チャネル0
≪二〇四〇年二月十三日 株式会社コネクティカ 新製品発表会 ライブ配信≫
(大勢が集まっている大きな会場。前方にスクリーン。ざわめきの中、段々と会場が暗くなり、右端に立つ女性にスポットライトが当たる)
(スクリーンに映像が映る。人間同士が議論する映像がフェードイン)
(落ち着きのある女性の声でナレーションが始まる)
人間にとって、親密になるとは難しいものです。表面的に仲良くすることは簡単ですが、仲が深まれば深まるほど、相手の嫌な部分、意見や価値観の相違から逃れられなくなります。
そうして無意識のうちに相手をこうだと決めつけ、思い込みをしてしまう。生まれるのは、過度な期待、羨望、失望、怒り、エトセトラ。
あらゆる断絶、喧嘩、暴力、その他不和の原因はここにあると言ってもよいのです。
(頭を抱える人間の映像)
なぜ、私たちはこうなってしまうのでしょうか。それはもちろん、相手の心が分からないからです。
だから、推測するしかありません。しかし、その推測はしばしば不正確で、結果として関係が悪化します。
(白衣を着た人間が研究をする映像)
『この流れを変えたい。平和を実現したい。最新の技術で、人間はもっと分かり合えるはず』。
そう考えた私たちは、十数年にもわたる研究の末、ついに『デウス・ワン』を完成させました。
(片耳に引っかけるように機器を装着する人間たちの映像)
デウス・ワンを装着した人間同士は、最先端のテクノロジーにより、お互いの思考や心の中身を脳に直接インプットすることができます。言語、性別、人種、職業、戸籍などの壁を超えて、お互いの想いを共有することができるのです。もう、理解不足で争う必要はありません。
デウス・ワンは半径二十五メートル内の人間と同時に心を共有可能です。大勢の集まる会議やイベントでも機能します。
もちろん、自分の中の秘密が勝手に漏れることはありません。デウス・ワンは思想の自由を尊重しており、『チャネル』という仕組みで公開する内容を制限できます。自分の心を最大限伝える『チャネル1』から、ポジティブな心だけを伝える『チャネル5』まで、場面に応じて自由に選択可能です。
また、デウス・ワンは非侵襲式のため、いつでも着脱できます。
(地球の映像)
デウス・ワンはいくつかの機関での実証実験を終えた後、まずは国内の企業を対象に提供を開始します。その後、個人向けに販売を開始し、各種規制の問題をクリアしつつ、世界中へ展開していきます。
価格は一台わずか五万円で、購入数に応じた各種割引も予定しています。
(太陽を背景にした笑顔の人々の映像)
誰もがお互いを理解しあえる、争いのない世界。誰もが望みつつ諦めていたこの理想を、弊社はデウス・ワンで実現します!
(明るくなる会場)
(沈黙)
(沈黙)
(巻き起こるブーイングと困惑の声。次々と焚かれるフラッシュ)
***
《二〇四〇年四月十九日 ○○高等学校 二年一組》
穏やかな風が、窓際の席に座る男女の間を抜けていく。
朝の風特有のサラサラとした感覚は気持ちがいい。春眠の心地よい気だるさを奪い過ぎないまま、人の精神を撫でるように、爽やかに目覚めさせてくれる。窓の向こうには麗らかな春の青空が広がっていて、集中力が切れてきた時に眺めれば、身近な美しさに触れられたというほのかな喜びも感じられるのがお得だ。カツカツというチョークの音が風と混じり合うのは、さながらカフェに流れる音楽みたいだし。
だから、この時期の窓際は人気だ。反対に、無機質で寒々しい廊下側の席は不評だった。少なくとも、去年までは。
今年の光景は、言うまでもない。教室は隅から隅まで笑顔で溢れている。窓際の席の子も廊下側の席の子も、男女問わず同じように微笑んでいた。
クラスのほぼ全員が風の歌を聴き、春の訪れを喜び、太陽の温もりを感じながら、授業の内容を漏らさず理解している。経験と幸福を共有する完璧な集団、大家族とでも呼ぶべき完成された共同体が、ここにはある。
【暖かい 風が涼しいね 綺麗な空 青春じゃん 平和だし 眠いわ 幸せ 授業つら 物理面白い タコマ橋知ってた 振動だっけ 共振って説は誤り 教科書のここの説明が超いい なるほどね 分かりやすい ありがと】
クラスメイトのほぼ全員の思考と感覚が常に共有されている状況は、思っていたよりも随分と心地よかった。私が授業を聞いていなくても、誰かが代わりに聞いてくれれば勝手に頭に入ってくる。特に頭がいい人の思考はとてもよく整理されているので、みんな重宝していた。その間、私たちのような凡人は思い思いの時間を過ごす。一見真面目に授業を受けている人が馬鹿を見そうだけど、実はそうじゃない。不真面目な人が漫画を読んだり、昨日見た映画のことを思い返したり、別の教科の勉強をしたりすれば、全員にそれが還元されるから。
それでも、たゆたう思考の波に乗りながらボーッと過ごす私は、きっとみんなのお荷物だと思う。しかもチャネル3なのは私だけだ。タダ乗りだと批判されてもおかしくないけど、みんなは私に目くじらを立てるほど暇ではなかったし、それに――。
窓際の一番後ろ、いわゆる主人公の席に目をやる。陽光で明るく光る白色の制服を着て、長い髪の毛を風に任せ、袖をめくり、つまらなそうに頬杖をついて外を眺めている彼女がいた。教室に満ちる幸福から疎外されているのは、一組四十人のうち、彼女一人だけだ。
