87:幸せになりたい
その晩、わたしはロンゴイルさんの家に呼ばれた。
「よく来られたな、天使――と、堅苦しいのは好きではないのだ。気を楽にしてくれたまえ。
昼はすまなかったね、即興劇は得意とみたが」
「はあ……」
気さくに話しかけてきたのは、昼と同じ王様である。だがその雰囲気は相当に砕けていて、どこにでもいる若者のようでもあった。同じテーブルの、下座……になるんだろうか。わたしが入ってきたドアに近い位置に座っているロンゴイルさんが、少し困った顔をしていた。
以前、食事に呼ばれたのと同じ部屋。その時はロンゴイルさんが座っていた場所に、今は王様が座っている。なんでこの家なのかは、来る前にアディナが教えてくれた。王様が各地に出張った時は地方領主の館を迎賓館として使う、ような感じらしく。この街だと、その役目はロンゴイルさんにあたるらしい。
「ロンゴイル卿から聞いたが、君は記憶がないのだそうだね。
つまりあれはすべてその場の勢いだと見たが、どうだろうか」
「ええ、まあ。その通りです」
嘘に嘘を塗り重ねても仕方ないが、ひと芝居打っておいたくせに記憶がないわけじゃなくて異世界人ですとか言い出せば、完全に狂人ルートだろう。わたしなら「こいつあたま大丈夫か」ってなる。それはちょっといやだ。おとなしく頷いておくことにする。
笑いだされるかと思ったが、王様は少し真面目な顔で腕を組んだだけだった。
「なるほどなあ、確かにこれは……」
なんだというのだろうか。助けを求めてロンゴイルさんの顔を見ると、こちらはわたしが何を聞こうとしているのか予想が付いていたのだろう、よどみなく答えてくれた。
「いま会話の中で、記憶……『記憶』という単語だけは、古い言葉だったんですよ」
確かに、どちらの単語も『記憶』とわたしは理解していたにもかかわらず、ロンゴイルさんの唇の動きや発音が違っている。そもそも日本語の記憶という単語とすら発音が違うらしく、読唇術ができるわけでもないわたしはミジンコの触覚ほども気にしていなかったのだが……これ、慣れたほうが良いかもしれない。変なところでそれこそまた、間諜の疑いでもかけられたら面倒なことこの上ない。
「であれば、報告も事実なのだろう。天使よ、確かノーマと名乗っているのだったか。
記憶がないのであればそれも信じがたいことなのだろうが、君は確かに、天使だということだ。
それは覚えておいたほうがいい」
「ふへっ……精霊人ではなくて、ですか?」
王様が真剣な顔でそう言った。
それは親身にアドバイスしているようにしか聞こえなかったけれど、さすがに思わず変な笑いが出てきてしまった。なんで天使確定なんだ。
「立たせたままだったな。ノーマよ、座るがよい。食事をともにしよう」
「はっ」
王様がそう言って軽く手を挙げると、部屋の入り口にいた執事的な人が一礼して外に出た。
食事を取りに行かせる、という体で人払いをしたのだと、わたしにもわかった。
「……もともと天使も、魔女も、精霊人も、同じ存在なのだ」
なんとなく予想はしていたから、その言葉そのものには、ショックはなかった。
だけど、呆然とすることは避けられなかった。
すっと近寄ってきたロンゴイルさんがわたしの前にあった椅子の背を引き、座るように促してくれたので、わたしは人形のようにおとなしく座る。お礼を言うことさえ思いつかなかった。
「精霊人が魔女になるとは、聞いたけど。天使もなの?」
「それはただの立ち位置の違いでしかない。
神に認められた精霊は、人に生まれ変わる。
その先で人に害なせば魔女。人に紛れて生きるなら精霊人。神に従って生きるならば、天使。
だが、これは高位の……それこそ王族か、縁者にそのたぐいがいたものくらいしか知らないことだ」
世間では、魔女と天使が同じだなどと知れたら混乱を呼ぶ。
だからそれはどこの国でも、王の住む館から外では滅多に話すことのない『館外秘』なのだと、王様はそう言った。
確かにわたしも、魔女が元は精霊人なのだとは聞いていたが、それはわたしが精霊人ではないかと確認していた時にロンゴイルさんから教わったことで……。
……あれ?
わたし、あのときにはもう、精霊人が魔女になるって聞いたことがあったような気がする。
誰に聞いたんだっけ?
