【サクっと一枚目】
【おことわり】
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・焼き菓子などはすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
薄幸が過ぎるのである。前世の行いを疑うほどに。
「はい、おみやげ。食べてね、忍冬くん」
出張帰りのヒイラギさんが手渡してくれたのは、何気ない個包装の平べったいお菓子だった。ぼくはパソコンから目を離し、頭を下げながらそれを受け取る。「ありがとうございます。お疲れ様でした」
彼女は輝く微笑で浅くうなづいてから隣へと移動、「さくらちゃん、おまたせー」と、その席の女子と雑談の花をポンポン咲かせた。「全国のおみやげ大集合物産展みたいなのをやっててね、アレやらコレやら色々と買っちゃったのよー」と、なかなかにかしましい。ぼくに対しては判で押したような社交辞令だけだったのになぁ……と、穏やではない心中をかろうじて自重、ヒイラギさんの横顔を少しだけ追うみたいに見詰めるに留めた。音を忍ばせた溜め息をひとつ。そののち再び視線をパソコンの画面へ。お菓子を脇に置いて、ぼくはキーボードの上に両手を戻した。
ただ、それはあくまでも『業務に没頭しているのデス』風な体裁を保つだけの外面に過ぎず、嗅覚は彼女の残り香の採取に俄然積極的で、脳内ではヒイラギさんへの矢継ぎ早の質問でいっぱいだったのである。
『今回も課長と二人だけの出張でしたが、それは管理職の職権乱用ではないのでしょうか?』
『先月もサプライチェーン企業視察の名目で出張に出られていましたよね。間隔が短くはありませんか? どのようにお考えなのでしょうか?』
『お二人は大人のカンケーとの事情通の証言もありますが?』
『課長は既婚者ですよね?』
……などなど、問い掛けたい事はまだまだ怒涛と湧いて出て来るが、いやいや、この辺にしておこう。追求したい、真実を確認したいという欲求が身勝手に膨張しているだけで、でも実行にはまるで移せないからである。
そんなに気になるのなら、直接に聞けばよいのでは?
いや、まったくごもっとも。
しかし、それが出来ない自分がここにいるのである。まったく嘆かわしい。すべては腰抜けで不甲斐ない自分自身が悪い。惨めである。ええ歳こいて好きな女に好きだとも言えない己を恥じる。なんという弱腰、なんという意気地の無さ。なんという優柔不断……。
ヒイラギさんは四個か五個上の先輩で、先の半年間ぼくの教育係を担ってくれた方である。とても穏やかな女性で、物腰は柔らかく声音はいつも暖かい。その指導は常に新人目線でわかりやすく丁寧であり、いつしかぼくは姉のように慕っていた。そこで止めておけばよかったのだが、すっかり盲目的に魅了されてしまい、教育期間満了後も恋心を引きずり焦げつかせて、ぐだぐだの骨抜きにされているという惨憺たる有り様なのであった。もはや四方を鏡に取り囲まれたガマガエルである。パソコンの画面を真正面に捉えながらも、ぼくは肩をすぼめ、ただただ虚ろな眼で力無くうなだれているしかなかった。
「ニンドー、顔面偏差値が残念なのは相変わらずだけど、その上に今日は顔色が悪いわよ。どうかした?」
課内で唯一の同期である八重咲さくらが、隣の席からパーテーションを越えて心配そうな声を掛けてくれた。
「……ありがとう、大丈夫だよ」
「御手洗いでゲロゲロゲーゲーオエーってしてきたら?」
「そこまでではないよ」
「ここだけの話にしてあげるから安心しなさいよ、ゲロ男なんて言わないから。ブサ男とは言うけど……あ、常備薬持って来てあげようか?」
口は悪いが根の優しい彼女の指摘どおり、吐き出してしまいたいモノが確かにぼくの中に有って、それは堂々とこの胸の中に居座っている。
でも、下水に流してしまっていいモノではないのである。
それが歯痒い。世知辛い。
※
結局あれから思考の隅に焼き付いたヒイラギさんの微笑みを祓うことが出来ず、それに惑わされながら定時を迎えた。業務が遅々として進捗しなかったのは言うに及ばず。組織の一端を担う社会人として、とても情けない。ぼくは首までずっぽりと屈辱の沼に浸かるしかなかった。
就業後、諸先輩方からの呑みの誘いを固辞……もとい、丁重に辞退し、社員寮の個室に帰還、スーツのままにベッドへと倒れ込む。
「……ぬぬぅ……ぅぅ……」と、未確認生物のような怪しいうめき声を漏らしつつ、寝そべったままに背広を脱ぐ。
と、胸ポケットに何かが有るのに気付いた。探ってみれば、ヒイラギさんから戴いたおみやげである。そういえば無意識に持って帰っていた。こんなの食べるわけがない。お菓子に罪は無いが、ゴミ箱へ直行……と投擲しかけて、くの字に曲がっていた腕が止まる。
愚行。バチ当たりにもほどがある。これはヒイラギさんがわざわざ身銭を切り、課内全員へ自ら手渡してくれたものである。
