第十話 軌道を逸れた救命の矢
予想通り、ルシアン殿下は「逃げ切った」と思い込み、危険な手練れたちの伏撃地点へ真っ逆さまに飛び込んでいた。
彼は森の開けた場所で馬を止め、木に寄りかかって激しく肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……。やっと逃げ切ったぞ。兄上と一緒に崖に行かなければ、あの『暗殺イベント』は起きないはずだ。俺ってば天才……」
だが、死角から黒い影が静かに包囲を狭めていた。
俺は木々の高みに潜み、瞳を細めた。
昨夜の暗部を最初は第一王子が用意した役者かと思ったが、この殺気は本物だ。
差し金が誰であれ、こいつらを第二王子の側に置いておくわけにはいかない。
手を出そうとした瞬間、ルシアンが野生の勘のような鋭さを見せた。
草むらで光った金属に気づき、悲鳴を上げながら馬鞍の長弓をひったくった。
「だ、誰だ! カイル! いるんだろ!?」
泣き出しそうな声で叫びながらも、黒い影が迫るのを見ると、無意識に両腕を広げて馬を庇うように立ちはだかった。
この馬鹿、自分が漏らしそうなくせに、馬を護ろうとするのか。
そこへ、最悪のタイミングでシルヴェスターの馬蹄音が響き、アリス嬢が続いた。
兄上は勝手に走り去った弟を放っておけなかったのだろう。
「ルシアン、何を拗ねて……」
シルヴェスターが姿を現した瞬間、伏兵たちが牙を剥いた!
毒を塗った三本の弩箭が異なる方角から扇状に放たれ、射線の交差点にルシアンが立っていた。
「やめろおおおぉぉーーっ!」
ルシアンの咆哮は完全なパニック反応だった。
振り返りざまに手から滑り落ちるように放たれた矢は、力なくシルヴェスターの方へ飛んでいく。
ちっ、と舌打ちが漏れる。
放っておけば、あの矢は「混乱に乗じた兄への暗殺未遂」の証拠となり、同時に飛来する弩箭がルシアンの命を奪う。
俺は電光石火で林間を駆け抜けた。
剣を抜く時間はない。
右指で硬い小石を弾き飛ばす。ヴァルツ流の投石術だ。
――キィィィン!
石は空中でルシアンの落ちかけた矢に命中し、その軌道を変えさせながら、シルヴェスターの喉元を狙っていた弩箭の尾を弾き飛ばした。
同時に空中で身を翻し、左手の鞘で残る二本の弩箭を叩き落とす。
混乱の隙を突き、刺客たちの懐へ飛び込み、神業に呆然とする彼らの項を剣柄で叩き伏せた。
そのまま影へ没し、口実のために仕留めておいた野兎をひっ掴む。
「ルシアン様! 殿下! ご無事ですか!?」
俺は茂みから飛び出し、獲物を掲げて叫んだ。
「この兎を追っておられたのでしょう? 私めが仕留めてまいりました!」
その場に静寂が降りしきった。
異変に気づいた従者たちが駆けつけ、倒れた刺客と血の気の引いたルシアンの姿を目の当たりにする。
ルシアンは無傷のシルヴェスターと、地面に転がった折れた矢を見比べ、顔を真っ白にした。
「兄上を助けようとした」と言えば済む話だが、彼の脳内では「悪役の矜持」が暴走したらしい。
彼は喉を引き裂かんばかりに叫んだ。
「そ、そうだ! 俺は、本当は兄上を射ようとしたんだ! なのに変な奴らが邪魔しやがって! ちっ、運がいいな、兄上!」
その告白に、駆けつけた従者たちが凍りついた。
公然たる謀反の自白だ。
シルヴェスターはゆっくり馬を降り、自分の命を救った矢を見つめた。
眼差しは極めて複雑だ。
俺を見、そしてルシアンを見た。
「……ルシアン。今、私を射ようとしたと言ったかい?」
声は耳元で囁くような、手ぬるい恐ろしさを帯びていた。
「そうだと言ってるだろ! 運が良かったな!」
叫ぶルシアンの瞳は、今にも涙が零れそうに潤んでいた。
騎士たちが剣を抜きかけるのを見て、俺は一歩前に出、ルシアンを背に庇うように跪いた。
「シルヴェスター殿下、お許しを!」
俺は頭を低くし、切実な声を絞り出す。
「ルシアン様は刺客の襲撃にひどく動転し、正気を失っておられるのです! 先ほどの矢は、刺客の動きを察知し、身を挺して兄上を護らんとしたもの! 殿下はご自身の心配を隠そうとするあまり、口が滑ってしまったのです。どうか、賢明なるシルヴェスター殿下におかれましては、その真意をお汲み取りください!」
俺は横目で呆然とするルシアンに合図を送った。
「殿下、貴方もです。兄上をあれほど案じておられたのに、なぜこのような酷い冗談を? 弩箭に射抜かれそうになり、本当は今も震えておいでなのでしょう?」
ルシアンは俺の意図をすべて理解できなかったようだが、「芝居に合わせろ」という信号だけは本能で受信した。
「……ふん、勝手に言ってろ。俺はあの兎に腹が立って手元が狂っただけだ」
シルヴェスターは俺を、そして泣き出しそうな弟をじっと見つめた。
彼は馬鹿ではない。この状況の裏に何かがあることは分かっているはずだ。
だが同時に、あの矢が本当に自分を狙ったものなら、今こうして立ってはいられないことも理解していた。
「……そうか。心配を隠すための、冗談か」
シルヴェスターは長剣を収めると、傍らで黙々とメモを取っているアリスを振り返った。
「アリス嬢。君はどう思うかね?」
「ああ……これこそが伝説の『ツンデレ告白』ですわね?」
アリスは扇で顔を半分隠しながら、瞳に狂おしい情熱を宿していた。
「救った気恥ずかしさを隠すために、あえて殺すなどという台詞を吐く……。この深く、不器用な愛……。素晴らしいですわ。新しいインスピレーションが止まりません!」
ルシアン「……?」
俺「……」
命は繋ぎ止めた。
だが、処刑されるよりも面倒な日々が待ち受けている。
そんな予感に、俺は天を仰ぎたくなった。




