人狼さんには常識が通じない 野生児から最強の存在に
前作とは関係ありません。
……………………
「君はこれから人間ではないものになる」
不思議な声が聞こえる。
「人間は君を拒絶するだろう。獣たちは君を恐れるだろう」
不思議な声が響く。
「それでも君の心が人間であるというのならば──」
僅かな笑い声が聞こえた。
「この勝負、君の勝ちだ」
……………………
……………………
彼が最初に感じたのは空腹であった。
「ああ?」
彼は起き上がって周囲を意渡す。
森の中だった。
木々が聳え立ち、その足元で短い草木が茂る。周囲からは鳥の鳴き声やリスの足音などの雑多な情報が一気に入り込んでくる。虫の羽音から鹿などの草食動物が草を食む音まで、あまりにも多くの情報が入り込んできた。
「うるせえっ!」
彼がそう一喝すると鳥たちは飛び去って逃げ去り、リスたちも逃げ去った。周囲に一瞬ではあるが完璧な静寂が訪れる。
「どうでもいいけど腹減ったな」
彼は空腹の胃袋を抱えたまま歩く。
そこで彼は小川を見つけた。
澄んだ清流で、彼の耳には魚の泳ぐ音まで聞こえてくる。
「ちと腹を満たすか」
彼は小川まで近づくと、小川をじっと覗き込み、熊が鮭がやるように素手で小川を泳いでいた魚を仕留めた。ビチビチと陸で魚が跳ねる。彼は2、3回同じように魚を仕留めると、捕らえた魚にそのまま食らいついた。
焼きもせず、そのまま生で魚の骨ごと噛み砕く。
一瞬で1匹が消え、2匹目が消え、3匹目が消える。
「食った、食った」
彼は腹が満ちたところで思い出した。
ここはどこだ?
この森に来た記憶がない。ここまで進んできた記憶がない。それどころか、先ほど目覚めるまでの全ての記憶がない。自分の記憶は真っ新だ。
いや、覚えていることもあった。
不思議な声の記憶。
『君はこれから人間ではないものになる』
あれは何を意味していたのだろう。そもそも人間って何だ?
彼は考えたが、よく分からなかった。
彼は小川を覗き込んだ。
血のように赤い赤毛とアメジストのような紫色の瞳。その肌の色は褐色で、健康的な成人男性というべき姿をしている。健康的というよりも鍛え抜かれた成人男性と言った方がいいのかもしれない。筋肉は引き締まっており、身長は2メートル近くある。
「分かんねえな。人間ってどんな格好してるんだ? 俺とは違うっていうわけだから、どんな見た目してるんだ? 手足が多かったり、さっきの生き物みたいに水の中で生きていたりすんのかね。分かんねえな」
彼はそう呟きながら、森の中を見渡す。
何か記憶を思い出す手がかりはないか。
「アベル……」
そこでふと彼は思い出した。
「俺の名前はアベルだ。世界で最初の……何か」
アベルはそこで考えても無意味だということを悟った。
全く覚えていないものを思い出そうとするなど時間の無駄だ。
それよりもこの世界を探索しよう。そして“人間”という生き物を探してみよう。
そう考えて彼は森の中を進む。
目に見えるもの全てが目新しいようで、懐かしい。聳える木々も、生い茂る草花も、飛び交う鳥や虫も初めて見るようで、見たような記憶がある。なんとなく、その名前が分かるような気がして、分からない。
「まずっ」
彼は適当に虫を掴んで口に運んだが、先ほどの魚と比べると土臭くて不味かった。
「これは食い物じゃねーな」
それから彼は様々なものを食べてみた。
草花。
食った気がしない。
鳥。
骨は多いがそれなりに美味い。
鹿。
これは美味い。内臓から何までたっぷり食える。
羆。
これも美味い。肉に確かな旨味がある。
木。
これは食い物じゃない。
魚。
美味い。文句なし。
これまでの野生動物を彼は全て素手で捕まえてきた。羆においても武器は何も使用せずに素手でぶちのめし、その毛皮ごと牙を突き立てて貪った。鳥は走って捕らえ、鹿も走って捕らえ、その狼のように鋭い爪で喉を引き裂き、首元を食いちぎり、獲物を仕留めてきた。そして、その頑丈で伸縮性のある皮を裂き、内臓ごと食らった。
これは人間なのか? と言われれば多くの人間が疑問に感じるだろう。
人が素手で羆を倒し、まして食いちぎることなど不可能だ。羆を、それも成長した獰猛な羆を素手で仕留めるなど。そして、人間の手では引き裂くことはできないと言われる動物の皮を引き裂いて、肉を食らうなど。
それはまるで狼のような──。
「人間ってどんな奴なんだろうな。もう食っちまったのかな」
アベルはいい加減なことを言いながら、森の中を進む。
「そろそろ水辺で水浴びでもしておくか」
アベルは自分の臭いで獲物が逃げることは分かっていた。経験則的にだが、身ぎれいにしておく方が、獲物を不意打ちでき、逃がさないことを学習していた。だから、彼は暇があれば水辺で水浴びをしていた。
