序章 罪と共に、昏き朝へ
白く神聖な輝きに抱かれた、城とも呼べるような威容を誇る巨大な聖堂。
数多の祈りと大地を照らす光で満たされていたはずのその場は、今や崩れかけ、鈍く昏い光を微かに宿すのみ。
そんな倒壊しつつある聖堂の床を一人の女が惨めに這っていた。
所々が擦り切れ破れかけの聖衣を纏った、青く虚な顔立ちの女。
踠くようにして這う度に、女の身体を貫く幾つもの刃が床と擦れ耐え難い苦痛と絶望を刻み込んでいく。
徐々に傷口から流れ出ていく真紅の熱が床に
鮮やかな跡を残し、その長くない命を更に削り取る。
それでも尚、女は掠れた視界の先にある頽れた一つの遺骸へと這い続ける。
遺骸――それは女が犯してしまった拭うことの出来ない罪そのものであり、されど女が為せる唯一の敬愛と忠誠の形でもあった。
せめて死するというのならば自らが信じ、愛したものの傍で――その願いだけが女を突き動かす。
しかし、その願いが叶うことはない。
「――ねぇ、いい加減面倒だし、早く死んでくれない?」
そんな残酷な言葉が女の頭上から降り注ぐと同時、既に焦点の合わないぼやけた視界がひっくり返り――。
「ぁ――、かはッ……」
浮遊感を感じた数瞬の後に、痛みと衝撃が走ったことで自身が無造作に蹴り飛ばされ、地に叩きつけられたのだと理解する。
その衝撃から反射的に吐き出した息には赤の飛沫が混じり、白く美しい床に斑らの染みを産み出す。
女を軽々と蹴り飛ばしたのは優美な意匠が施された、蒼銀の鎧に身を包んだ細身の人物。
鎧を身に纏ってはいるが、体格と声の高さからそれを纏う中身の人物は女性であることが窺える。
鎧姿の女は嫌悪感を煮詰めたかのような黒い感情を乗せて言葉を紡ぐ。
「どんなにお綺麗なことを言ってても、結局やることは馬鹿共もアンタも一緒ってこと?ハッ、とんだお笑い草ね」
心底軽蔑したと、吐き捨てるようにして口にした鎧姿の女は鋼のヒールを踏み鳴らしながら、這い蹲る女の元へと詰め寄るとその鋭く硬質な鉄靴を頭上から無慈悲に落とす。
「――ぁ、がッ」
「動かないでよ。今からアンタを確実に殺さなきゃいけないんだから。■■■■、早くして」
無様に床に転がる女の頭を踏みしめたまま、顔だけで後ろを見るようにして鎧姿の女は背後でことの成り行きを眺めていた者達の中から一人の名を呼ぶ。
その呼び掛けに応じて一人の男が剣を片手に鎧姿の女の隣まで歩み寄る。
男も鎧姿ではあったが、隣に立つ女のそれと比べると意匠や色合いは大きく異なり、こちらの鎧は白みがかった金であった。
「そのまま押さえつけておけ。首を落とすのに抵抗されても面倒だ」
その手に握られた刃のように、冷めた鋭利な言葉――斬首を行うという宣言。
殺すと、そう宣言されたにも関わらず、這い蹲る女の中にあった感情は恐怖ではなく――もっと複雑なものが絡み合っていた。
後悔。
安堵。
悲哀。
愛憎。
避けられぬ程に死が近付き濁りつつある瞳にはそれらの感情が混ざり、澱んだ涙が女の頬を伝う。
血の混じった膿の如き涙が床を汚し、その汚れを――発露した女の感情を無意味なものだと嘲笑い、死を与えんと湧き立つのは鎧姿の幾人もの男女。
「その女を殺せ!」
「裏切り者めが」
「死によってその罪を贖え!」
死を願う声と噎せ返るような殺意の高まり、それらが最高潮に達し、白金鎧の男は正義の代行者として自らの手にある剣を掲げる。
剣の切先は崩れかけの聖堂の天井を指し、最早後はただ振り下ろされ床に転がる女の首筋へと辿り着くのを待つばかり。
昏く濁った瞳で眼前の光景を捉えた女はゆっくりと瞼を閉じてゆく――それはまるで己が命という舞台の幕を下ろすかのようにして。
白金鎧の男の手の内にある剣、その柄から切先へ凍てついた輝きが満たされ、断頭の時は無情にも訪れる。
「――裏切りの魔女、■■■■■■■。貴様を弑逆の大罪により処刑する」
厳かで、掲げた剣の輝きと同じ冷徹な声音が聖堂に響き――死を願う冷めた輝きは振り下ろされた。
凍えるような冷たさと、灼けつくような熱。
二つの感覚が女の首筋に疾り、滲み掠れた視界が数度回転する。
自らの身体だったもの、その頭を無くした首から止めどなく流れる血を他人事のように眺めながら、女の意識は明滅する黒に蝕まれ。
やがて完全な黒に塗り潰される。
「――また会おう」
完全な黒が訪れる直前に遠くから聞こえた何者かの声、その不可解な言葉の意味を理解することもなく女は静かに息絶えた。
あぁ――今やこの世界に神は既にいない。