プロローグ その1
光あるところには、影もある。
正義がいれば、悪もいる。
英雄がいれば、奸雄もいる。
賢王がいれば、愚王もいる。
剣術があれば、魔術もある。
人族もいれば、魔族もいる。
勇者がいれば、魔王がいる。
そんな世界、魔族の住む国エルローレシア王国で、新しい魔王の即位式典が行われることになった。
式典には様々な種族が出席している。
そこは今でいうところのおおよそ百畳は越えていると思われる広さの謁見の間。
そのうち前部分三分の一は真っ白に近い敷布の敷かれた場所がある。
壁には龍の装飾が彫り込まれた木製の巨大な飾り物が吊られている。
敷布の上には、これまた毛並みの見事な白い魔獣の毛皮で作られているだろう敷物があった。
そこは国王と王妃が本来座る場所なのだろうか。
そこから見える残りの三分の二の部分に、所狭しと出席者が洋々な座り方で座っている。
猫のような耳をしていたり、犬のような耳を持っている種族もいる。
体が大きくて額に角を生やした種族や、人より背の低い種族もいた。
その出席者たちは皆、傷一つない鎧であったり、色とりどりの民族衣装など、立派な服装をしている者が多くみられる。
彼ら、彼女らは皆、種族の長であったり由緒だたしい家の当主だったりする。
今、数百年ぶりに魔王が交代するのだ。
皆、今か今かと待ちわびていた。
皆から見て右側の奥にある重厚な扉が開いた。
そこに遅れて現れたひとりの男性。
真打は遅れてくるものだ、というわけではなく、単純に遅刻してきた。
それはこの式典の主役だから許されたこと。
彼は背筋を丸くして猫背になって歩いてくる。
白衣のポケットに両手を突っ込んで気怠そうに歩いてきた年若い男が、絨毯の代わりに敷かれていると思われる毛皮の上の玉座についた。
その場に正座をして背筋を伸ばすが、すぐに猫背に戻ってしまう。
それでも、数十名の出席者の前だからと何とかして背筋を伸ばそうとしている。
よく見ると青年というより、少年に見えるほどの年齢だろうか。
そんな少年が、実に怠そうに口を開いた。
「あ……お集まりくださいましてありがとうございます。第百九十八代、だったっかな? とにかくこの度、魔王として即位することになりました、ヴァン・ヴァルディアと申します。若輩者ですがよろしくお願いいたします……。こんなんでいいのかな?」
最後の一言は、独り言のように周りには聞こえていないだろう。
多くの魔族の見守る中、ヴァンは酷くめんどくさそうに頭を掻きながら魔王の就任を宣言する。
今日この場で魔王となった少年は、見た目は黒い縁の眼鏡をかけた、青みがかったぼさぼさ頭髪。
若干浅黒い皮膚を持つ痩せ気味で少々頼りない感じの見た目だ。
その眼鏡の奥には深紅の瞳が見えるが、生気が宿っていないようにも見える。
今朝方家令が用意したはずの式典用の礼服を着ずに、普段着であるスラックスのような黒いズボン、スタンドカラーの白いシャツ。
その上から丈の長めの白衣を羽織った、どこぞの研究員のような恰好でヴァンは式典へ来てしまった。
そして先代魔王と違って、可愛らしい顔立ちが女性の出席者の目を引いていた。
ヴァンはついさっきまで研究室へ籠っていたため、式典が行われることをすっかり忘れていたのだった。
思い出して自分の研究室から走ってこの玉座へやってきた。
そのままの勢いで会場へ入ろうと思ったのだが、入り口で転ばされてしまった。
何故転んだかと言うと、家令に襟首を掴まれて引き倒されたのだ。
誰かと思い後ろを振り返ると、予想通り笑顔の家令が仁王立ちしており、軽々と抱き起されたヴァンは、あとで待っているお小言を覚悟するのだった。
着替えている時間もないことから、そのままの恰好で出席することになった。
それでこの体たらくだったのだが、ヴァルディア家との力関係がはっきりしているのか、そんな姿で式典に臨んだヴァンを責め立てるような者はいないようだ。
