第九話 強制的(イベント)二人きり
森の東側へ踏み入ると、天を突く古木が陽光を遮り、光と影のコントラストが静寂を際立たせていた。
「ああ、あそこに狐がいるようだね」
シルヴェスターが不意に馬を止め、幽邃な小径を指差した。
背後の従者に目配せする。
「二人とも、あちらに囲い場を作ってくれ。獲物がアリス嬢を驚かせないようにな」
「はっ」
従者たちは迅速に離れた。
次にシルヴェスターは俺に向き直り、心底ゾッとする完璧な微笑を浮かべた。
「ヴァルツ騎士。辺境のヴァルツ家といえば、複雑地形で獲物を追う名手だと聞いている。先ほど手負いの鹿が南へ走るのが見えた。アリス嬢が薬材として鹿角を欲しがっていてね……君に任せてもいいかな?」
「シルヴェスター殿下。ルシアン殿下の専属騎士として、主を守護することが最優先任務ですので……」
「カイル、構わないぞ!」
ルシアンが遮るように声を上げた。
震える声とは裏腹に、瞳に自己犠牲的な悲壮感が漂う。
「兄上もいるし、アリス様もいるんだ。俺は大丈夫だ! さあ、アリス様のために鹿を狩ってきてくれ!」
青ざめた健気な表情を見て、俺は内心で二千一度目の溜息をついた。
この馬鹿、また『騎士を守るために独り死地へ向かう悲劇の主君』でも脳内再生しているのだろう。
「……承知いたしました。命のままに」
俺は模範的な騎士の礼を執り、馬を南へ走らせた。
鹿角か。この森ならいくらでもいる。適当なのを片付ければ済む。
南の密林に入って五分もしないうちに、一頭の運の悪い成獣が視界に入った。
猟弓を使うまでもない。馬上から短刀を放つ。柄が正確に延髄を叩き、獲物は鳴き声一つ上げずに沈んだ。
「片付いた。後で拾いに来ればいい」
俺は馬を降り、手綱を隠れた場所に繋いだ。
次の瞬間、平庸な『モブ騎士』の気配を完全に消し去った。
ヴァルツ家秘伝の潜伏術で、灰色の残影となり、断崖を俯瞰できる巨木の枝へ音もなく返り咲いた。
その頃、断崖へ続く小径では。
従者たちが遠ざけられたため、シルヴェスター、ルシアン、アリスの三人が馬を並べて緩やかに進む。
まだ崖には到達していないが、空気はすでに異様に変質していた。
ルシアンは猟弓を握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めていた。
しきりにシルヴェスターの後頭部を盗み見る挙動は、不審極まりない。
「……今だ、今ここで騒ぎを起こして、早く離れないと……」
ルシアンは呪文のように独り言を溢す。
「崖には近づけない……絶対に行かせないぞ……。くそっ、カイルの奴どこに行ったんだよ。行かせるんじゃなかった。あいつがいないとマジで漏らしそうだ……」
「ルシアン殿下、先ほどから何をぶつぶつ仰っているのですか?」
後方に控えていたアリスが不意に馬を寄せ、軽やかな口調で問いかけた。
「うわあああぁっ!」
ルシアンは落馬せんばかりに仰天し、手綱を掴み直した。
「ア、アリス様! なんでもありません! 狩猟祭の祝詞を……暗唱していただけです!」
「そうですか?」
アリスは扇で口元を隠し、意味深に目を細めた。
「てっきり……カイル騎士が側にいないのが寂しくて、堪らないのかと」
「え?」
ルシアンは呆然とし、馬上できょとんと固まった。
「噂は存じておりますわ」
アリスは声を潜めた。瞳に、清純なヒロインには似つかわしくない狂信的な光が宿る。
「殿下が如何にあの騎士を『お仕置き』なさっているか……。練習場で、彼が背後から殿下を抱くように弓を引いていたお姿も……。ああ、感銘を受けましたわ。身分を超えた、痛みと服従に彩られた『絆』……」
少し離れた枝の上で、俺の顔面筋肉がぴくりと引き攣った。
この公爵令嬢の言う「絆」とは、まともな人間の理解とは根本的に別物だ。
一体どんなフィルターで世界を見てるんだ。
「ま、待ってくれ、アリス様、何を言って……」
ルシアンは完全に混乱に陥った。逃げる算段が衝撃で粉砕されている。
「ルシアン」
シルヴェスターが不意に馬を止めた。振り返りはしないが、脊髄から染み出す冷気が森の温度を数度下げた。
「君は、あの辺境から来た男を随分と信頼しているようだが。……私は、君が近頃見せている平庸と我が儘が、本心なのか、それとも『あの椅子』を窺うための偽装なのか、非常に興味があるのだよ」
声は恐ろしく平坦だった。
「兄として、君を疑いたくはないのだがね」
「お、俺は椅子なんて興味ない! 欠片も興味ないんだ!」
ルシアンは尻尾を踏まれた猫のように叫び、遠くの茂みを指差した。
「あ! あそこに兎がいる! 俺はあれを追う! 兄上とアリス様でゆっくり喋っててくれ、絶対に来るなよ!」
言うや否や、ルシアンは返事も待たずに馬の腹を蹴り、逃げるように森の奥へ消えていった。
シルヴェスターはその背中を深い眼差しで見送ったが、追おうとはしなかった。
「……私を避けているのか、それとも単なる臆病風か」
独り言を溢すと、アリスに向き直った。
「見苦しいものをお見せしました、アリス嬢。あの子がいない間に、我々は崖の方へ向かいましょう。あそこは眺めが良い」
ルシアンが走っていった方向を見やり、俺は溜息をついた。
あの馬鹿。崖を避ければ安全だと思っているが、逃げた先は森の深部に仕掛けられた包囲網のど真ん中だ。
俺は巨木から軽やかに飛び降りた。
灰色の影となって、迷走する主君の背後を音もなく追随する。