何より、お菓子のメーカーにも原材料の産地の方々にも非礼が過ぎるというものだ。彼らの努力と情熱と責任が集約され、この形になっている。商品を生産するというのはそういう事だ。決して粗末に扱ってはならないのである。
とは言えもちろん今は食べる気にはなれない。手を伸ばしてテーブルの上へ安置、そのまま消灯して、この日は早目のふて寝……もとい、就寝とした。
※
明けて翌日。一晩過ぎても気分は腐ったままだったが、出社しないという選択肢は無い。
重い身体を引きずりつつ職場にたどり着けば、ヒイラギさんと八重咲が休みだと知らされた。
ヒイラギさんは事前申請のあった計画的な有給消化、一方で八重咲は突発的な私用との事。そんな素振りは昨日まるで感じなかったが、そこは私事である。無粋な詮索はやめておこう。気心の置けない同僚の顔が無いのはちと淋しいが、眼の前の仕事はこなさなければならない。こじらせたヒイラギさんへの想いもブスブスと不完全燃焼のままだが、ぼくは業務へと取り掛からねばならなかった。
※
とは言え、本調子に程遠かったのは不動の事実で、大した進展を成せぬまま定時を迎えた。本日もまたズルズルと這うように帰宅。昨日同様、自己嫌悪を抱いたままベッドへ倒れ込む。
何の感情も湧かないし、沸かない。頭の中は空に近く、ぼくは目を閉じ、ただただ暗い意識の奥底で膝を抱えていた。
どれくらいそうしていただろうか……
特別なにかのスイッチが入った訳ではないのだが、そっと腕を伸ばして、テーブルの上を探る。昨日のおみやげがあった。
ぼくはベッドから半身を起こしてあぐらをかき、改めてお菓子を見入ってみる。ピロー包装のフィルムには漫画チックなフォントで『トリサブレ』と記されていた。
食べたことは無いけれど、知名度は破格、半生において旅番組なりガイドブックなり動画なりで何回も何度も耳目にした、いわば全国区で名の知れた焼き菓子である。
フィルムを剥ぎ、丸っこい中身を取り出す。
頭を左にトリを横から眺めてみました……的な、何とも愛らしい形状のサブレが甘い香りと共に姿を現した。楕円形の胴体にこんもり盛り上がった頭部、それにやや大ぶりのくちばしの出っ張りが付いていて、顔の真ん中辺りには焦げで『・』が刻印してあり、つぶらな瞳を表しているようだった。納得の可愛らしさである。
とはいえ、そこはお菓子なのでいくら愛でても最終的にはバリバリと食べられてしまう運命なのだが、購買動機が『可愛い』だった婦女子の皆さんはそこら辺をどのようにお考えなのだろうか……と、主題が逸れたので、この問題は闇に葬るとしよう。閑話休題。
思うことはてんこ盛りだが、それはそれ、サブレはサブレなのでここは美味しく戴くこととしよう。ぼくは食べやすいようにとサブレの胴体を半分にするべく持ち直した。
その時である。
『 ♪ ピロン 』
……と、どこかで電子音。
「ん?」的に、ぼくは周囲を見渡してみる。もちろん住み慣れたぼくの部屋で、異変は何も感じられない。いつもの寒々しく淋しく殺風景で暖かみに欠けて女っ気がまるで感じられない野暮ったい野郎特有の部屋である。空耳か……と、再びサブレに向き直った次の刹那だった。
『 ……起動シマシタ…… 』
「は?」
驚嘆と共に手元を見る。『声』はサブレから発せられていた。
『 ▷ はじめましてホロ 』
と、続けて喋り出す始末である。
にわかには信じられない事態の推移に、ぼくはサブレを握る両の手に変な力が入ってしまった。すると、今度は警告らしい電子音が鳴る。そして慌てた口調でサブレが喚いた。
『 ▷ ホロは壊れやすいので、取り扱いには注意してくださいホロ。“ Fragile ”ホロ 』
「何なんだ、お前は!」
『 ▷ ホロはスマートサブレの試作型ホロ 』
さらりと未知の単語を口にするサブレのトリ。ぼくは普通に面くらっていた。
「なんだ、そりゃ?」
『 ▷ 平たく言えば焼き菓子仕様の自律式AIホロよ 』
……平たく言わなくとも見た目は平べったいのだが、そこはあえて取り扱わなかった。「もっとわからん。お菓子ではないのか?」
『 ▷ お菓子ホロ。食べられるホロよ。こう見えても関東圏を代表する銘菓としての誇りは失ってないホロ。えっへんホロ 』と、サブレは薄い胸を張った……ように見えた。
「そうなんだ」
『 ▷ ただ、おしゃべり機能を優先して開発されたので、味は二の次ホロ 』
「いや、そこにプライド持てよ」
『 ▷ しかしお宅さんはなかなかの強運ホロ。市場流通に備えての無作為βテスト、その一万枚に一枚封入という確率的に極めて薄い処を、よくぞピンポイントで引き当ててくれましたホロね。神掛かった引きホロ。畏敬すら憶えるホロよ 』
ぼくの運は大概で出がらしの筈なのだが、こんなどうでもいい余計なツキだけは有ったりするから腹立たしい。
もちろんそんな事を露とも知らないサブレのトリは、ただ『 ▷ ホロホロ 』と笑うだけだった。