第六話 モブの平穏と、拭えぬ不穏
衝突から数日。
俺は確かに「平穏な日常」を取り戻していた。
王子の悲鳴も、悪役特訓もない。騎士団の隅で、誰にも邪魔されずコーヒーを飲める。
「おい、見ろ。あのカイルだ」
「第二王子に見限られたらしいぜ。変態の専属なんてやってられるか」
コーヒーが、いつもより苦い。
「カイル様」
寝宮を掃除している老従者が、ひっそりと近づいて溜息をついた。
「殿下はこの数日……練習場に引きこもっておいでです。食事も満足に取らず、ひたすら弓を射ておられます。あのような繊細な指先は、本来なら弓を引くためのものではございません。……もしお時間があれば、あの方を止めてはいただけませんか?」
「殿下には殿下の『計画』がある。モブの俺が口を出すことじゃありませんよ」
俺は冷淡に突き放した。
だが、脳裏にこびりついて離れないのは、俺の手を振り払ったルシアンのあの瞳だ。
『――最初から、信じる気なんてなかったんだな』
その声が呪文のように足に絡みつき、気づけば俺は王家練習場へ向かっていた。
練習場の片隅。
あの金髪の背中は、ひどく孤独に見えた。
それでいて、苛立つほどの頑固さを放っている。
ルシアンの動きは見るに堪えないほど不器用で、放たれる矢はどれも標的から大きく外れていた。
貴族たちが嘲笑を投げかける。
「おや、ルシアン殿下か。その腕前……唯一の随従に逃げられたのも納得ですな」
ルシアンの指先から血が滲む。膝が震え、瞳の奥に屈辱が張り付く。
だが彼は退かず、作り物の傲慢面で怒鳴り返した。
「黙れ! 雑魚どもめ! この弓の偏差を測ってるだけだ。騒ぐなら舌を切り落として犬の餌にしてやるぞ!」
口調こそ鋭いが、膝が震えているのを俺は見逃さなかった。瞳の奥に、今にも崩れそうな屈辱が張り付いている。
その瞬間、俺の中で維持していた「モブとしての理性」が、音を立てて断線した。
俺は好き好んでモブをやっているが、俺が守っていたものを雑魚どもに踏みにじられるのは、我慢がならない。辺境の武人特有の「身内への執着」が、肺の奥を焼くように疼いた。
俺は大股で歩み寄り、驚愕するルシアンの背後から、その震える手を力強く包み込んだ。
「……っ、カ、カイル!?」
「殿下、姿勢がなっていません。そんなやり方では、一生標的には当たりませんよ」
俺は冷めた声のまま、貴族たちのどよめきを無視して、彼の肩を強引に矯正した。
「それと。そこの雑魚どもが一つだけ間違ったことを言いました。俺は逃げるつもりなどありません。……ただ、狩猟祭でどうやってあいつらの口を縫い合わせてやろうか、考えていただけです」
俺は手を離し、彼から弓を奪い取った。
遠くの的を射抜き、無造作に弦を引き絞る。
――ドシュッ!!
放たれた羽矢は、正確無比に紅心を貫き、尾羽を激しく震わせた。
嘲笑っていた貴族たちは、首を絞められたアヒルのように顔を青くして黙り込んだ。
だが一人が、衆人環視の屈辱に耐えかねたように言い返してくる。
「ちっ、辺境の野蛮人が……力が強いだけで図に乗るなよ! 行くぞ! こんな無教養な従者と無能王子と一緒にいたら、馬鹿がうつる!」
彼らは捨て台詞を吐き捨てながら、這々の体で去っていった。
練習場に沈黙が降りる。
ルシアンは射抜かれた的を呆然と見つめた後、潤んだ瞳で俺を睨みつけた。鼻声で言葉を絞り出す。
「……何しに戻ってきたんだよ。せっかくの『モブ人生』だったのに、あんなに見せつけちゃって……。これから君まで笑われるんだぞ。役立たずの主君を持って、腕力でしか居場所を作れない可哀想な奴だって……」
「殿下、笑われるのなんていつものことです。今更どうってことありませんよ」
俺は溜息をつき、手巾を取り出すと、出血した彼の指先を乱暴に、だが丁寧に包んだ。
「笑われるより、殿下が一人で無様に弓を引いているのを見る方が、よっぽど不愉快なんです」
「君……」
「殿下の妄想は信じませんが、殿下が今、死に物狂いなのは事実でしょう」
彼の目を見据え、少しだけ声を低めた。
「だから、決めました。俺はこれからも貴方の専属騎士だ。……シナリオのためじゃない。給料と、面子のためです」
ルシアンは呆然とし、やがてボロボロの笑みをこぼした。
「……じゃあ、これからも廃人でいていいのか? 横で悪役演じてるだけで?」
「ええ。それに、殿下……」
俺は真剣に彼を見据えた。
「俺がいる。モブ騎士ですが、森の狩りなら王都のエリートに負けません。殿下の『悪名』も命も、俺が守り抜きます」
ルシアンは絶句し、長い沈黙の後、俯いて呟いた。
「……モブのくせに、なんで時々主人公みたいな格好いいこと言うんだよ……」
「気のせいです、殿下。さあ、練習再開しましょう。今度は『優雅に構えて絶望的に外す』演技です。狩猟祭で兄上に、無能っぷりを存分に見せつけてやりましょう」