その代わり、彼は真っ裸である。
これまで彼は服を着る必要性を感じなかった。雨が降ろうと、風が吹こうと寒暖の差というものは感じないし、彼には秘所を隠さなければならないという必要性も感じなかった。彼は知恵の実を食べ損ねたアダムとイブのようなもので、羞恥心などなかった。
「いやっほー!」
アベルは真っ裸のまま、水辺に飛び込む。
「おやおや。随分とむさ苦しい人間が水浴びに来たものだな」
不意に頭から水を被っていたアベルに声がかけられた。
他人の声を聞くのはここで目覚めてからはじめてのことだ。
「誰だ? 人間か?」
アベルは声の主を探し、視線を走らせる。
「ここじゃよ、ここ」
声の主は木だった。
正確に言えばエントである。木々の姿をした精霊。それがアベルに声をかけてきた。老人のようにしわがれた声で、巨大な、巨大な、とても巨大が木が声を発していた。
「貴様、人間か?」
「儂が人間かだと? 随分とおかしなことを聞く狼だな。儂は人間ではないよ。エントだ。世界で最古のエントになるかの」
「なんだ、人間じゃないのか」
エントの言葉にアベルがため息をつく。
「狼よ。人間を探しているのか?」
「ああ。人間って奴を知りたい。どんな見た目をしていて、どんな感じの生き物なのか。それ以外に今の俺に目的はない」
エントの言葉にアベルはそう告げて返す。
「狼よ。それは簡単だ。見た目はお前のようだ。少なくとも“今の”見た目はな」
「ん。だが、俺は人間とは違うって言われたぞ」
「そうじゃろう。似ているのは被っている皮だけ。中身は別物だ」
「なんだ、そりゃ」
エントが告げるのにアベルは首を傾げた。
「狼よ。気づいておらぬのか。そなたは強い。とても強い。強者だ」
「ああ。俺は強いぜ。森の中で俺に勝てる奴はいない」
あれからアベルは羆の他に様々な猛獣と戦った。
だが、その中の1体としてアベルに傷を負わせることすら叶わなかった。
マンティコアだろうと、アークグリフォンだろうとアベルを前にはただの肉塊に過ぎなかった。ちょっと勢いをつけて殴れば死んでしまう情けない生き物たちだった。それほどまでにアベルは強力であった。
「だが、人間は弱い。そなたのようには強くない」
「なんだ。人間っていうのは弱いのか。俺は人間に生まれなくてよかったな」
「そうとも限らんぞ。人間には知恵がある。その知恵で文明を築き、文化的な生活を送っている。そなたも一度その暮らしを体感したら野生には戻れまい」
エントはそう告げてからからと景気よく笑う。
「ちっ。つまんねーこと言いやがって。ぶんめーとかぶんかてきとか意味不明なんだよ。だが、貴様は俺よりものを知ってそうだな。いろいろと教えろ。そうすれば根っこごと引っこ抜くのは勘弁してやってもいいぞ」
「ほほっ! この数千年、他の生き物に脅されたのは初めてじゃ」
アベルが告げるのにエントが愉快そうに返す。
「教えてやろう。何が知りたい?」
アベルは尋ねた。
これまで遭遇した生き物や草花のこと。エントはそれひとつひとつの名前を教えてやり、どのような場所に生息しているかも教えてやった。
「だが、アベル。覚えておくのじゃ」
「何をだ?」
不意にエントが告げるのに、アベルが首を傾げた。
「弱い者苛めをしてはならぬぞ。強者は弱者を守ってやるべきじゃ。無論、世の中は“適者生存”という冷徹な原理が働ていておる。そなたが弱者を食らうのは間違いではないし、他のものがそうすることも間違いではない」
「なら、何から強者は弱者を守るんだ? 弱い奴は食われて当然なんだろ?」
アベルにはエントの言わんとすることが分からなかった。
「アベル。人間の社会には多くの不条理がある。自然の生き物たちと違って知恵というものを有してしまった彼らには歪んだ欲望を持つ者がいる。そのような危険な者たちから、自分を守ることのできぬ弱者を守ってやること。それが人間の心というものだ」
アベルはそこで思い出した。
『それでも君の心が人間であるというのならば──』
『この勝負、君の勝ちだ』
あの声は告げていた。人間の心を持っていれば勝利であると。
アベルは負けるということが嫌いだった。どんな勝負にも、どんな相手にも勝ちたい。だから敗北は認められなかった。
「わーったよ。弱い者苛めはしない。だけど、弱い獲物は食うぞ」
「それは自然の理。否定するものでもない。だが、人間の心を忘れるな、アベル。人間の心を忘れ、そなたの心が黒く染まればそれは世界にとっての災厄となるじゃろう」
アベルが退屈そうに告げるのに、エントが真剣にそう告げた。
「はんっ。訳の分からないことばっかりいうおいぼれだな。ところで、人間ってのはどこら辺にいるんだ? 人間を守ってやるなら人間に会わねーといけねーだろ?」
