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90:とっととこの汚い部屋を、掃除しなさい!

「ああ、それと。リーンに、ノーマを探して来てほしいと言われたんですよ。

 見覚えのある馬車が走っていったから、きっとあなたを送って来られたに違いない、と」

「ああ、それで」


 エーリが走ってきたのもそのせいか。リーンが目端のきく子なのは知っていたので、納得しか出てこない。夜も遅いからと、ロンゴイルさんの家から決して遠いわけでもないのに小型の馬車で帰されたのだ。

 おとなしく引っ込んでるつもりだったのだけれど、気が付かれていたならこそこそと隠れる理由もない。しがみついたままのエーリに半分引きずられ、半分引きずりながら二次会組の方へと向かう。


「おかえりなさい。お食事は、どうでしたか?」

『冷たかった……』

「ですよねー!」


 あの温かくない晩餐を知っているのだろう、リーンはそう言ってけらけらと笑う。

 赤ん坊は、今はクロシェアが抱えている。生まれたばかりの孫娘は、目に入れても痛くないとでも言いだしそうな目尻の垂れ下がりっぷりである。


「母上、その、赤ん坊の首はこんなにふにゃついているものなのですか?」

「あなたもこのようなものでしたよ」


 ベル君がおっかなびっくり赤ん坊を見ている様子は、赤ちゃんを初めて見るネコの動画でも見ているような気分になる。猫耳がはえていたら間違いなくまっすぐに立っていたろうに、とか思ったけれどわたしにはケモミミ属性はないので、別に萌えない。犬耳ならまた別の話だがあれは感情表現が広がるのが良いのであって、人の耳との四つ耳も抵抗ないのだが、いやそれはおいといて。

 ……孫、とはいえ彼女自身の子でもおかしくない年齢で、どうしてもわたしの感覚は一瞬混乱してしまう。高齢出産だって35からのカウントなのに、30で祖母ってのは……この世界にいる限りは、慣れていくしかないんだろうか。源氏物語の時代にでも紛れ込んだ気分だ。あれ、高校の時に古典の先生がしれっと言い出したことがずっと気にかかってる。若紫……てか紫の上が子供を産まなかったのは、彼女が幼すぎたころに手を出したからだ、なんて説があるのだとかで。もちろん、源氏物語は架空の物語だ。紫の上だって実在しない。だけど、それだけ当時から、幼すぎる子に手出ししたら、子供を産めなくなる可能性があると知られていた、ということもあるのかもしれない、と。もちろん、これは与太話だけど、と先生自身も枕につけてから話し始めたことだったが、大学で落語研究会にいたという先生の話はいろいろと面白く、わたしが古典に関しては妙に余談ばかり覚えているのは、おおむねそのひとのせいだ。授業を一時間まるまる潰して敦盛の首実検の話……熊谷陣屋だったか。それを聞いたときにはもう、ああ、盛大に脱線した。それはともかくとして。


「天使、なあ。わしには笑い話にも聞こえてならんよ」


 ヒゲジジイが、何食わぬ顔でしれっとそう言った。ただの直感だけど、わたしの中でぴんとくるものがあったので、近寄ってこそこそと耳打ちしてみた。


「あんた、知ってたわね?」

「さあの?」


 何を、と言わなかったのがジャデリクなりの答えだろう。人が悪いジジイだ。わたしがロンゴイルさんから精霊人だと判断されたとはエクドバから聞かされているだろうに、その話すら持ち出さないあたりで、たぶんこのクソジジイ、全部わかっている。元司教だから知っていてもおかしくないのだろうか、とも思ったが、現司教であるクォセミはぽかーんとしていたから、それはまた別のことなのかもしれない。


