第五話 完璧なる王子からの「同情」
翌朝、噂の威力は想像以上だった。
朝食を受け取りに行くと、配膳係の侍女が俺にだけゆで卵を三つ重ねて渡し、憐れみの瞳で囁いた。
「カイル様……お体、大切に。どうか、強く生きて……」
トレイを持つ手が止まった。
その瞬間、俺の尊厳は卵の殻のように粉々になった。
寝宮に戻ると、ルシアンは上機嫌でスケジュールを眺めていた。
「カイル! 聞いたか? 巷じゃ俺が『ド変態』だって噂で持ちきりだぞ! 効果絶大だな! 今の俺は悪役オーラに満ち溢れてる気がするぞ!」
ルシアンは興奮気味に駆け寄り、俺の肩を叩こうとした。
「これなら兄上も、俺のことを救いようのないクズだと思って、わざわざ手を下すのも馬鹿らしくなるはずだ!」
輝く笑顔。そして、先ほど受け取った「同情」のゆで卵。
それらが結びついた瞬間、嫌悪感が沸点に達した。
「殿下」
「ん?」
「それほどオーラに満ちているのでしたら、今日の卵はご自分で剥いてください。俺は顔を洗って頭を冷やしてきます」
「え? カイル? 機嫌悪いのか? カイル――っ!」
背後の呼びかけを無視し、俺は部屋を飛び出した。
だが、側殿で一息つこうとした時、一番会いたくない男が現れた。
第一王子、シルヴェスター殿下だ。
テラスに佇む彼は、銀髪に朝日を浴びて聖画のように美しい。
だが、振り返った碧眼には底知れない暗い光が宿っていた。
「ヴァルツ騎士。昨日の午後は随分と酷い目に遭ったそうじゃないか」
彼は至近距離で立ち止まり、修長な指で俺の襟元を軽く掬い上げる。
「ルシアンの不器用さが君への惨害に変わっているなら、兄として正す責任がある」
蜜のような甘い声に、骨まで凍る寒気を感じた。
この男は本気で同情しているのか、それとも芝居の真偽を試しているのか。
シルヴェスターは優雅に指を離したが、冷徹な気配は首筋にこびりついたままだった。
「ヴァルツ騎士。もし、もっと安全で、君の才能を正当に発揮できる場所が必要なら……いつでも私の元へ来るといい」
「……過分なご厚情、感謝いたします。シルヴェスター殿下」
俺は半歩下がり、完璧な騎士の礼を執って距離を置いた。
第一王子の威圧感は並の近衛騎士なら冷汗を流すレベルだが、俺は魔物が跋扈する辺境で育ったヴァルツ家の息子だ。
謀略に満ちた王都の空気より、喉笛を食い破りに来る巨狼の方が、まだ対処のしようがある。
「主君を守ることは、騎士としての唯一の責務です。ルシアン殿下が私をどう扱おうと、それは我ら主従の問題。それに……」
俺は顔を上げ、臆することなく彼を見据えた。
「私はあれを『惨害』だとは思っておりません。あれは殿下なりの……『情熱』の表現方法なのです」
自分で言っていて胃がひっくり返りそうだった。情熱? ――あれはただの、妄想が行き過ぎた後の甘えでしかない。
シルヴェスターは目を細めた。
碧眼に驚愕の色が走り、即座に深い興味へと塗り替えられる。
「情熱、か。面白い。君の魂は、想像以上に強靭なようだ」
彼は優雅に身を翻し、遠方の王家狩猟場へ視線を向けた。
そして軽やかな口調で爆弾を投げ落とす。
「それほどの忠誠心があるのなら、来月の『王家狩猟祭』、ルシアンも君を連れて参加するのだろうね? ここ数年、あの子は体調不良を理由に欠席していたが……これほど優秀な騎士がついているのだ。断る理由は、もうないはずだよ」
「……殿下にお伝えしておきます」
去りゆくシルヴェスターの背中に、俺は心の中で罵詈雑言を並べ立てた。
