでください。


——レオンハルトの妻、リディア・ヴェルトランより』


◇◇◇


「何を書いているんだ」


背後から、温かな腕が私を包んだ。


「手紙よ」


「誰に?」


「未来の私に」


「……そうか」


レオンハルトは、私の肩に顎を乗せた。


「なら、私も書こう」


「え?」


「未来の私に」


彼は私から羽ペンを受け取り、便箋の余白に書き始めた。


『未来の私へ


今日、世界で一番愛しい人を妻に迎えた。


七年間待った甲斐があった。


これからも、この人を守り続けろ。絶対に、二度と泣かせるな。


——レオンハルト』


私は、その短い文章を読んで、また涙が溢れそうになった。


「レオン……」


「泣くな」


「だって……」


「泣かせないと言っただろう」


彼は私の涙を拭い、優しく微笑んだ。


「これからは、笑っていてくれ」


「……うん」


私は彼の胸に顔を埋めた。


温かい。


七年間、手紙だけで繋がっていた相手が、今は腕の中にいる。


「ありがとう、レオン」


「何に?」


「私を見つけてくれて。迎えに来てくれて。愛してくれて」


「……それは、こちらの台詞だ」


彼の腕に力がこもる。


「貴女がいなければ、私は今頃——」


「言わないで」


私は彼の唇に指を当てた。


「もう、過去の話は要らないわ」


「……そうだな」


「これからの話をしましょう」


「これから?」


「ええ」


私は彼を見上げ、微笑んだ。


「私たちの、これからの物語を」


窓の外では、満月が静かに輝いていた。


かつて私たちの手紙を照らしていた、あの月と同じ光。


けれど今は、二人で見ている。


それだけで、世界は全く違って見えた。


「愛している、リディア」


「私も——愛しています、レオン」


七年間の文通は、こうして終わりを告げた。


けれどこれは、終わりではない。


私たちの本当の物語は——今、始まったばかりなのだから。


【完】

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