第七話 狩猟場前の暗雲と、数値(ステータス)の修正
「違います、殿下。肘はあと三センチ高く。放つ瞬間に指先を滑らせて、矢を『優雅に』的を掠めて草むらへ消してください」
俺はルシアンの背後に立ち、密着する距離で所作を正した。
「こ、こうか……?」
彼の耳が真っ赤に染まり、体が木石のように硬直する。
「カイル、近すぎる! 心臓の音がうるさくて死にそうだ……これ、ゲームなら確実に『ときめきCG』発動だぞ!」
「殿下、またそのゲームですか」
俺は無表情でベルトを微調整し、冷たく言い放った。
「『暴君と虐げられる騎士』を演じる以上、この密着は不可避です。殿下の『悪役カリスマ』を上げるためと思ってください」
「そんな数値が上がったところで、死期が早まるだけだろ!」
ルシアンは毒づきながらも、結局は俺の指示に大人しく従っていた。
ここ数日、彼はこの世界の「ルール」を俺に説明し始めていた。
彼が言うには、この世界は『星光の誓約』というゲームで、自分は第一王子を引き立てる「序盤の中ボス」に過ぎないという。
「いいかカイル、兄上のシルヴェスターはこのゲームの『正史のヒーロー』なんだ。聖属性魔法はカンストしてるし、微笑むだけで好感度爆上げのパッシブスキルまで持ってる」
ルシアンは真剣に地面に枝で図を描いた。
「対して俺は、序盤で嫌がらせ繰り返した挙句、狩猟祭で『断罪イベント』を起こして、ヒロインを兄上に心酔させる踏み台なんだよ」
練弓で絆創膏だらけになった手を見ると、胸に「馬鹿のくせに努力しすぎだ」という違和感が込み上げる。
「要するに、殿下がその『暗殺イベント』を起こさなければ、生き残れる。そういうことですね?」
ルシアンは弓を止め、汗だくで瞳を輝かせて俺を見た。肯定を待つ姿は、頭を撫でられるのを待つ猟犬のようだ。
俺は彼の頭の埃を払い、平坦な声で冷水を浴びせた。
「殿下。お言葉ですが、俺はあなたの『シナリオ』なんて理解できません。ですが、辺境の狩りでは、狼を狩るつもりがなくても狼のほうから喉笛を食い破りに来ることがあります。……『的を外す練習』も結構ですが、『逃げ足』を鍛えることもお忘れなく」
「カイル! この世界には強大な『システム修正力』ってやつがあるんだ! シナリオから外れすぎると、どんな不可抗力のバグが起きるか分かったもんじゃないんだぞ!」
「……バグ?」
俺は眉を寄せた。
「どこの方言ですか。もし未知の変数や呪いのことなら、俺は貴方の『システム』より自分の剣を信じます。今は、矢を優雅に足元へ落とす練習に戻ってください。それが今の貴方の任務です」
「うぅ……君ってやつは、本当に俺を信じてないんだな……」
ルシアンはぼやきながらも、再び的に向かった。
俺はその細い背中を見つめながら、別のことを考えていた。
ゲーム設定など信じないが、ルシアンが抱いている「奈落の底を歩くような恐怖」だけは、あまりにリアルだった。それが、俺を動かした。
その夜、ルシアンが書斎で「攻略ノート」と格闘している隙に、俺は夜間巡回を装って王家狩猟場の地図を手にテラスへ出た。
ルシアンの言葉が事実なら、狩猟祭当日、彼は森の東側断崖付近でイベントを引き起こすはずだ。
『そこで俺は、兄上への嫉妬に狂って、ヒロインと二人きりになった兄上を背後から狙い撃つんだ。殺すつもりで放つんだけど、ゲームのロジックで矢は弾かれ、俺はその場で取り押さえられる……』
地図を見た。東側の断崖――霧濃く、地形険しい。
もし本当に「シナリオ」が存在するなら、ここで矢を放たなければ……。
「ゲームの中で悪役が外れた場合、物語はどう動く?」
独り言が夜風に溶ける。
俺はマントを羽織り、音もなく森の境界へ潜り込んだ。
モブの強みはここだ。誰も注目しない真夜中の散歩。
茂みに身を潜めると、黒い軽装鎧の影が数人、断崖へ向かう。
猟犬なし、気配を殺した動き――護衛ではない。
一人の手首に、隠された刺青。暗部の死士の符徴だ。
「……『断罪イベント』の配置にしちゃ、物騒すぎるな」
俺は息を殺した。
現実の戦場なら、この好機を「暗殺」に仕立て上げ、正当防衛で排除するだろう。
あの馬鹿は「演技さえすれば切り抜けられる」と思っているが、相手にその機会はないらしい。
「ちっ、つくづく面倒な……」
腰の剣を握りしめる。
モブでいたい願いは、今、猛烈な怒りに塗り替えられていた。
卵の殻一つ剥くのに俺を呼ぶような王子を、こんな場所で死なせるくらいなら――俺が先に、この「シナリオ」とやらを叩き潰してやる。
寝宮に戻ると、ルシアンはインクまみれの顔でノートを抱きしめて眠りこけていた。
その穏やかな寝顔を見下ろし、俺は低く呟いた。
「殿下、貴方はそのまま安心して廃人でいてください。……分を弁えない雑魚共が動くというのなら」
俺の瞳に、辺境で魔獣を屠る時だけの昏い光が宿る。
「……一人残らず、掃除してやりますから」