「簡単だ。山を下りればいい。思い浮かばなかったのかの?」
「食うものが手に入ってればそれでよかったからな」
アベルはそう告げて水辺から上げる。
「こらこら。その恰好で人間に会うつもりか?」
「んだよ。悪いのか?」
「人間は服を着る。それが彼らの文化だ。そんな恰好で現れたら、相手を驚かしてしまうだけだぞ。これを着るがいいだろう」
エントが告げるのにふよふよと1枚の白い貫頭衣がアベルの下まで飛んできた。
「なんだ、これ?」
「それが服だ。人間たちは服を着る。そなたも着ていくといい」
アベルはエントが言うのに渋々と衣服を身に着け、腰の紐を締めた。
「これで文句なしだな。んじゃ、人間に会ってくる」
「その前に儂からもうひとつ贈り物授けよう。名だ」
アベルの耳がピンと動く。
「俺の名はアベルだ。それ以外の何者でもない」
「それな名であろう。儂はそなたに姓を授ける」
「姓? なんだよ、それ?」
「名前のひとつだ。人間たちの多くは持っている。持っていて不都合はない」
アベルにいは姓名の区別もつかない。そのような必要はなかったからだ。
「アルリムの姓を授けよう。そなたはこれからアベル・アルリムだ」
エントはそう告げると黙り込んだ。
「行くがいい、狼。だが、決して人の心を忘れるでないぞ」
「言われずとも、だ」
そして、アベルは森を去った。
彼は人間がいるという山の麓を目指して、突き進んでいった。
「あれが世界で最初の人狼か。怪物となるか、あるいは……」
エントは去っていくアベルの背中を見つめてそう呟いた。
……………………
……………………
「人間、どこにいんだよ」
アベルは山の麓を目指しながらそう呟いた。
麓を目指して進めど、進めど人間の姿は見えてこない。
あのエントに騙されたんじゃないだろうかとアベルが思っていたときだ。
遠くで金属音が響いた。
それと同時に悲鳴も聞こえる。
「人間か? 人間だな!」
アベルは金属音のする方向に向けて駆けた。
狼のように。整備もされていない山の中を素足で転ぶこともなく、木々や岩石を躱しながら、ひたすらに悲鳴と怒号、そして金属音が響く場所を目指す。
そして、彼はようやく見つけた。
「人間だ!」
彼が初めてみた人間は武装していた。
プレートアーマーを纏った少女がひとり。頬から血を流し、息を切らせている。その明るいサンディブロンドの髪は兜に覆われているが、艶やかであることが分かる。そして、その瞳は偶然にもアベルと同じ紫色だった。
そして、その脇には矢を受けて倒れ込んだ男が2名と腕を斬られた男がひとり、
そんな負傷した彼らを取り囲んでいるのは揃いの装備を身に着けた武装した男たちの一団であった。数は40名前後だろうか。
「おい! 貴様ら、人間か!?」
アベルが臓腑に響くような大声で叫ぶのに、その場にいた全員が怯んだ。
「てめー! ビビらせやがって! 俺たちが人間以外の何に見えるんだよ!」
「そうだよ、この間抜け!」
アベルが罵詈雑言が飛んでくるのちょっとカチンとした。
「ところで、弱いのはどっちだ? これは弱い者苛めって奴か?」
アベルは苛々しながらもそう尋ねる。
「ははっ! これは教育だよ、教育! 育ちのいいお嬢さんに世界の厳しさを学習させてやろうってわけさ。もちろん、お代はいただくがね。世の中ただでどうこうしてくれる人間なんていやしないのさ」
「痴れ者が! 傭兵崩れの野盗たちが何を語るか!」
武装した男たちのひとりが告げるのに、少女がそう告げ返した。
「よく分からねえけど、貴様らからは嫌な臭いがする。死体の腐った臭いだ。それに俺のことを馬鹿にした。だから、叩きのめす」
アベルがそう告げた次の瞬間、アベルの姿は消えていた。
「なっ! 野郎、どこに──」
ゴキリという音が響き、傭兵崩れの野盗の一員だった男の首がへし折れる。
「まずひとり」
アベルは姿を見せたかと思った次の瞬間にはまた消えた。
「うがっ!」
「ひぎっ!」
野盗たちは狩る側から狩られる側に回った。
アベルの拳が腹部に叩き込まれれば内臓が全て破裂して口から血を吐いて吹き飛び、アベルが頭を殴るのならばその衝撃で脳みそがミキサーにかけられたかのようにシェイクされる。アベルが胸に回し蹴りを入れるならば、肺がすべて潰れて呼吸できずに死ぬ。
「た、たったひとりだぞ! 俺たちは天下の傭兵団だぞ! それがこんな──」
野盗の首魁と思しき人物が完全なパニックに陥るのに、アベルの拳が唸った。
頬に一撃。
首魁の歯が数本吹き飛び、顎の骨は再生不可能なほどに粉々に砕け、そこから生じた衝撃が首の骨をぐるりと180度回転させる。
そして、吹き飛ばされた野盗の首魁は木々にぶつかって、そのまま息絶えた。
「まだやるか。これ以上は弱い者苛めになりそうなんだけどな」