そのまま何気なく見つめていると、彼女がこちらに気づいた。キッと目が細くなって、むき出しの敵意がぶつけられる。私は慌てて黒板に目を戻した。
【どうしたの またチサト 大丈夫? なんであんな顔するの しょうがないよ かわいそう でも選択だし 仕方ない 集中しよう】
私が感じた不安や恐怖は瞬く間にクラスに共有され、心配され、思考され、結論が出る。たった数秒で不安は打ち消され、元の多幸感がやってきた。私はホッと胸を撫でおろす。不快な感情が消えたことよりも、こんな私をみんなが家族だとまだ認めてくれていることに安心した。
もちろん、私もみんなと同じチャネルに設定すれば何も心配することなく家族を演じられることくらい分かっている。やろうと思えば今からでもすぐに。でも、それは何か嫌だった。論理じゃない、感情的なモヤモヤが胸につっかかって、どうにも踏み出せない。というか、踏み出したくないのかもしれない。
【ユリもチャネル変えなよ めっちゃいいよ 強制はしないけど もったいないって】
数人が私にチャネルの変更を勧めてきた。斜め前に座っているサトミが、すかさず私の方へ振り返る。彼女の顔には不気味なほど綺麗な笑みが浮かんでいた。私はブンブンと頭を振って意思を示す。ダメ、まだ心の準備ができてないの。
【そっかあ しょうがないね 集中しよ そだね】
サトミが前を向いてホッとしたのも束の間、今度は教卓の前に立つカミヤマと私の目が合った。どきり、とする。カミヤマは馬鹿みたいに授業熱心な物理教師で、一年の頃はことあるごとに私たちを叱っていたからだ。
だけど、予想に反してカミヤマは私やサトミを咎めなかった。彼は露骨に怪訝な顔をしたものの、そのまま黙って身を翻すと、再び板書を再開する。たった二か月前まで細かなことにまでガミガミしていた人間が、たった二週間で態度を変えるなんて思わなかった。今まで怒られてたのはなんだったんだろう。
私は、右耳の上にある機器、カミヤマの態度を豹変させた原因であろうものにそっと触れる。表面のゴム越しに、デウス・ワンの発するほんのわずかな熱を感じた。ああ、もう、このまま押し潰してしまいたい。一方で、これを失うことは怖い。デウス・ワンは、私と一組を繋ぐ最後の架け橋だ。だからこそ、このほのかな温もりが憎らしい。
……このモヤモヤを一組に共有したら、みんなはどういう反応をするのかが気になる。でも、こんなマイナスすぎる感情はチャネル3では公開されない。したくない。よって私だけの秘密だ、今のところは。
おずおずともう一度、主人公席の方を見てみる。彼女はまた窓の外を眺めていた。彼女の右耳の上には何も引っ付いていない。機器の不在を意に介さずにいられる彼女の姿が、私には羨ましく思えてならなかった。
***
きっかけは、つい二週間前のこと。人と人との心や思考を共有する革命的な機器『デウス・ワン』が、教育現場での実証実験の一環として、私たち二年一組に配布された。機器を受け取った時のことはよく覚えている。朝のホームルーム後の教室で、小さなクリーム色の箱に入れられた親指大の白い機械と設定用の小型端末、容器に入れられた透明なジェルが全員に配られた。そして、教卓の前に立ったのは二人。営業スマイルを振りまく担任と、その横で頬を紅潮させながらデウス・ワンの必要性を熱く語るおじさん。このおじさんこそがデウス・ワンの研究開発のリーダーで、確かカシワギという人だった。カシワギさんは十数分にもわたって、研究開発の経緯や技術的困難の解決、そして大勢の反発に対して万全の対応策をとった旨を説明した。要約すると、デウス・ワンは世界平和のために欠かせないもので、その安全性には相当の自信があるとのことだ。
それでも一組生徒からの反応は芳しくなくて、私もその中の一人だった。見返りも少ない状態で実験対象になることに対する不満もあったけど、一番の理由はデウス・ワンに対する世論のせいだろうと思う。二月の発表以降、ニュースでも度々デウス・ワンは取り上げられ、酷評されていたから。『管理社会を強化する』『人間性を失う』『新たな格差を生み出す』など、著名人や権威が次々とデウス・ワンに懸念を示して、みんな気にしていた。一組だって例外じゃない。だから、一人が手を挙げてカシワギさんに質問した。
「すみません、これは強制ですか」
「いえ、装着するかは皆さん一人一人にお任せしますし、着脱も自由です。ですが、私は研究を率いてきた一人として、デウス・ワンに確かな自信があります。装着すれば必ず、授業やコミュニケーションに役立つでしょう。後悔はさせませんよ。一組みんなが幸せになれるはずです」
それを聞いて、一組はみんな黙ってしまった。
結局、初日にデウス・ワンを装着したのは十人。しかも、世間の反発に対する『万全の対応策』として、配られたデウス・ワンには大きな機能制限があって――心や思考の共有が大幅に制限される『チャネル3』に固定されていた。チャネル3では、装着した人同士でもあくまで表面的な心や思考しか共有されない。結果として「期待したほどじゃなかった」と、その日のうちに二人が外した。次の日にはさらに三人が外して、仲の良い男子五人組だけが残った。五人も真面目というより興味本位というか遊び半分で着けているようなもので、しょっちゅう着脱を繰り返していた。一組での実証実験は失敗だったねと、みんな思っていた。