ヴァンはまだ百九十八歳になったばかりの若い龍人族の男性。
魔族領では成人年齢が種族ごとに十八歳から百八十歳とされているため、ヴァンは年齢的には十分青年なのだが、見た目はどうしても少年にしか見えない。
親族や両親から見たら、ヴァンはまだまだ子供なのだが、余計子供扱いされてしまう。
昨日『ヴァン、お前は百九十八代だから間違えるなよ?』そう父に言われたのだが、百九十八歳の百九十八代魔王、何の冗談かと腹を抱えて笑ってしまったこともあった。
それくらヴァンはこの度の魔王の即位に関しては、あまり重大なこととは思っていなかったのだ。
魔王は代々世襲制で、暫くはヴァンの一族であるヴァルディア家から選出されるだろう。
先代の一九七代魔王はヴァンの父だったが、勇者の相手で精神的に疲弊してしまい、つい先日引退してしまったのだ。
戴冠式があるわけでもなく、宣誓のみで魔王の即位は終了することになる。
式典としての時間の殆どは、各種族の族長や各家の当主による新魔王への挨拶だ。
「(あー、めんどくさいわ。さっさと終わらせて帰りたい……)」
澄ました顔の裏では、こんなことを考えてたりするのだ。
エールが贈られるわけでもなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていく式典だった。
各種族の族長たちがヴァンの前に一人ずつ片膝をつき、改めて忠誠を誓っていく。
ここぞとばかりに売り込んでくるような下賤な輩もいない。
ただひたすら挨拶を交すだけの、とても退屈な時間だった。
ヴァンは欠伸を噛み殺し、時が早く過ぎ去ってくれることだけを願うことしかできなかった。
◆◇
そこは、先ほどまで式典が行われていた魔王の城にある謁見の間。
式典が終わり、ヴァンは彼の父であるガルミナの前に正座で座っていた。
つい先日まで、ガルミナが座っていた玉座に位置する場所。
そこに座っているのは新しく即位した魔王であるヴァンだった。
そのヴァンの目の前数十セラ(セラ=センチ)先。
前魔王であったガミルナ・ヴァルディアは、息子であるヴァンに本気で頭を下げていた。
ヴァンと同じように正座をし、両手を前につき、地面に擦りつけんばかりの勢いで頭を下げている。
これではまるで、土下座をしているような状態だ。
この世界に土下座という習慣はあるわけがないのだが、とにかく頭を下げたいという意思表示なのだろう。
ガルミナはヴァンと違って、身体が大きく、太腿も太い。
そんな体格だから、正座をしていても太腿の筋肉が盛り上がってしまい、お尻が上がっていてとても不格好に見える。
暫く頭を下げていたガルミナは、包帯でぐるぐるに巻かれた己の顔を持ち上げる。
その悲惨な状況は、見ただけで納得せざるを得ないだろう。
「──ヴァン、本当にすまん。……父さんはもう疲れた。何故、我が家があの馬鹿どもの相手をする必要があるというのだ。こっちが手心を加えて、死なない程度に痛めつけて帰してやってるというのに、暫くするとまた新しいのが沸いてきやがる。こっちだって魔剣で斬られたら痛いんだよ。魔法で焼かれたら熱くて堪らないんだよ。いくら身体が丈夫で滅多に死ぬようなことがないからって、痛みは普通に感じるんだ。たまったもんじゃない……」
確かに、勇者の相手は魔王がしなければならないという、古からの約束事があるのは知っていた。
このことから、魔王はこの魔族領での王には違いないが、自分から魔王の座を狙うような野心家が出てくることがなくなったのだ。
王としての権力は存在するが、まるで名誉職のような扱い。
ヴァンも世継ぎの王太子という立場なのだが、正直魔王になんてなりたくなかった。
龍人族の寿命は長いのだから、暫くは好きな研究に没頭できると思っていたのだ。