「こ、降伏じまず! 命だけはおだずけをー!」
生き残った3名の野盗は地に頭をこすりつけて土下座した。
「よし。いいだろう」
アベルはこれからこの男たちがどういう目に遭うのかは知らんかったが、少なくとも戦意を完全に喪失した彼らを叩きのめすのは弱い者苛めであり、人間の心ではないと認識していた。アベルはそういう男だった。
「助かった、見知らぬお方! 危うく我々の側がやられてしまうところであった!」
気づくと先ほどの鎧姿の少女がアベルに頭を下げていた。
「気にすんなよ。貴様、弱っちいだろ。強者は弱者を助けてやる必要があるんだ」
人の心を持ち続けるために。
「貴様! このお方を誰がと心得るか! かのアルデンヌ辺境伯家の三女アリス・フォン・アデンヌ様であろうぞ!」
「貴様はさっさと怪我を治せよ。傷に響くぞ?」
剣で腕を斬られていた男が叫ぶのにアベルは適当にそう返した。
「気にしないでくれ。私はあなたに救われた。あなたは私の命の恩人だ。是非、礼をさせてもらいたい。ついて来てはくれないだろうか?」
「いいぞ。貴様、弱っちそうだからまた誰かに絡まれそうだしな。後、こいつら抱えていかないといけないだろ。手を貸してやるよ。これも弱きを助けるってことだよな」
そう告げアベルは矢で射られて上手く動けない男2名を軽々と持ち上げた。
「助かる。本当に助かる。では、冒険者ギルドにいこう。馬車を待たせてあるからあっという間だ。そこでなら傷の治療も行える。貴殿は怪我はしていないのか?」
「怪我なんて生まれから一度もしたこことない」
「それはよかった。では、ついて来てくれ」
少女はそう告げかけて、振り返った。
「そういえば恩人であるあなたに名を告げていなかったな。私はアリス・フォン・アルデンヌ。どうかよろしく頼む。そちらの名は?」
「アベル・アルリムだ。弱っちそうなの。んじゃ、行こうぜ」
こうしてアベルは無事、人間とコンタクトできたのだった。
……………………
……………………
馬車で進むこと12時間あまりの場所にその街はあった。
交易都市エルムトベルク。
歴史ある古都であり、かつては黄金で満ちた土地と言われていた。
だが、交易とは生き物であり、そのルートは日々変わっていく。
主流な交易路から外れたエルムトベルクは決して豊かな街とは言えない。だが、人々は活気を失ったわけではなかった。
「へえ。人間だらけだ」
アベルは初めて見る光景にきょろきょろと視線を走らせていた。
様々な臭いも漂ってくる。人間の汗の臭い。肉を何かのタレで焼いている臭い。金属の焼ける臭い。何かのハーブのような臭い。あまりに多くの臭いがあって、アベルはどれが何なのかを判別することは難しかった。
アベルが新しく覚えた臭いは弱っちいの──アリスの臭いだ。アリスがここから逃げたとしても、仮に30キロ以上逃げようと、アベルは臭いで彼女を追うことが出来る。
他にも矢で射られた間抜け2名の臭いと腕を斬られてアベルに怒鳴った男の臭いも覚えた。ついでに、降伏した3名の野盗の臭いも覚えておいた。逃げられるかもしれないからだ。だが、アベルとの戦いで完全に戦意を喪失し彼らに戦う意志はない。
「あそこが冒険者ギルドだ」
そう告げて弱っちいの改めアリスが建物を指さす。
立派な石造りの建物だ。恐らくは4階建てで、この街でも有名かつ歴史ある建物である。だが、アベルに建物の良し悪しが分かるはずもなく、洞窟よりは暮らしやすいのかもしれないなという感想を抱いただけだった。
「ところで、貴様らはあの森で何やってんたんだ?」
「私たちは街の周辺に出没した野盗の討伐を依頼されていたのだ。だが、相手が傭兵崩れだったとは思わず……。相手は装備も戦闘の技術もこちらを完全に上回っていた。私が負けるのも当然だったのだろう」
アリスはそう告げて、負傷者たちを見る。
「この者たちは命がけで私を守ってくれた。そして、貴殿も私のことを救ってくれた。貴殿は命の恩人だな」
「恩人ってなんだ?」
アベルの問いにアリスが固まった。
「恩人というのは、その助けられたりしたものが、相手のことをそう呼というものだ。私はアベル殿に命を救われた。だから、アベル殿は私の恩人だ!」
「へえ」
アベルはエントの言うとおりに弱い者苛めをしている連中から、弱い連中を救った。だが、それで恩人になるとは思ってもみなかった。彼には恩人という概念が欠片も存在しなかったのであるから当然だ。
「冒険者ギルドの医者に3人を見てもらい、私たちはその間食事をしよう。本来ならば私の家に招いて、客人としてもてなすべきなのだが、申し訳ない」
「別に何かしてほしくて助けてわけじゃない」
アベルはエントから弱者を守れと言われたので守っているだけだ。
彼は見返りなど求めないし、恩を感じられることも望んでいない。