事態が大きく変わったのは、四日後の朝。男子五人が授業中の暇潰しでデウス・ワンの設定をいじっていると、一人が偶然にもデバッグモードを発見してしまったのだ。とはいえ、デバッグモードで変更できる設定項目のほとんどは一般人に理解できない。それでも『チャネル0の有効化』という項目だけは全員が意味を理解できた。項目の下に、簡潔な説明があったから。
『全ての思考と心情を周囲と共有する(実験用機器のみ利用可)』
五人組は、ゲームの裏技を見つけたかのようにはしゃいでいた。けれども貧乏くじは誰だって引きたくないのか、昼休憩になっても五人は騒ぐばかりで一向に進展しない。結局、その日の帰り際に一人が悪ノリをしぶしぶ引き受けて、一瞬だけチャネル0を有効にした。
有効になったのは、たった数秒間のことだったと思う。私は友達と一緒に帰り支度をしていたところだった。五人がまた馬鹿やってるよと、一組のほとんども五人を気にもしていなかった。
けれども、その数秒間の後。突然、五人は肩を組んで一斉に大泣きを始めたのだ。私も、周りの人間もぎょっとした。
「ホンマごめん!」
「俺たちが無神経だった! 悪かった!」
「いや、分かってくれたならそれでいいよ、ありがとう……ありがとう」
悪ノリを押し付けられた一人の心情と思考が五人全員に共有されて、自分たちの浅はかさに気が付いた四人は泣いて悔やんだ。言葉では伝わらない、微妙な思いやすれ違い。デウス・ワンはチャネル0を通じてそれを共有し、五人を見事に一つにしてみせた。
「俺もこれからチャネル0使うわ」
「正直怖かったけど、こんなに効果あるなら使ってもいいよな」
心底感動したのか、そう呟いて五人は次々にチャネル0を有効にしてみせた。五人の顔はすぐに、見たこともないくらい明るい笑みで満たされて、
「ホントに凄いよこれ。みんなも使ってみて欲しい。グルチャでやり方教えるわ」
教室中がざわめく。騒ぎをよそに、晴れやかな五人は自分たちの得た知見をすぐに一組のグループチャットに投稿した。手順は手間こそあったがさほど複雑ではなくて、「そんなにいいなら一瞬試してみない?」「でもちょっとヤバそう」「数日様子見して良さそうならやってみればいいじゃん」などと、波紋は徐々に広がっていく。
月曜日には、土日に試した冒険好きな人と、その体験談に興味を持った人がデウス・ワンを装着し、チャネル0を有効にした。
チャネル0は決して心を繋ぐだけではなかった。授業でも、チャネル0の彼ら彼女らは内容の理解も完璧だった。小テストは一般生徒よりも早く正確に解き、先生に当てられれば120%の完璧な回答を返す。何せ、複数人の脳が一つになったも同然。普通の人間が勝てるわけない。
勉強に真面目で実証実験に興味がなかった人たちも、この結果を見てか、とりあえず機器を装着した。そうすると、周りのチャネル0の人の心を吸収するうち、いつの間にか自分たちもチャネル0への仲間入りを果たしてしまう。きっと感化されたのだろう。
そして何より、チャネル0の人たちは楽しそうだった。常に笑顔で仲良く成績優秀。一組は学校中の注目の的になり、最高の機器があるのにわざわざ装着しない一組生徒はむしろ不思議がられた。結果として、機器の配布の翌週末には、私とチサト以外の全員がチャネル0になっていた。
『装着すれば必ず、授業やコミュニケーションに役立つでしょう。後悔はさせませんよ。一組みんなが幸せになれるはずです』
結果論ではあるものの、カシワギさんの発言は恐ろしいほど正確だ。チャネル0はウイルスのように一組に蔓延し、一人一人が自由に生きて、全員でその利益を享受できる疑似的大家族が形成されていく。個々が輝き、一つに混じりあう。弱みを補い、強みを育てる。対立も押し付けもない、集団の完成形。
素敵な話だ。全てをさらけ出して認め合えば、何もかも乗り越えられるのかもしれないなんて。言葉には裏があるけど、チャネル0には表も裏もない。相手の全てを受け入れて、自分の全てを与える。まさに美しい世界! これ以上の幸せなんてない。
――本当に?
私はチャネル0へ参加していない。理由は……自分を全部共有するというのが、怖くて。とはいえ、デウス・ワンは妥協して装着した。一組でやっていくためには、もはや選ばざるをえなかったから……じゃない、これはカッコいいだけの言い訳。実際、選ぶことはできた。私が弱かったせい。だって、チサトは最初から最後まで装着すらしなかったから。もちろん一組で上手くやれているわけではないけど、それでも彼女は、ずっと人間のままでいようとしているんだと思う。それはそれでいいこと。私とチサトは違うし、私と一組も違う。違うことは恐れることじゃない。だから、大丈夫。
こう結論を出してから数日が経つけど、どこか納得できない感情は消えていない。溶け残った不快な気分の塊が、チラチラと胸のあたりで燃え続けている。一組もチサトも間違っていて、かつ両方が正しい。みんな違って、みんないい。
――本当に?