こっちが考え込んでいる様子に、わたしが衝撃を受け止めきれていないと思ったのだろう。王様はさらに説明を重ねてきた。
「精霊人たちに関しての記録はいくつかあるが、その多くが記憶を失っていたり、かつて精霊として過ごした別の世界の話をしたという記録が残っている。君の記憶喪失もその一環なのだろう。
だが、彼らは皆、只人の枠から出るような力を持つ。君の場合はおそらく、魔法の保存だ」
机の上に転がっていた匙を、王様は躊躇なくわたしに向かって放り投げた。
突然のことだが、わたしは動揺しない。ただその勢いはあるが敵意のない投げつけ方――例えば放っておいても、これは頭にかるく当たって落ちるだけだろう――に、「ああ、聞いてたんだな」と思っただけだ。
念のために、手を前に突き出す。
青い光を放つ薄い幕が、わたしに届く前にその匙を弾き落とした。
防御の術だけれど効果範囲をうまく操れば、ごく弱いものなら弾ける。それは後から応用的な使い方として聞いたものだ。
――長い時間、かけられた魔法が持続するということ。
それはわたしの身にかけられた守護とやらが、この通りいまだに解けていないことからも明らかだった。
例の自動応答、自白団子の効果もそのひとつだ。
睡眠薬は永続しなかったのに、と唸ったが、自白団子は魔法を溶け込ませた薬、らしい。正直に言って意味も違いもわからないが、漢方薬と抗生物質の違いみたいなものだと思うことにした。つまりわたしは薬剤耐性皆無の菌。いややっぱり意味わからんな。まあいいか。
とにかく、間違いのないことは――どうやらわたしは本当に、魔女だの天使だの精霊人だの、そういう存在だ、ということか。
なんだかおかしなことになったなあ。
ため息を吐いてみるけれど、それでどうにかなるものでもない。
「それで、どうする?
天使だとしても精霊人だとしても――ああ、魔女はさすがに許さん、国の主としてそれは見過ごせない、ともかくどう振る舞おうともそれは君の自由だ。
ただ、それこそ妻になるならばその身の安全くらいは保証してみせるが」
「……わたしは……」
「今すぐ答えを出すことはない。それこそ、天使であれば神殿が聖婚で迎えたいだろうし、精霊人として振る舞うならばここのロンゴイル卿が全身全霊でもって護るだろう。ただ選択肢を増やしただけにすぎない」
「それなんですけどね」
わたしは頭をかいた。少し傷んだ髪が指先にひっかかったのが悲しくなる。
お風呂にはたまに入らせてもらえるようになったけれど、それでも毎日入浴できた日々が懐かしい。
女子力とかわたしには全然ないわーって笑ってたほうだけれど、今となっては取り戻したいと思うくらいにちょっとはあったんだなってことを痛感する。
「わたしは、今のところ誰かと結婚するようなつもりは、ありません」
「何故。既に心に決めた相手でもいるのか?
そうでもないのなら……そのような齢で、このような好条件はまず見つからないはずだが」
『いませんけれど』
怪訝そうな顔をした王様は、たぶん本気で心配してくれているのだろう。
わたしは苦笑した。
この感性の溝は、埋まりそうにないし、たぶん自分を見失わないためには埋めちゃいけない。
「わたしは、誰かの景品じゃないですから。
天使だのなんだのって、そういう属性じゃなくて、わたしを愛してくれる人を探したいです」
幸せになりたい。
それが、わたしの本音だ。別に景品としての妻でも幸せにはなれるのだろう。毎日のように磨いて飾って、自慢できるような存在であれば。
でも、わたしはそんな立派な存在じゃない。美人でも心根が良いでもない、ただのアラサーだ。
だから、馬鹿馬鹿しいくらいありえない話なのかもしれないけれど、それでも。
誰かの家族になるのなら、誰かの子供を産むのなら、その相手は自分を、自分として好きになってくれる人がいい。
あの地下鉄で死を覚悟した時、わたしが思い浮かべたのは、迷惑をかけるだろう運転士のことを抜けば、確かに養父のことだった。
血はつながっていなくても、家族であるとわたしを受け入れた人のことだった。
本当はどこまでも他人なのに、わたしの苦境を泣いてくれた人のことだった。
「……なるほど、決心はかたいようだ。
それならやはり娘の家庭教師として過ごしてもらって、その間に絆すとするか」
そう言って王は笑う。それはセクハラの類ではなく、間違いなく、ジョークとして発言していた。
わたしは肩をすくめて苦笑する。もうそれ以上できることがなさそうだ。
ロンゴイルさんが扉を開く。待機していたのか今来たのかはわからないが、豪勢な食事が乗せられた盆が運ばれてきて、わたしの前に置かれる。
えっ今日はわたしこれ食べていいのか。
おかわりもいいのか。遠慮せず今までの分まで食べていいのか。
そんな不吉なフラグまで考えてしまうくらい、豪勢だった。
なんといっても、それは王様と同じ食事なのだ。驚くほかない。焼かれた肉はしっかりと香辛料が揉み込まれたもので、脂身はあまりないが牛と鳥をあわせたような味。ただし冷めてる。
よく煮込まれたスープはほぼポトフ状態で、野菜の甘みもしっかりと感じられる。ただし冷めてる。
パンは、日本のものほどではないけれど確かに柔らかく、混ぜ込まれた木の実も嵩増しではなく味付けのためのもの。ただし冷めてる。そしてきりりとよく冷えた水には柑橘系っぽいものの汁が入っていて、口の中をさっぱりさせてくれる。言うまでもなく冷めてる。
「なんでみんな冷たいの……?」
「毒が入っていないかを検分する必要があるのだ」
「王族の食事は、こういうものです」
ロンゴイルさんまで少し遠い目をしながら、パンをスープに浸していた。