ただ、人の心というもののために従っているだけだ。
「貴殿は吟遊詩人に歌われる騎士や聖人のような人なのだな。だが、恩人に恩を返さなければアルデンヌ家の名が廃る。ここは私に奢らせてくれ」
「そこまでいうなら、付き合うか」
それからアリスたちは生け捕りにした野盗を引き渡し、事情を説明した。
「は? というと、40名近くのフル武装の男たちが鎧すら身に着けていない男に葬り去られたと? ははは、アリス殿、ご冗談はほどほどになされてください」
「本当だ! 我々だけで武装した傭兵崩れの野郎40名を相手に、生き延びて帰ってくることが出来ると思うのか? それもその配下まで生け捕りにして」
「そういわれますと……」
ギルドの職員は困った表情を浮かべた。
「まあ、何はともあれ依頼は達成ですね。これが今回の報奨金になります」
「うむ」
アリスは報奨金をもらうとアベルの下に戻った。
「それ、何だ?」
「依頼の達成報酬だ。20万ドゥカートはあるぞ。好きなものを食べてくれ、アベル殿」
報酬? ドゥカート? 意味は分からないがそれがあると食い物が食えるらしい。
「もっといい店に行くか? ギルドの食堂も美味いのだが」
「ここでいい。どうせ、飯なんてどこで食っても変わらねえよ」
アベルは気づいていなかった。
アベルはこれまで野生動物を生で食ってきた。焼きもせず、調味料も使用せず、そのまま肉を食らってきた。
その彼が人間の料理に触れればどうなるのか。
「ハンバーグ定食とステーキ定食となります」
やがて、ギルドに併設された食堂兼酒場で、アベルたちの頼んだ料理が運ばれてきた。アベルが頼んだのはハンバーグ定食だ。
アベルは熱い鉄板の上に置かれた、肉の臭いはするが見た目が普段の肉とはまるで異なるものを訝し気にじっと見つめていた。
「食べぬのか、アベル殿?」
「いや。食うぞ」
アベルはハンバーグを素手で掴むと口に運んだ。
「んんっ!? な、何だこれ!? 肉なのに筋がなくて柔らかいぞ!? これはどういう動物のどういう場所の肉なんだ!?」
アベルはがつがつとハンバーグを素手で食べながらそう尋ねた。
「そ、それは豚の肉だ、アベル殿」
「豚? 豚ってのはこんなに柔らかい肉なのか……。これじゃ、どうやって動いているのか分からないな。こんなに筋肉のない肉でどうやって生活してるんだ?」
「い、いや。アベル殿、それは正確には牛と豚の合いびき肉だ。アベル殿は挽肉という言葉はご存じだろうか?」
「挽肉? 知らねーな」
アベルが瞬く間にハンバーグを食い終えるのに、アリスが怪訝そうにそう尋ねる。
「挽肉とは肉を牛や豚、鳥の肉を細かくしたものだ。当初は屑肉を処理するために利用していたそうだが、今では脂身などを含む部分も合わせている。機械で細かく潰しているからこそ、柔らかないのだ」
「なるほど。これを考えた奴は天才だな!」
アベルはよく分かっていなかったが、ハンバーグが美味いということはきちんと脳内に記録された。こう見えて存外、記憶力はいい男であり、これまで嗅いできた獲物に臭いや、エントから教えてもらった獲物の場所などは覚えている。
「けど、人間はこれっぽっちしか食わないのか?」
「うむ。まあ、それが一人前だ。だが、アベル殿がまだ空腹だというのならば、追加で頼んでも構わないぞ。それだけの報酬は得ている」
アベルは鹿を1頭丸々食らったり、羆を丸々と1頭食らったり、アークグリフォンを丸々と1頭食らったりする。普通の人間向けの食事で彼が満足するはずがない。
「でも、もう恩は返してもらった。これ以上は貴様からものは貰えない。また食べたくなったら、自分で狩るだけだ。けど、エントの野郎も牛や豚の居場所は言わなかったな」
「アベル殿はエントと話したのか!?」
「そんなに驚くことかよ。退屈な奴だったぞ」
エントの伝説はこの付近では聞かれている。
森で遭難したものを麓まで導いたり、危険な魔物の存在を教えたり、あるものには魔術の知識を与えたとも言われている。
「アベル殿はいったいどれほどあの森にいたのだ?」
「あ? そうだな太陽が31回沈むまではあの森にいた」
「31日……」
普通の人間ならば魔物すら出没する森に着の身着のままで31日も過ごすことはできない。そんなことができるのは高度に訓練された軍人くらいのものである。その軍人たちですら、人を襲う魔物や羆には命の危機を覚えるだろう。
「人間ってのも確かめられたし、満足した。俺は森に戻る。ここには獲物がない」
「ま、待たれよ、アベル殿! アベル殿の力を活かすつもりはないだろうか?」
「はあ?」
アリスが呼び止めるのにアベルが彼女を睨む。