苦しんでいるのは、どうせきっと私くらいだ。どっちつかずで優柔不断な私が全部悪い。でも、私の幸せは周りのそれよりもずっとずっと複雑なんだよって、勇ましく叫べたらどれだけ楽になれるだろう。いっそチャネル0で認めてもらおうか、なんて思ったりして……本当にしょうもない。周りが明るくなっているのに、私はどんどん暗くなっていく気がする。
***
昼食の時間になって、一組の教室はがらんとした。残ったのは私だけ。チャネル0の人たちは本当に仲が良くて、一緒にご飯を食べに行ったのだ。チサトはいつの間にかいなくなっていた。
ボーッと広げっぱなしにしていた教科書を鞄に戻して、おもむろに立ち上がると、窓の外を覗きにいってみる。中庭には一組の生徒が集まっていて、パンや弁当を手にしながら草むらやベンチに座ってまったりと過ごしていた。人数の割に声は全く聞こえてこない。それでも、一組の人たちの思考や感情は常に脳へと届き続けている。それはそう、心が共有されていれば言葉なんて不要なんだから。
私は大きくため息をつく。あと二週間で実験は終わりだ。だから早く、早くその時が来てほしい。そうすれば、私は何も考えなくて済む。多分。
ガラガラ、と背後で教室のドアが開く音がする。振り返ると、購買でパンを買ってきたらしいチサトがそこにいた。二人きりの状況にうわっ、と思ってしまう。顔に出てないといいけど。
チサトは無表情で私を一瞥すると、彼女の席に腰を下ろした。背後でペリペリとパンの包装を破る音。私は視線のやり場に困って、誰も視界に入らないように教室の中心を見つめることにした。
「…………」
チサトは右後ろで黙々とパンを食べている。一分、二分と時間が過ぎる。廊下を他クラスの男子が通ったが、一瞬ちらっとこっちを見ると足早に去っていった。きっと憐れまれてるか、面白がられてるんだろうな。
「ねえ」
思わずビクッとする。声がしたのは後ろ……チサトに間違いない。また怒られるのか。
「ご、ごめん」
慌てて後ろを向き、すぐに謝罪する。怖くてチサトの顔は到底見られないので、見えるのは机とチサトの手足だけ。だらしなく開けられた袖、メロンパンの袋を掴む手、黒色のソックスに濃い緑色のスリッパ。足元は意外と綺麗にしてるらしい。
しばらくの後、はぁ、と小さなため息が聞こえて、
「そんな嫌なの? 私が」
怒りというより、寂しげなトーンでチサトが呟く。てっきり怒られるとばかり思っていた私は、その弱々しい声を聞いてさらに慌てた。顔を上げると、チサトはやっぱり怒った表情ではなくて、むしろ疲れた顔をしていた。
「いやだって、さっきも私を睨んでた」
「それはそっちが先だし、誰だっていきなり見つめられたら嫌でしょ。私は見世物じゃないの、デウス・ワン組からしたら違うかもしれないけどさ」
チサトはぶっきらぼうに言う。ああ、私もみんなと同じだと思われてるんだ。
「私はチャネル0じゃない。他の人とは違う」
「それはすごい。みんなと違うって言ったの、あなたで三人目だけど」
今度はわざとらしく嘆息を漏らしてから、チサトは目を細めて私に問いかけてきた。
「……あなたの名前、ユリさんだったよね」
「そうだけど」
「外してみてよ、耳のそれ。みんなと違うならできるでしょ」
チサトは大げさに、人差し指で右耳の上をコンコンと叩く素振りをする。
「やってよ、ユリ」
「そんなの、もちろん」
馬鹿にしないで、と内心苛々しながら、私は右手の指を耳の上の装置にかける。そして、指先に力を込めて――
【やめなよ 脅しに屈する必要ない 私たちがいるよ! チサトどうして そんなの無視無視! あの子にも事情あるんでしょ】
心臓が高鳴る。ハッとして窓の外を見ると、一組全員の顔がこちらを向いていた。
【ユリも外でご飯食べよ 安心して 外したら悲しい こっちは楽しいよ 幸せになろうよ】
表情は読めないけど、私を気遣う心が十二分に伝わってきた。チサトに構う必要なんかない、こっちにおいで、と脳内に心が木霊する。暖かい、柔らかい、包まれるような安心感がじんわりと心に広がっていく。
離れていても、私の不安がみんなに伝わっているんだ。チャネル3でほんのわずかな部分しか共有してないのに、理解して私を受け入れようとしてくれているんだ。
なのに私は、どうしてこんなにもチャネル0が嫌なんだろう。
「…………」
私は黙って右手を降ろした。歓迎するように、窓からふわりと風が吹きこんでくる。涼しくて心地よい、新しい春風が。
「ほらね、できないんじゃん」
長い髪をなびかせながら、チサトは私を鼻で笑った。そのまま、包みから取り出したメロンパンを潰すように引きちぎって、
「『私は違う』はもうたくさん。みんな同じだよ、私以外はね」
彼女は眉間に皺を寄せながら、平たくなった欠片を口に放り込んだ。
***
《二〇四〇年四月二十日 ○○高等学校 廊下》
「ねえ、聞いた? 二年一組の話」
「聞いた聞いた! 新しい機械の実証実験してたら、隠し機能を見つけてオンにしちゃったんでしょ?」
「ヤバいよね! どんだけ勇気あるんだって話」
「それ、マジでウケる。私じゃ絶対真似できない」
「いや、それがさ、最初にオンにした人以外はそもそも機械に興味なかったらしいんだけど、成績とか仲の良さを見て試しに着けてみたら、それがめっちゃ流行っちゃったんだって」
「え、それじゃウチらも着けたらそうなるんかな? こっわ」
「でもさあ、正直、正直な話よ、成績めっちゃ上がって周りと仲良くなって楽しく過ごせるならさ、ちょっと試してみたくない?」
「えー、ヤバい薬みたいじゃん」
「って言っても、いつでも外せて、ピアスみたいな跡も残らないなら一回くらいやってみたいでしょ。副作用もないらしいし」
「まあ確かに……テスト前だけ着けてみたいかも。勉強しなくてもいいんでしょ?」
「しかも授業とかも受けなくていいらしいよ。得意な人が授業受けて、他の人たちは漫画とか読んでるって言ってた」
「え、どういうこと?」
「よく分からないんだけど、脳が共有されるから、勉強と遊びを同時に行えるんだって」
「何それ最高じゃん、えー、いいなー二年一組」
「羨ましいよね」
***
「一組のカナ、最近めっちゃ明るくなったよね?」
「分かる! 私も今日笑顔で挨拶されたわ。あ、もしかしてアレも機械のせいなん?」
「らしいよ」
「ヤバすぎでしょ」