脅されたからではない。対峙した一瞬、脳裏に『この男は、本当に実の弟を処刑するつもりではないか』という疑念がよぎったからだ。
……クソッ。俺としたことが、いつの間にかルシアンの荒唐無稽な『設定』に毒されている。
シルヴェスターは圧こそ強いが、今のところは弟を案じる完璧な兄でしかないはずだ。
俺はズキズキ痛むこめかみを押さえ、モブとしての冷静さを取り戻しながら、寝宮へ戻った。
「狩猟祭!? 絶対ダメだ! カイル、あれは『運命の分岐点』なんだぞ!」
報告を聞いたルシアンはソファから飛び上がり、しどろもどろに手を振り回した。
「原作じゃ、俺は弓が下手すぎてウサギ一匹射てずに衆人の前で笑いものにされるんだ。それで逆上して、森の中で兄上を不意打ちしようとして……結果、外した上に守護騎士に取り押さえられる。……地獄への特急券だぞ!」
金髪をかきむしり、声に真実の恐怖が混じる。
「行きたくない! 病気だと言い張る! 来月までずっと下痢が止まらないことにするんだ!」
「殿下、落ち着いてください」
俺は肩を掴み、少し語気を強めた。
「シルヴェスター殿下が直接仰ったのです。今回も欠席すれば、殿下への疑いは頂点に達します。そうなれば、この部屋への家宅捜査が行われるかもしれない。そうなった時、殿下の書き溜めているあの『妄想設定』のノートが見つかれば……」
ルシアンの動きが凍りついたように止まった。
顔を上げたバイオレットの瞳に、先ほどの恐怖とは別の色が宿る。
『妄想』という言葉を聞いた瞬間、瞳が急速に冷えていく。
彼は力任せに俺の手を突き放した。
「……妄想?」
ルシアンは一歩後ずさり、声が震える。
「君は……君まで、俺がただ狂って、存在もしない幻想を独り言してると思ってるのか?」
しまった、言葉が足りなかった……
「殿下、そういう意味ではありません。現実的な対処の話を……」
「これが現実なんだよ!」
彼の瞳に朱が差す。
「俺は毎日、明日には地下牢にぶち込まれるんじゃないかって怯えてる! 必死で嫌われ役を演じて、一番信頼していた騎士にまで……っ」
胸が、ズキンと痛んだ。あの瞳に、俺はただの冷たい傍観者でしかなかったのか。
彼は奥歯を噛み締め、一瞬声を詰まらせた。
「なのに、真実を知っているはずの君の目には、俺はただノートに落書きして悦に入ってる狂人にしか映ってなかったのか? ……最初から、信じる気なんてなかったんだな」
室内の空気が、一瞬にして氷点下まで下がった。
「カイル、もういい。行けよ」
彼は背を向けた。その肩が微かに震えている。
「これがただの妄想だと思うなら、君をこの『泥沼の人生』に巻き込む必要もない。狩猟祭は自分でお似合いの破滅を選んでくる。君はどこへでも好きに行けばいい」
その細く孤独な背中を見て、俺の胸に前例のない苛立ちが湧き上がった。
辺境伯家の三男として、空気を読むことには長けている。
ここで謝罪するか、冷静に利害を説くべきなのは分かっている。
だが、口を衝いて出たのは、普段絶対に見せない鋭い拒絶だった。
「……承知いたしました。殿下がお一人で完璧にこなせると仰るのなら、私のような『モブ』の出る幕はありませんね」
冷徹な騎士の礼を執り、俺は寝宮を後にした。
ドアが閉まった瞬間、胸に去来したのは安堵ではなく、あの泣き出しそうな瞳が刺さった棘だった。
滑稽な芝居。狂った妄想。
だが、あの馬鹿が一人で恐怖に立ち向かおうとする姿を見て、これほどまでに不愉快になる自分を、俺は初めて知った。