「冒険者として活躍されれば、金は手に入る。いくらでもハンバーグが食べられるぞ。他にも美味い料理はいろいろとある。アベル殿が冒険者になってくれれば、我々としてはとても心強いのだ。最近は西方の戦争が膠着状態に入ったせいで、アベル殿が討伐された傭兵崩れの野盗たちが多いのでな……」
「ふうむ。それは弱い奴を苛めることにはならないんだな?」
弱いものを苛める奴は人間の心がない。それではいけない。
「ならないとも。むしろ、弱く者たちを助けることになる。この付近を移動する行商人たちや街に野菜を売りに来る農家のものたちは感謝するだろう」
弱っちい連中が感謝する。それは弱い連中を助けているということだ。
「いいぞ。やってやる。弱い者苛めしてる連中をぶんなぐればいいんだよな?」
「その通りだ! アベル殿が冒険者になってくれるならば心強い!」
アベルはそうしてアリスがそこまで喜んでいるのか分からなかった。
きっと、こいつらが弱っちくて、苛めてくる連中が倒せないからだろうと思った。
「なんだあ? まだお嬢様は冒険者ごっこうやってるのか?」
そこで不意に男の声が響いた。
「これはヴェンツェル殿。冒険者ごっこというのはやめていただきたい。私は立派に冒険者としての責務を果たしているつもりだ」
「へえ。そうかい。あんたのお仲間、全員病室で横になっていたが、今度は何にやられたんだ? ゴブリン? それともイノシシか?」
ヴェンツェルというのは普通の人間より小柄な種族──ドワーフだった。
髭面のむさ苦しい男で、アベルとは別ベクトルで夏には傍にいてほしくはない。
「私と仲間たちのことを侮辱するおつもりか! 彼らは傭兵崩れの野盗と堂々と戦って負傷したのだ! そもそもこのギルドきっての実力者であるヴェンツェル殿のパーティーが依頼を受けてくださらぬから……!」
「おいおい。冒険者は慈善事業じゃないんだぜ? 儲からない仕事は受けないもんだ」
アベルはアリスとヴェンツェルのやり取りを聞いていたが、ヴェンツェルの方には何か“嫌な感じ”を覚えた。アベルが仕留めた羆を横から掻っ攫おうとするグリフォンに似た感じの奴だと。自分は何もしないで餌だけにありつこうとする野郎だと。
「貴様、強いのか?」
「ああん? 誰だ、そこの兄ちゃん?」
アベルがヴェンツェルに問いかけるのにヴェンツェルが眉を八の字に歪める。
「俺はアベル・アルリム、で、強いのかって聞いてるんだよ。このアリスって奴は弱っちい。それを強い奴がどうのこうの言って苛めてたらダメだろう?」
「プッ! ハハハッ! とうとう親父殿に心配されて護衛でも雇ってもらったのか?」
アベルがアリスを押しのけて前に出て、尋ねるのにヴェンツェルが大笑いする。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
「聞いてるのか。強いのか、弱いのか。言え」
アベルはヴェンツェルの襟首を掴み、彼の纏っている鎧やハルバードを合わせれば100キロ近い重量を片手で軽々と持ち上げて、ヴェンツェルを自分の視線まで引き上げた。その突然の行為にヴェンツェルもアリスも呆然としている。
「つ、強いに決まってるだろ! 俺を誰だと思ってる! このギルドで名高い英雄“鉄腕のヴェンツェル”とはこの俺様のことだぞ!」
「そいつはよかった。なら、貴様をぶんなぐっても弱い者苛めにはならないな」
そう告げてアベルはヴェンツェルを床に叩きつけるように解放する。
「“お椀のヴェンツェル”とやら。俺と勝負しろ。叩きのめしてやる」
「“鉄腕のヴェンツェル”だ! 舐めるなよ、小僧! 貴様ごとき、この俺が斬り殺してやる! 決闘だ! 表に出ろ!」
ヴェンツェルが宣言するのにギルドの人間たちが歓声を上げた。
「アリス。決闘ってなんだ?」
「け、決闘とは互いの名誉のために命を懸けて行われる勝負だ。今からでも遅くはない。辞退しよう。元はと言えば私が巻き込んでしまったようなもの。アベル殿には……」
「分かった。じゃあ、殺してもいいんだな?」
その時アリスは見た。
アベルの瞳が狼のような鋭い光を宿しているのを。
「あ、ああ。決闘であるからな。だが……」
「行ってくる」
アリスが告げるのにアベルは表に出ていった。
「ま、待ってくれ、アベル殿! アベル殿!」
そして、アリスもアベルの後を追って表に出たのだった。
……………………
……………………
「ここに決闘を始める!」
そう宣言するのは中立な立場とされた冒険者のひとりだった。
「ヴェンツェル・ヴュスト対アベル・アルリム。両者、前へ」
冒険者がそう告げるのにヴェンツェルがハルバードを構えて前に出て、アベルが何も持たずに、何も構えずに前に出る。
「アベル・アルリム。君の武器はどうした?」
「あ? んなものいらねえよ」
審判を務める冒険者が尋ねるのにアベルはそう告げて返した。