「マジでそれだよね! だってカナって一年の頃さ、ぶっちゃけ微妙にいじめられてたっぽかったじゃん」
「そうそう、しかもいじめてたサトミとまた一緒のクラスになってね」
「ね、あんまひどくなるようだったらチクろうかとも思ってたけど、例の機械がきてすぐに変わったことない?」
「まああんまり会ってなかったけど、多分そうだと思う。先週の体育の時は暗かったけど、今日の体育マジで明るかったし、一組同士がありえないくらい仲良かった」
「え、じゃあサトミは?」
「カナと一緒にバレーやってたけど、二人とも楽しそうだったわ」
「それってつまり、あの機械のおかげで仲良くなったってことでしょ?」
「としか思えない。心を共有?するから、お互いに深くまで理解できるって話じゃん」
「あー、だからカナとサトミの心が混ざって、いじめがなくなったんだ」
「ヤバ、めっちゃいい話よね」
「いやホントにヤバいよ。あの機械、テレビだといっつも悪く言われてるけど、今のところデメリットなくない?」
「でも自分の秘密とか漏れるんでしょ?」
「お互いの心も共有されるから、悪用されるケースは稀って聞いたけどね。イメージとしては家族に打ち明けるのと同じらしいし」
「あー、なるほどね。ガチで仲良くなれるから問題にならないって感じ?」
「そうらしいよ」
「なら私も……っていうか、二人でやってみたい」
「え? あ、私と一緒にってこと?」
「そうそう、万が一があっても信用できるし」
「それは照れるわ」
「私らはズッ友だからね」
***
《二〇四〇年四月二十日 放課後 ○○高等学校前 交差点》
「なあ、この後カラオケ行かね? どうせ暇っしょ?」
「いいね! ジュンは?」
「あー……わりぃ、今日用事があるわ」
「またかよ? 最近お前付き合い悪すぎだわ」
「彼女でもできたんじゃね? え、まさかデート?」
「マジ!?」
「違うって」
「じゃあなんだよ」
「いや、理由はあんま言いたくないんだけど」
「それ絶対ヤバいやつやん、めっちゃ気になるわ」
「言えって、おい」
「あー、だから、恥ずかしいんだって」
「何がだよ」
「……だからさ、親が寝込んでるから看病すんの」
「はあ? そんなんなら最初っから言えよ」
「え、じゃあ最近来なかったのもそれなん?」
「まあ、調子悪いから」
「変なところで恥ずかしがんなって」
「だってお前、俺がこういうこと言うとサトシとかに言いふらすだろ」
「んなこと言わねーよ! どんだけ信用ないんだよ俺」
***
【じゃ、また明日ね】
【……ねえ、もうちょっとだけ。駅前のカフェに二人で行きたい】
【ごめん、今週は家で晩御飯を作る当番なの。お母さん、最近帰ってこなくてさ】
【あ、なるほど】
【また今度行こう】
【うん、頑張れ。必要なら私も手伝うよ】
【ありがと】
***
意味もなく交差点の電柱に寄りかかって、去っていく人たちを眺めた。
声を出して会話する人と、声を出さずに心を共有する人。昔ながらの交流、眺めていてホッとするのは前者だ。
でも、後者は間違いなく効率的だし、前者にはない大きな信頼があって……というか、根本的に信じる必要なんてないのかもしれない。対等を超えて、自分と相手がトートロジーな関係になる関係。今まで世界に存在しなかった最新の関係。
――最新、更新、ニューバージョン――
あーあ、私は何してるんだろう。考えるのが億劫になって、逃げるように真上を向く。橙色と紫色が混じり合った空間を、電線の黒色が二つに割いている。電話やテレビやインターネットが出た時も、みんなこんな風に空を見上げたんだろうなと思う。そして結論はこうなったに違いない。「空はこんなに大きくて自由なのに、どうしてくだらないことで悩んでるのか」と。
でも、同時に私はこうも思う。小中学生の頃、今から思えばしょうもないことで悩んで泣いたこともあった。でも、当時はそれが本当に重要だったし、結果として自分にとって意義あることだったんだと。
つまり……私は、まだ子供なのかな。だとしたら、大人ってなんだろう。全てを受け入れて、過去にしていくことが大人になる条件なら、私は一体、何のために生きているんだろう。
***
≪二〇四〇年四月二十三日 ○○高等学校 職員室≫
「教頭先生、例の機械……デウス・ワンについてなんですが」
「チャネル0の件ですか?」
「そうです! あの話、学校中に出回ってますよ。問題になりませんか?」
「いえ、むしろ保護者の方から凄く評判がいいんですよ」
「はあ?」
「さっきも一組の親の方から電話が来てましてね、学校に行きたくないって泣いてた息子がはつらつになって本当に感謝してます、って」
「でもあれ、正式な機能じゃないんでしょ?」
「確かに正式ではないみたいですけど、安全だと分かっている機能だから問題はないって、代表の方から説明を受けてます。別の実証研究に使う機能だったと」
「じゃあ、なんですか。大事にはしないし、ならないってことでいいんですね?」
「先週向こうと話したところ、むしろマスコミを入れて取材できないかって言われてるくらいで」
「ええ? いくらなんでもいきなりじゃ」
「残り一週間しかないですから。一組のみんなが仲良くなって、成績も上がって、保護者の方からも感謝されている。デウス・ワンのおかげですよ。取材を受ければ、こちらと向こうの顔が両方立ちます」
「確かに、一組には文句のつけようがないですが……取材はいつ?」
「明日の朝、二限目に少しだけ入れようと思ってます。授業の進行ペースも見ましたが、問題ないでしょう」
「校長先生は?」
「それでいいと仰ってます」
「そうですか……」
「心配ですか?」
「ええ、ちょっと。確かに一組の子たちの変わりようを見ていると、デウス・ワンを信じたくなる気持ちもあるんですが」
「時代は変わりゆくものですから、先生」
「そうなんですかね。私が古いだけかな」
「現に若い子たちが生き生きと輝いているんですから。研究者の方も万全を期すと約束してくださってますし、大人は見守るのが役目だと思いませんか?」
「……分かりました。信じてみます」
「そうしましょう。とはいえ、何かあればすぐに仰ってください」
「もちろんです……ん? ああ、ユリさんか。ごめん。すぐにプリントを持ってくるから」
***
≪二〇四〇年四月二十五日 ワイドショー≫
