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82:異世界、今回、お風呂回

 お湯をしっかり張って、湯船に肩まで沈み込む。

 たったこれだけのことで、こんなにも生き返る心地になるなんて思ってなかった。


「……幸せそうですね」

「そうかな。そうかも」


 うへへ、と多分傍から見たら気持ち悪いんじゃないかってくらいの笑顔を浮かべ、わたしはお湯の感触を楽しむ。そんなに大きいわけじゃない、一人サイズのバスタブだけれど、それでもやっぱり至福である。

 どうしてか一緒に浴室に入ったアディナだったが、浸かる気がないようで、濡らした布で体をこすりながら不思議そうな顔をしている。

 何度か聞いてきたことだけれども、普通の人は今アディナがやっている、お湯乾布摩擦みたいなのが体を洗うということであり、入浴の習慣がないらしい。一部の貴族には娯楽としての流行もあるそうだが、多分富豪の家のプールみたいなもんだろう。

 だが、それとは別に神殿では特別な儀式などの前に入浴をすることがある、と。そのためにこうしてバスタブが存在しているわけだ。窓は相変わらず木の板を跳ね上げるあれだけど、覗けないようにだろう、外側だけでなく、内側にも板がある。今はそれを下ろしてあるので覗かれることはないが、そのかわりほの暗く、魔法のものだろう、熱くない灯りがふよふよと、壁沿いの台の上で揺れている。

 お湯の温度を受け入れて、肌がほのかに赤くなる。もしかしたら血が足りていないせいなのかもしれないけれど、体はだいぶ冷えていたから、それだけでも少しほっとする。いや、気のせいだとは思うんだけどさ。大量に出血したら人間は死ぬ。その詳細な定義までわたしは記憶していないが、推理小説好きの同級生がこれくらい出たら死ぬ、と2リットルのペットボトルを指差したのを覚えている。正確には、とか続けていた覚えはあるのだがさすがにその先は忘れた。ただ、身近なもので示されただけになんだか妙なリアルさがあって、忘れられないのだ。


「アディナも浸かってみたらいいのに」

「……気持ち悪くなりませんでしたか?」

『いやまったく』


 バスタブから出ると、小さな椅子に座らされた。そのまま、アディナがわたしの背中を布でこすりはじめた。あの鎌みたいな垢落としは、また怪我するからダメです、と却下されたのでこの結果である。


「昔、ご厚意を受けて浸かってみたことがあるのですが……全身が締め付けられるような感覚がして、そのうえ頭がくらくらして。娯楽とされる方々は、あの感覚を楽しんでいらっしゃるのかもしれませんが、アディナには、ちょっと」

「あー、のぼせちゃったのね。あ、前の方はいいわよ、さすがに自分でやりたいかな」


 温泉を見てプールと同一視し、泳ぎたいとはしゃぐ子供は一定数いる。だが、本当に泳がせてしまったらのぼせてしまう。まあ、それ以前に衛生的にも泳がせるなという話なのでそういうのを見ることは普通ないだろうが。うん。ないと思う。いやあ、頭まで熱いお湯に浸かって泳ぐって実はものすごく体力の消費が激しくてすぐにぐったりするっていうか……はい、ごめんなさい。20年前にやらかしました。

 とか考えていたら。


「いいえ、アディナが洗います。ノーマはじっとしててください」

「はい!?」


 何を言い出すのか。あの、前に立つの、なんで。おもわず胸を隠す。いや、背中を洗うのはわりと強く主張されたので諦めたのだけれど、さすがに正面から直視されるのは恥ずかしいというか。

 アディナの顔はものすごく真剣に見える。その、ね、さすがにわたしも子供じゃないんだし! というか子供でも前は自分で洗わせるんじゃないカナ!?

 洗わせろ、自分で洗う、な少しの攻防があったりしたが、やがてアディナがため息を吐いた。


「せっかく綺麗な肌をされているのですから、それを傷つけないでいただきたいのです」


 諦めたのかと思いきや、それである。もう思い詰めたかのような口調で言うのである。


「……わかったわよ。その代わり、後でアディナもお湯に浸かりなさいね」


 結局、折れたのはわたしだった。ほら、と両手を広げてみせる。だが、アディナはどうしたことか苦しそうな顔をした。


「…………わかりました、今回は諦めます」


 あんた、そんなにお風呂が嫌いか。

 そんなこんなの結果、わたしだけがお湯を堪能させてもらって、浴室から出る。お湯を捨てたりなどは、あとでアディナがやってくれるそうだ。さすがに今の状態だと体力的に不安があったので、その申し出は純粋に助かる。

 体を拭いて、着替える。さすがに切り裂かれたのはどうしようもないので、アディナの私服を借りた。服を着込んだわたしを見たアディナが、なぜか妙に嬉しそうなのが印象的だったが、なんだったんだろう。

 浴室の片付けをアディナに任せて、わたしは司教の部屋に向かった。

 ぐったりと机に伏せるクォセミ司教の姿があった。


「……だいじょうぶ?」

「ご心配なく……」


 寝不足によるものもあるのだろうけれど、さっきまでよりはるかにげっそりした顔にはクマがくっきり浮かんでいる。囲み取材はよほど過酷だったものと見える。明らかに外面そとづら良い司教のことだ、笑顔を浮かべてのらりくらりと逃げ続けたに違いない。


「自業自得だの」

「なんでそんなとこにいるの?」


 わたしと同じ感想を持ったらしいジャデリクのヒゲジジイが、窓の外から顔をだしていた。


「さすがに追い出されたわしが、この部屋に顔を出すのはまずかろうよ」


 そう言ってあくびを噛み殺したヒゲジジイは、にやりと口の端を上げてこっちを見た。


「これでも元司教、この部屋で寝起きしていたこともある。

 だがおまえさんも難儀な話だの。そこの未熟者が適当に誤魔化そうとしたばっかりに。

 ひとつ言えるのは、聖婚する相手が、わしじゃなくて良かったなあということぐらいか」

「そのあたりさあ、どうしたもんなんだろ……」


 背の低い丸椅子に腰を掛けると、わたしも頭をかかえる。

 ジャデリクはふざけた顔を一転、真面目なものに切り替えるとわたしと司教を見た。


「……少なくとも、わしは、お前さんの事情をこいつにも説明したほうが良いと考えるが」

「事情?」


 のろのろと顔をあげ、クォセミ司教が窓の外に目を向ける。


「こんな状況で、隠しておいて意味があることでもなかろうよ」


 ヒゲジジイの言うことも、尤もだと思う。

 それを明かすことに躊躇がないわけではなかったが、わたしは、司教に自分の身の上を説明した。

 どうやらわたしは異世界――少なくとも、魔法の類が一切存在しない、文化のまったく違う土地からここに来たのだと。

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