「リーン、その方が戻ってこられたからには、言うことがあるのでしょう?」

「そうでした」


 てへぺろ、みたいな仕草もこれぐらい若い子がやると似合うものである。

 母親から赤ん坊をあずかると、リーンは即席二次会場の真ん中に立つ。どうしたどうしたと、皆の視線が集まったのを確認してからリーンがえへへ、と笑う。


「みんな、聞いてください。あたし、この子に好きに名前をつけて良いと言われました」


 ほお、みたいな声がぽろぽろと上がる。

 まあそりゃ、あの赤ん坊は王の娘になるんだから、王様が名前を付けたいと言い出せばそれに抵抗することはできないのだろう。初子だというのに栄誉なのか無関心なのか、それでいいのだろうかともちらりと思ったけれど、この場は栄誉と受け取っているようなので、いいのだろう。そんなふうに悪い方にばかり考え込みがちなのは、わたしのよくない癖なんだろうなあ……。

 とかぼーっと考えながら、そのあたりに転がっていた木のカップを拾い上げる。中身は、からっぽだ。近くにやはり木製で小さな樽のピッチャーを見つけたのでごうとしたタイミングで、碌でもないことが耳に飛び込んできた。


「ですので、あたしは、この子にノーマと名付けます!」


 からっぽでよかった注ぐ前で良かった飲む前でよかった!

 だからこぼさなかったし吹き出さなかった。ああ神様ありがとう、わたし日常の小さなことでもなるべくあんたに感謝を捧げるようにするから、お願い、変なことをこれ以上起こさないでくれないかな!


「ノーマか、ノーマときたか!」


 爆笑するヒゲジジイ。


「確かにその名前は、そう聞く名前ではありませんからねえ」


 妙に納得しているゼネガン。


「ノーマ、ノーマ……ふふ、良い名前ですね」


 なんでか妙に、かつ急に顔を赤らめたアディナが、その名前を連呼する。


「天使の名前をつけること、そのものは確かによくあることですが……」


 渋い顔でわたしと赤ん坊を見比べるクォセミ司教。


「それじゃ、どっちのこと言ってるかわかんなくなるじゃん!」


 びっくりして抗議の声をあげるエーリ。よし君は味方だ後で頭を撫でてあげよう。


「そういう時は小ノーマと大ノーマで良いのでは? こっちの、姪のことを小ノーマと」

「そっか、それなら大丈夫だな!」


 と思いきや、ベル君の提案にあっさり乗っかりやがった。エーリ、お前もか。


「この母の提案ですもの、皆が納得すると信じていました」


 あんたが元凶か、クロシェアあああ!!

 他にも、時々顔をみかける神殿で働く面々が笑ったり渋面を浮かべたり、それぞれの反応をかえしているものの、誰一人反対をする者はいない。お、おまえら。


「では、この子の名前はノーマということで!」


 わー、と会場からそこそこ好意的な、一部やる気のない拍手が巻き起こった。

 他人事だと思って!!

 わたしは木杯の中に注いだ、果実を浮かべたアルコール――サングリアめいていて、飲みやすい――を一気に飲み干すと、がん! と音を立てて机の上に置いた。

 人々の目が、一斉にわたしの方を向く。


「……さてさて? みなさん。盛り上がってるところわっるいんだけどぉ……」


 目が座っている自覚はある。

 声が低くなっている自覚はある。


「あしたも朝早くから仕事のある人も、いるんじゃないかしらね?」


 つとめて明るく、ユーモラスに発音するように意識した。

 何故か、そう、何故か会場の温度が下がっていくような気がしたが、なあに気の所為よ、気の所為。


「ところで、みんな大騒ぎしてたみたいよね?

 この机やら椅子やら、普段とまるで違う配置なことに、おねえさん今気がついちゃったー☆」


 ほし、と自分で発音してやった。ほし、と。


「そうでなくても人の出入りの多い場所だし、これだけ飲み食いして大騒ぎして、この後片付けはどうするつもりなのかしら。掃除職のみなさんにおまかせするの? あら、そういえば神殿の掃除職って、解体されてたんでしたっけー?」


 ところでちょっと傷ついちゃいそうなんだけど、わたしは満面の笑顔を浮かべているというのに、どうしてみんな、引きつった笑いで下がっていくのかしら?

 わたしはそのまま、だん! と一度足を踏み鳴らして、怒鳴りつけた。


「とっととこの汚い部屋を、掃除しなさい!」


 リーンの腕の中の赤ん坊が、けらけらと笑いはじめた。

 結局その子の名前は、本当に小ノーマになった。

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