「……ここまで、高校の取材VTRを見ていただきましたが、タカヤマさん、あらためてデウス・ワンについてどう思われますか?」
「そうねえ、これ見るまでは正直、デウス・ワンなんかとんでもない機器だなと思っててね。ほら、世間では脳を乗っ取られるとまで騒がれたじゃない。だから、率直に言って怖かったんだけれども」
「ええ」
「でも、二年一組を見てさ、自分がホントに浅はかだったなと反省したよ。成績が上がったとかは正直まあいいんだけど、VTRにもあった通り、一組みんなが心の底から分かりあえて仲良くなって、あんなに明るくなったなんてね」
「確かに、すごく楽しそうにしてましたもんね」
「しかも一番良かったのは、いじめになりかけてた子たちがお互いの心を共有して、大親友になったってところ。普通さ、いじめって周りが押さえつけたり監視したりして無くすものよ。それが、お互いを理解することで自発的に無くしてしまった。もうこれ、世界平和ですよ」
「デウス・ワンのおかげで、本当に世界平和が達成できそうだと?」
「そうだよ、可能性というか現実として例が出てきたわけ。もちろん今後は半径とか対象とかをもっと調整できるようにしていくんだろうけど、これは凄いよ」
「なるほど。では、サトヤマさんはいかがでしたか?」
「……何というか、ホント、古い大人ってダメだなって」
「というのは?」
「新しい技術とか価値観が出てきたらさ、すぐ否定しちゃうじゃない。今回のデウス・ワンもそう。怖いからって拒否しちゃって、あやうく世の中がデウス・ワンを潰すところだったわけでしょ。世論に負けて開発やめちゃってたら、一組は仲良くなれなかったし、いじめだって問題になってたかもしれない。成績もすごいよね」
「授業内容の理解やその他の学習効果も急激に向上した、と発表されています」
「みんなの脳を集合知的に使えるから、当然成績もよくなるってことでしょ。誰でも天才になれるってわけだ。はぁ、ホント、自分のアップデートは大事だね。若い人の邪魔をしちゃいけない」
「一方で、一部からは個々人の思想の自由を侵害しかねないと指摘されているようですが、こちらについては?」
「そんなこと言ってたらいつまでも変わらないじゃない。しかも、デウス・ワンの装着は任意なわけで。強制的に身に付けろって言うんだったらともかく、選ぶ自由があるなら別にいいでしょ。この結果を見ても分からないような頭の固い老いぼれは着けなきゃいい」
「サトヤマさん、その発言は……」
「ああ申し訳ない、ついつい熱が入っちゃってね。今のはちょっと言い過ぎか、ハハッ」
***
≪二〇四〇年四月二十六日 ○○高等学校 二年一組≫
甘かった、と私は思う。
ずっとそのままでいてくれると思い込んでいた。これ以上は進歩しないと。これが限界だと。
生半可な私が関わり続けられると、思い込んでいた。
【幸せ【授業遅【早くして】すぎ】って【大好きな子が【金曜日【一組最高】の夜】【微分は】方程式】このま【【明日】昨日】ま】
【なんで【いや、漫画だ【不等式】と】ここ【試験結果】が【予後不良】【次の授【誰か取っといて】業って】分からない】
脳内に次々と、とんでもない速度で思考が流れ込んでくる。一個一個を捉えようとしても全く間に合わない。関心を持った次の瞬間には別の思考が入ってきて、同時にいくつもの思考が脳へ叩き込まれる。
周りを見回す。みんな固まった笑顔のまま、表情を一切動かさない。だってそうだ、もはや表情なんて必要ないんだ。チャネル0は自分自身全てを共有できる。文字も、言葉も、表情も、きっと肉体だって必要ない。
チャネル0に参加した人たちは、共有する情報の密度をどんどん上げていった。無駄なく、全てが共有されている前提で、最高の効率で情報の交換を行う。私のように一部の情報しか提供できないチャネル3では、0の速度と仕組みについていけない。きっと、無駄が多すぎるのだと思う。
黒板のチョーク音が耳に刺さる。先生の声が脳にキンキンと響く。ヤバい。このままじゃ、私が壊れる。
頭を抱えて目を瞑る。大丈夫、きっと何とかなる。実証実験もあと二日。あと二日で終わりなんだ。
……いや、それで済むわけない。こんなにも社会に認められてしまった以上、すぐにではなくても、数か月後にまた再開されるかもしれない。そうじゃなくても、大学生、社会人になったら、周りがこれをみんな着けるようになるかもしれない。私が認めない限り、この小さな機械が永遠に私の未来を押し潰し続ける。不安と恐怖に支配されて毎日を生きるのは嫌だ。
でも、一組のみんなは幸せに生きている。それを壊すのも違う。だって、一組は悪くない。誰も悪くない。だから、苦しい。今にも息が止まりそうなほどに。
【ユリ、大丈夫?】
目を開けると、小さな手が目の前をひらひらと泳いでいる。可愛らしい手の主をたどると、隣の席のカナが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
【どうしてカナは私と話せるの? 私、チャネル3で遅いのに】
【さすがに隣の席だからね。ユリが露骨に体調悪そうだったから、一旦チャネル3にしたんだよ。保健室行く?】
【いや、大丈夫。平気】
カナが小さく微笑むと、彼女の短い前髪が揺れた。一組に入ってすぐの頃は、カナの表情は今の私よりもずっと沈んでいたのを覚えている。話しかけても二、三の単語が返ってくるだけで、会話は全く続かなかった。それが今やこんな頼もしく思えるなんて、一組に入って本当に強くなったんだ。
ならきっと、カナなら――。
【じゃ、戻るね。ユリも早くチャネル0にした方がいいよ】
ふふ。そうだね、あはは。
…………。
上手く笑えただろうか。でも、気にする必要なんかない。私が精一杯の笑顔を作り終える前に、カナは前を向いてしまったから。今更悲しくもなかった。
ああ、速度が上がっていく。一組がアップデートされていく。全てが変わっていく、最新の幸せに対応したものへと。人と人を統合する夢の世界へと。
私も変わらなきゃいけないのかな。だって、周りはどんどん進歩していく。もしかすると、もう追いつけないのかもしれない。
でも、でも、納得いかない。どうして? 私が何をしたっていうの。ただ私は、自分を保って生きたいだけなのに。他人に自分をさらけ出さなきゃいけないことって、そんなに簡単なことなの?