「大した度胸だな!」
「これじゃ賭けにならねえぞ!」
アベルたちを取り囲む冒険者たちはやいのやいのと声を上げる。
「クソ野郎。てめえを切り刻んで豚の餌にしてやる」
「んだと? なら、その頭を胴体からねじ切ってやる」
ヴェンツェルが唸るのに、アベルが唸り返した。
「アベル殿……」
その様子をアリスは不安そうに見ていた
以前の傭兵たちは武装していたとは言えど、アベルの不意打ちで壊滅していた。それに戦闘技術もヴェンツェルに比べれば劣っている。ヴェンツェルはこのエルムトベルクの冒険者ギルドで最強と謳われるプラチナ級冒険者なのだ。
そうであるがためにその最強の男に正面から素手で挑むアベルには不安を覚えた。
「両者、いざ尋常に勝負!」
そして、審判が声を上げた直後である。
ヴェンツェルが血飛沫を撒き散らして吹き飛んだ。
見ていたものには何が起きたのか、まるで分からない。ただ、ヴェンツェルたちを取り囲んでいた冒険者たちの中に血塗れのヴェンツェルが飛び込んできたのに、冒険者たちが悲鳴を上げているだけである。
勝負開始の合図の直後、アベルはまずは右手でヴェンツェルのグレータードラゴンの鱗で出来たスケイルアーマーを貫いて腹部に拳を叩き込み、秘蔵、肝臓、腎臓、その他もろもろの臓器を破裂させた。それから左手でヴェンツェルの顎に拳を叩き込み、前歯を叩き折ったと同時に、顎を完全に粉砕し、そのままヴェンツェルを吹き飛ばした。
この間、僅かに0.001秒。人々の目にはヴェンツェルが突然血塗れになって吹き飛んだようにしか見えなかっただろう。
「い、医者か僧侶を呼べ!」
「いや。もうこれは葬儀屋を呼んだ方がよくないか……」
ヴェンツェルの仲間が叫ぶのに他の冒険者がドン引きしながらそう告げた。
「なんだ。クソよえーじゃねーか。強いとか抜かしてやがった癖に」
アベルの方は呆れたという表情をして血塗れのヴェンツェルを見ていた。
「ア、アベル殿? 何をされたのですか? 妖術?」
「殴った」
アリスが尋ねるのにアベルは単純にそう答える。
「そ、そうですか。ですが、アベル殿。これで冒険者に失望されないでください。冒険者の中にもごろつきはいますが、多くのものは弱きもののためにならんとする誇り高きものたちなのです。ですから、どうぞアベル殿も冒険者に」
「それは言っただろう。やるって。で、どうすれば始められるんだ?」
「アベル殿!」
アリスはぱあっと笑顔を浮かべると、アベルを冒険者ギルドの受付へと連れて行ったのだった。そこでステータス測定を行った際、アベルのステータスがカンストを起こし、ギルドカード作成用の機材が壊れたのはまた別のお話。
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「アルデンヌ辺境伯閣下」
エルムトベルクの郊外にあるこの地を収めるアルデンヌ辺境伯家の屋敷。
その当主であるデニス・フォン・アルデンヌの執務室の扉がノックされた。
「入れ」
中央に報告するための書類を作成したデニスは書類を畳むと、そう告げた。
「失礼します」
そう告げて入ってきたのはこの家の執事であった。
「街道の野盗の件が解決しましたことをご報告させていただきます」
「ああ。アリスが張り切っていたな。4、5人のごろつきどもの仕業だったのだろう?」
執事が告げるのにデニスが肩をすくめてそう告げる。
「いいえ、閣下。野盗は傭兵崩れの武装した男たちが42名です」
「何だと?」
デニスは聞き間違いかと思って執事を見るが執事は繰り返さない。
「アリスは死んだのか」
「いいえ。アリスお嬢様はお元気そのものです」
「では、まさかアリスが武装した傭兵崩れ42名を退治したというのか?」
僅かに悲しみの色を見せたデニスに執事が返す。
「援軍があったとのことです」
「そうか。その者たちへの謝礼は弾んでやらねばな」
「閣下。僭越ながら複数形ではございません。援軍はひとりです」
「ひとり?」
執事の言葉にいい加減にデニスも苛立ってきた。
「どういう事情だ。魔術師か?」
「いいえ。素手で野盗を叩きのめしたとのことです。続きは夕食の席でアリスお嬢様からお聞きになるのがよろしいかと。私めも断片的な情報しか入って来ておらず、真偽を図りかねております。ただ──」
執事が眉を歪める。
「野盗たちには人間の力で加えられたとは思えないほどの傷が負わされたいたようです。あるものは殴られた箇所が1か所であるにも関わらず、内臓が全て破裂していたり、あるものは頭部を殴られた痕跡はあるものの脳が液状化していたそうであります」
執事はそう告げて黙り込んだ。
「……化け物か」
「その類やもしれませぬ」
デニスが呟くのに、執事が頷いた。
「続きはアリスから聞こう。夕食の支度をするがいい」
