第三話 優しき毒牙とモブの直感
晩餐会の翌日。
俺の「平凡な老後」青写真は、あっさり破り捨てられた。
目の前に立つのは、シルヴェスターの専属近衛騎士。
伝えられたのは、あの完璧王子からの「個人的な招き」だ。
その瞬間、ルシアン殿下がいつも口にする『俺、死んだわ』という絶望が、胸にリアルに突き刺さった。
「殿下。シルヴェスター殿下から、茶会の誘いが来ました」
俺は震えるルシアンのスカーフを整えながら、事務的に報告した。
「はぁ!? お茶!? それ毒だろ! 絶対毒殺してお前をバラバラにして俺の戦力を削る気だ!」
ルシアンは袖を掴み、真っ青な顔でまくしたてる。
「カイル、行っちゃダメだ! 今すぐ荷物まとめて裏門から逃げよう。君の実家で一緒に畑耕そう……」
「殿下。世間ではそれを逃亡と呼びますし、二人揃って指名手配犯になるだけです」
俺はその手を無造作に振り払い、声を低くした。
「落ち着いてください。俺はただのモブ従者です。シルヴェスター殿下が俺に手を下す理由なんてないですよ……それより殿下こそ、部屋でおとなしくしててください。庭でまた『悪役練習』なんかして、墓穴掘らないように」
不安に揺れるバイオレットの瞳を前に、俺はつい余計な一言を付け加えた。
「……必ず、無事に戻りますから」
「……ふん。あ、当たり前だろ。君は俺の専属騎士なんだからな」
ルシアンはバツが悪そうにソファへ座り直し、小さな声で毒を吐いた。
「君がいなくなったら、誰が俺にちょうどいい温度のホットココアを淹れるんだよ」
「殿下、俺は専属騎士であって執事ではありません。ココアくらい侍従に任せてください」
「それじゃダメなんだ! 他の奴だと熱すぎたりぬるすぎたりするんだよ!」
俺はその駄々を無視し、静かに部屋を後にした。
シルヴェスターの離宮は、ルシアンの部屋とは正反対だった。
整然と明るく、秩序が支配する空間。
窓辺で優雅に茶を嗜むシルヴェスターそのもののように、一切の隙がない。
「座りなさい、ヴァルツ騎士。堅苦しい礼儀は抜きにしよう」
シルヴェスターが微笑む。だが、氷原のような冷徹な碧眼が俺の逃げ場を塞ぐ。
「ルシアンが、随分と君を振り回しているようだが?」
「滅相もございません。ルシアン殿下にお仕えできるのは、私にとって過分な光栄です」
俺は完璧な公務員スマイルを貼り付けた。
心の中では、ルシアンが本物のクズであることを理解している。
無実の騎士のマントを切り裂いたり、不敬な態度を隠そうともしなかったり――
あの不遜さは、彼の本質からくるものだったはずだ。
「光栄、か」
シルヴェスターは優雅に紅茶を啜る。瞳の奥に、どろりとした闇が潜む。
「カイル・ヴァルツ。辺境伯家の三男。騎士学校の成績は常に『中の上』。目立たず、落ちこぼれず。……そんな君が、なぜ突如ルシアンに指名されたのかな?」
カチリ、と杯がソーサーに当たる硬質な音。
「継承権のない三男坊にとって、王都で確固たる地位を築くことは抗いがたい魅力だろう。……さて、自分以外は誰も眼中にないはずのあのルシアンを、そこまで心酔させるために、君は一体どんな『手段』を用いたんだ?」
心理戦だ。
俺が「地位」や「権力」のために、第二王子の弱みや妄想に付け入っているのではないかと、暗に突きつけてくる。
「殿下、私には驚くような手段など持ち合わせておりません」
俺はシルヴェスターの目を真っ直ぐに見つめ返し、淡々と言った。
「ただ、殿下が私を指さして『お前だ』と仰った時に、目を逸らさなかった。……それだけです」
「ほう?」
シルヴェスターの目が細まる。
周囲の空気が重く、鋭く変質した。
「ルシアンは以前は我が儘だったが、従者のために私に盾突くような真似は一度もなかった。……ヴァルツ騎士、君は彼に何をした? あるいは――彼は君に、何を話した?」
疑っている。
ルシアンが「愚者のフリ」をして、権力争いを避けているのではないかと。
もしここで真実を語れば、ルシアンは『狂った王子』として王宮の奥深くに幽閉されるか、あるいは『悪魔憑き』として神殿に引き渡され、二度と日の目を見ないだろう。
俺は確信している。
以前のルシアン殿下は心からのクズだったが、今の彼は「必死にクズを演じている」だけなのだ。
「殿下は……シルヴェスター殿下を、深く崇拝しておいでです」
俺は無表情のまま、真っ赤な嘘を吐き捨てた。
「以前よりもずっと『努力』されています。期待に応える王子になるために、少し不器用なやり方ですが、自分なりに考えておられるのです。どうか寛大な心で見守ってやってください」
「……私めはただの従者。主君の身の安全を守る以外、権力や地位に野心はございません」
シルヴェスターは長い沈黙の後、息が詰まる空気の中でふっと笑った。
「私を崇拝している、か。ふふっ、面白い言い草だ」
彼は椅子の背もたれに体を預け、殺気を霧散させた。
「ヴァルツ騎士。君はやはり『特別』な男だ。その『純粋』な忠誠を、これからも持ち続けてほしい。ルシアンを……そして私を、失望させないでくれよ」
ルシアンの寝室に戻ると、彼は錆びついた装飾剣を握りしめてドア前に膝をついていた。
「カイル! 戻ったのか! ううっ……あと十分戻らなかったら、俺はこの剣を持って兄上と相打ちになる覚悟で乗り込むところだったんだぞ!」
鼻水と涙で顔ぐちゃぐちゃ、手まで震わせている馬鹿な主君。
俺はやれやれと溜息をつき、その鉄屑を取り上げた。
「殿下。せっかくの『悪役』設定が台無しですよ」
「そんなの知るか! シナリオなんかより、俺の騎士の方が大事なんだよ!」
こいつ、自分がどれだけとんでもないことを口走ってるのか、自覚あるのか?
「殿下」
「ん?」
「シルヴェスター殿下の疑いを晴らすため、明日からの『悪役演習』には俺の監督をつけさせていただきます。……もっと深みのある『悪』を教えて差し上げましょう」
「えっ? カイルも一緒に悪役を演じてくれるのか?」
「いいえ。殿下が二度とあんな……あらぬ誤解を招くような『ブラコン芝居』を披露しないように、叩き直すだけです」