理屈は分かる。相互理解があれば怖くない。一つになれば怖くない。幸せ。平和。分かる。分かるけど。
***
「えーっと……ユリさん、大丈夫? 随分と顔色が悪そうだけど」
今度は新任の数学教師が声をかけてくる。気が付けば、クラス中の顔がこちらを向いていた。みんな笑顔のはずなのに、その顔に、圧力を感じる。邪魔をするなと言わんばかりの力が。
ヒッ、と声が出た。やだ、違う。私は、ただ、悩んでいただけで。
「もし、具合が悪いのがデウス・ワンのせいなら、すぐに外した方がいい」
「それは、無理です」
「……なあ、みんな、ユリさんと繋がってるんでしょ? 本当に彼女は大丈夫なの?」
困った顔をして、先生は近くの席の子にそう尋ねた。余計なことをしないでほしい。けど、新任だからそう責めるのもかわいそうで。
「ユリはチャネル3なので、深くまでは分からないんです。デウス・ワンを怖がっているのは分かるんですけど」
数秒の間があって、先頭の子が答えた。久々に聞く声だった。
「あれ、そうだったのか。てっきり、みんなチャネル0なのかと……ユリさん、保健室に行かない?」
「い、いえ、大丈夫ですから」
「そんな真っ青な顔で言われたって困るよ。何かあったら先生の責任にもなるんだ、勘弁して」
保健室に戻ったら、みんなとの接続が切れる。そうなったら、今度こそ戻れない気がする。怖い。それはチャネル0と同じくらいに、怖い。
「…………」
「じゃあ、ユリさん、一瞬だけでいいから、チャネル0に参加してみない? そうしたら、みんなが理解できるでしょ?」
「嫌です」
「周りに何かされたの?」
「いえ」
「ならどうして」
「そんなの」
「え?」
「そんなの、個人の自由じゃないですか!」
我慢できなくなって――いや、耐えきれなくなって――気づけば、私は教室で一人、過去一番くらいの力で怒鳴っていた。先生に向かってではない。一組に対してでもない。これは自分に対する怒りだ。不甲斐ない自分自身に対する憎しみだ。
もともと静かだった教室が、一層無音に近づく。鼓膜がピリピリとして、吐き気がした。叫んだせいか、心に張っていた糸が弛んで、何も考えられなくなる。もうどうでもいい。いっそ、窓から飛び降りてやろうか。私が苦しいのは、苦しいのは……
「やっぱりか」
顔を上げる。先生が妙に納得していたような表情でウンウンと何度も頷いていた。そして、半ば興奮したような口ぶりで矢継ぎ早に言葉を繰り出してきた。
「そうだ、そうだよな! 最初からそんな気はしてたんだ! こんなうまくいくものか、って疑問だったんだけど、やっぱりそうじゃないか」
「……どういうことですか」
「チャネル0を選択するという行為が、半ば強制力を持ってしまうってこと。つまりは、チャネル0・ハラスメント。違う?」
「それは……」
「上手く適合できる人もいれば、できない人もいる。きっと多くの人は適合できるんだろうね。だけど、ユリさんや……その、チサトさんは、違ったわけだ」
いきなり説教が始まって、私は混乱した。チサトの方を見てみると、彼女も同じく顔に困惑を浮かべている。この流れは、彼女が求めているものでもないようだ。
でも、そのことに先生は気づかない。彼の中で、ピースがパチリとはまって気持ちがいいのだろう。先生は持論を続ける。
「これじゃ、本当の意味で幸せにならない。一部だけが幸せになって、残りが取り残されるんじゃ不公平だ。優性思想ってやつだね。まったく、子供をこんな思想で染め上げようとするなんて、酷い話だよ。そう思うでしょ?」
「先生」
「ユリさん、チサトさん。このままじゃだめだ。一緒に教頭先生へ直訴しに行こう。デウス・ワンを止めよう」
先生はチョークを置いて、私の方へと近づいてきた。少しずつ、一歩、また一歩と距離が詰まる。
「さあ、そんな機器は外そう。安心して、外したって大丈夫だ。それが必要なんだって無意識のうちに洗脳されているんだよ」
周りを見る。みんなの顔から、笑顔が消えていた。困惑。悲しみ。不満。後悔。疑念。一人一人の負の感情が、数日ぶりにそれぞれの顔に現れる。先生の言葉に反応したのだ。そして、それが示す意味を。
幸せな一組が崩壊する。たった二人のせいで、残り三十八人の楽園が壊されると。
「みんなは反省しなさい! 二人が参加していなかったことは知ってただろう? なぜ自分たちだけ幸せになろうとするんだ?」
やめて。
「みんなが平等に幸せになってこそ意味があるんだ! エリートにはそれが分かってない!」
それ以上言わないで。
「さあ行こう、ユリさん! それにチサトさんも! 一組を元に戻すんだ!」
そんなこと、私は望んでない。
だけど、先生は目の前に来た。純粋な正義の顔つき、真剣なまなざし。生徒のことを考え、不平等への義憤を露わにしている。正しさを信じるいい先生なのだ、きっと。
先生が救いの左手を差し出す。だから、私は右耳の上にあるデウス・ワンにゆっくりと手をかけて、息を吸って、思い切り、力を――
「――ふざけんなああああああああああああ!!」