「畏まりました、閣下」
デニスが命じ、執事は出ていく。
「化け物か。化け物であったとしても、今は戦力が少しでも必要だ。これから先、どうなるのかまるで想像がつかないのだからな」
デニスはそう告げて中央に報告する書類を開いた。
そこには戦時に使用可能な食料備蓄の量と動員可能な戦力が記載されていた。
表題は以下の通り。
──西方オーズクン共和国の侵攻に対する防衛計画。
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アリスはアベルを屋敷に招待しようとしたのだが、彼は『もう恩は返してもらった』と固辞して、ひとり薄暗い山の中へと戻っていった。その後ろ姿は森に帰っていく狼の姿を連想させた。そのまま森の中に姿を消して、二度と戻ってこないような。
「アリス。冒険者はいい加減に諦めたか?」
父親であるデニス、母親であるエーディト、兄であるユルゲンが食卓を囲む中、デニスがアリスにそう尋ねた。
「いいえ。諦めてはおりません。今日のことでより一層、人々のために戦わなければと思った次第です。世の中には不条理が多すぎます」
アリスはデニスのいつもの嫌味に余裕をもって返した。
「今日は随分と活躍したそうだな。傭兵崩れ42名を討伐したとか」
その言葉に兄であるユルゲンがワインを噴き出しかけた。
「ち、父上? アリスが傭兵崩れ42名を討伐したとおっしゃったのですか?」
「なんだ。頭ばかりか、耳まで悪くなったか、ユルゲン」
ユルゲンは決して出来のいい息子というわけではない。凡庸だ。だが、彼が第一子であるために、アルデンヌ辺境伯家の爵位は彼に引き継がれることになる。
「アリス。本当なのか?」
「それは、その……」
ユルゲンが尋ねるのに、アリスが視線を彷徨わせる。
「アリス。助力があったのだろう。どのようなものだった、その者は」
「父上はもう全てご存じなのですね」
デニスの言葉にアリスがため息をつく。
「アベル・アルリムという方に助けていただきました。あの方はとてもお強く、拳だけで武装した傭兵崩れどもを薙ぎ倒していかれたのです。その戦いの様と言ったら、英雄物語に出てくる英雄のごときものでした……」
アリスはややうっとりした様子でそう告げる。
「なんだ、アリス。ようやく色気づいたのか?」
「からかわないでください、兄上」
ユルゲンが笑うのに、アリスが彼を睨んだ。
「冒険者ギルドで決闘騒ぎがあったとも聞いたが、それとも関係しているのか?」
「はい。“鉄腕のヴェンツェル”という不届きものが私と私の仲間を侮辱したのに、アベル殿が激怒され、決闘となりました。勝ったのは当然アベル殿ですが」
デニスんの問いにアリスが自慢げにそう返す。
「“鉄腕のヴェンツェル”と言えば、プラチナ級冒険者だろう? 本当なのか?」
「本当です、兄上。明日、街に行って話を聞かれるといいでしょう」
ユルゲンはまだそのアベルという人物が妹の妄想なのではないかと疑っている。
「それで、そのアベルという人物はまだ街にいるのか? どこに泊ってる?」
「そ、それが森の中がよいということで森に戻っていかれました」
「何だと」
アリスの言葉にデニスがアリスを睨む。
「お前は命の恩人を森に行かせたというのか? この暗く、魔物の飛び交う森に?」
「も、申し訳ありません、父上。ですが、どうしても屋敷には来ていただけなくて」
夜の森ほど危険な場所はない。夜行性の獰猛な魔物が闊歩し、森の中では自分がどこを歩いているかも分からなくなる。
「そのアベルというものは今後の予定を話していたか?」
「はい。冒険者ギルドに入られ、民のために戦うと誓ってくださいました」
そこでアリスがまたドヤッと自慢げな顔をする。
「であるならば、だ」
デニスはワインのグラスを置いた。
「もし、そのものが本当に冒険者として活躍し、このエルムトベルクの民のために戦ったのであれば騎士に任じたい。アリス、アベルというものをしっかりと見極め、しっかりと手放さぬようにしておけ」
「畏まりました、父上」
ここでアリスとユルゲンは悟った。
普通、騎士などそうそう簡単に任じるものではない。まして、森で暮らしているというようなものに騎士の地位を授けるなどあり得ない。
つまり、どうあっても騎士が必要な状況になっているということ。
それは──。
「西方の様子が不気味だ。何が起きるか分からん……」
戦争が近いということを意味する。
これは何も分からない野生児から冒険者となり、戦争の嵐が吹き荒れる前夜に騎士となり、いずれは世界最強の地位に就く、ひとりの人狼の物語である。
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