瞬間、チサトが真後ろから走ってきて、先生の顔面に真っすぐ、全体重を乗せたこぶしの強烈な一撃を食らわせた。
先生は二メートルほど吹き飛んで、周りの机を巻き込みながら仰向けに倒れる。大きな音が立ったが、悲鳴は上がらなかった。チャネル0のおかげか、周りは極めて冷静だ。そもそも、自分たちの居場所を奪おうとした人間に与える慈悲なんてないのかもしれない。
拳を握って立つチサトを見る。彼女は肩を上下させるほどの荒々しい息遣いで、歯を食いしばりながら涙を流していた。
「ふざけんな! 不平等? 優性思想? 全部あんたの価値観でしょ! そんなものに私たちを押し込んで、勝手に英雄を気取らないで! 気持ち悪いんだよ!」
「なに、を……!」
先生は咳き込みながら立ち上がろうとする。その歪んだ顔には、さっきまでの優しさなんて一ミリも残ってなかった。あるのは、憎悪。自分の情けを踏みにじったクソガキに対する怒りだけだ。
「確かに私はデウス・ワンを装着しなかった。着けるのが嫌だったし、着けてるやつらが馬鹿だと思ってたから」
「だから、言ってるじゃないか! それを強要する社会が許せないと!」
「誰が強要したの? デウス・ワンは選択できたし、チャネルだって選べた」
「ユリさんのように、追い込まれた人はいる!」
「それでデウス・ワンを止めるわけ?」
「当たり前だろ! これは一部の人間だけを、幸せにする機器で――」
「だから三十八人を犠牲にするほど、私たちは弱くて情けないっていうの!? 常に負い目を感じさせられて、それこそ感謝を強要される立場がどれだけ惨めか分かってんの!?」
チサトが今度は蹴り飛ばそうとするので、私は慌ててチサトの腕を掴んで引っ張る。
「離して! こいつは何も分かってない!」
「もうやめてよ! どっちもおかしいよ!」
「違う! こいつは、私たちを弱者だって勝手に決めつけて、エゴで救った気になろうと――」
「そうだけど……そうだけど! 相手を倒したって、傷つけたって、何も解決しないでしょ!」
そこまで叫ぶと、チサトの体から力が徐々に抜けて、やがて暴れるのをやめた。彼女は地面にへたりこむ先生を睨みつけながら、乱暴に私の手を払いのける。
「チサト……」
「私たちは、私は、弱くなんか、ない」
チサトは息を切らしつつも、体の奥から言葉を一つ一つ力強く吐き出していく。彼女にとって、与えられた優しさや偽善は許せないものなのだと思う。たとえそれが辛くても、乗り越えていけるだけの強さを持って。彼女の表情、握りしめた拳。幸せを生き抜き、自分が自分でいられるために。
「あなたは、どう思ってるの」
凛とした顔に二本の筋を垂らしながら、チサトが私に向かって尋ねてきた。私はかぶりを振って答える。
「そんなの分からないよ。どっちも正しいし、どっちも間違ってる気がする」
「いくじなしッ」
チサトが吐き捨てるように言った。さらさら隠す気もない、明らかな侮蔑の眼差しが私に浴びせられる。
ああ、矛先が変わったな、と私は感じ取った。
「正しさなんて自分で決めるものよ。それすら持っていないから、こんな風に付け入られるんでしょ? そういうの、私からしてもホントに迷惑なの」
いろいろな感情を滲ませた声で、チサトが私を責め立てる。私は……何をする気も起きない。だって、事実を突きつけられている気がしたから。
「あなたみたいな人がいるから、世の中から自由がなくなる。あなたさえいなければ、私もみんなも幸せだった。馬鹿じゃなかったら、この状況を見て分かるでしょ?」
胸倉を掴まれて、グッとチサトに引き寄せられる。息遣い、鼻をすする音と、わずかな柔らかい香りがする。あらためて間近で見ると、チサトは整った顔立ちをしていた。笑顔さえあれば、自分の芯を持ったミステリアスな子として周りから好かれたことだろう。そして、少しだけ時代が違ったら、きっと、
「お願いだから、消えてよ。あなたは邪魔者なの、ユリさん」
チサトと、分かりあえたような気がした。
***
≪二〇四二年十二月一日 コマーシャル≫
(ある家のリビング。ソファに座る夫婦が、女の子の泣き声を聞いて振り返る)
(床には壊れた玩具と破片と落ちている。その横で泣いている女の子と、何やら怒っている男の子)
あなたなら、こんな時にどうしますか?
どちらが悪いことをしたのか、問い詰めて叱りますか?
あるいは、仲良くするようにとだけ伝えますか?
残念ながらこれらの方法では、子供たちに優しさを教えることはできません。押し付けでしかないからです。
しかし、これからは違います。
(夫婦は頷き合うと、棚から小さな機器を二つ取り出し、子供たちの左耳の上にそれぞれ装着する)
(すぐに女の子が泣き止み、男の子の表情は和らぐ。二人の耳の上の機器が、小さく青色の光を放っている)
人が、人と理解し合う時代へ。誰の押し付けもなく、友愛を実現する時代へ。
(女の子と男の子が微笑みながら、お互いに手を繋ぎ合う)
誰もが夢見た世界を、新たな平和を作るのは、私たち自身です。
(機器のアップ。キラキラと光るインジケータ)
すべての人の幸せのために――デウス・ワン。