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76:スパイだ間者だ間諜だ

 霞む視界、痛みとともに遠のき始める意識。

 いっそこのまま気を失ってしまえば、知らない間にどうにか助けてもらえるかもしれないけれど、そのまま目覚めない可能性もバカ高い。それはちょっと、怖すぎた。

 舌でも噛んだら、意識を保っていられるだろうか。舌噛みすぎて自殺になっちゃったりしないだろうな、なんてことまで思考が脱線する。あれ成功率低いらしいけど。

 そうやって馬鹿なことを考えている間にも、時々薄く首の皮が切られているのがわかる。すぐにはそんなに痛くないのに、後から後から、じくじくする。痛いというより、痒い。服が、首のあたりからじんわりどんよりと濡れていく。痛みが少ないからわからなかったけれど、出血は皆無ってわけではないようだ。朦朧とした意識だから、たぶんとかついてしまって、自分の体のことなのにきちんと把握できていない。

 もう全部忘れて、意識を手放してしまおうか。

 そんなことすら考え始めた矢先。


「おまえらぁあ!」


 助けなのか、横槍なのか。

 ともかく、それはちょっと予想外の方向から飛んできた。


「おれを、無視、するなぁあ!!」


 え、と顔をあげようとした。いつのまにかまた担ぎ上げられていたようで――それをいつの間に、とかおもうあたりでわたしの意識はだいぶヤバイことになってるんだな、と自覚した――、見上げたつもりで地面があった。その向こうに、赤鬼がいる。

 襤褸布をコントの原始人みたいに身に着けた赤鬼は、顔を真っ赤にして、口から泡を飛ばしているようにも見える。何かを振り上げながらわめいている。

 ふりまわしているのは……なんだろうあれ。よく見えない。赤鬼はそれを遠心力つけてぶん回して、そのまま振りかぶって、それはこっちに急速に接近してきて、ええっと?

 ああ、そうだ、こういう時は、こういうべきだ。


「ピッチャー赤鬼、投げました!」


 おもったよりはっきり発音できた。それとほぼ同時だったと思う。わたしの身体は地面に落とされた。

 ガン、という音は耳に届く前に直接脳の中で響く。


「あたまっ! あたまぶつけっ!!」


 わたしが無様に痛みで頭を抱えて地面をのたうつ間にも、頭の中のどこか冷静な部分が、何が起きたのか必死で情報を処理する。

 赤鬼に見えたのは、さっきの蹴り男だ。あいつが突然、叫んで走りながら投げてきたのは、手桶――片手で持てそうなバケツくらいの、木の桶だ。あれが、ケイジ(仮)の横っ面を直撃した。蹴り男とケイジ(仮)には不運だったのは、多分、蹴り男の狙いはわたしだった。こっちを睨んでいるのが見えていたから。ケイジ(仮)も、自分が狙われたのだとしたら多分、避けるなりわたしを盾にするなり、うまいことあしらっていたはずだ。ノーコンなのか手元が狂ったのかは知らないが、その結果がケイジ(仮)の手を緩めた、ということか。

 わたしというお荷物がケイジ(仮)から離れたことで、ベル君とロンゴイルさんが動いた。

 西洋の剣と同じような形をしている剣が、日本の刀のような居合の技術を有しているのかどうか、わたしはさっぱり知らない。だけど、素早く抜き放たれた剣は、いっそ銀光とでも呼びたくなるような勢いで振り抜かれた。

 ぱっ、と、赤い液体が飛び散る。ケイジ(仮)の胸元から。そして、ゼネガンの左腕から。

 何が起きたの?


「何を――」

「仕込み針です!」


 ロンゴイルさんが、自発的ではありえない動きで横向きに転がる。さっきまで彼が立っていた場所にはゼネガンの腕が、血を流しながら伸ばされている。ゼネガンが、ロンゴイルさんを突き飛ばしたのか。


「ありゃ、覚えてた? 昔と同じ手口は使うもんじゃないね」


 ケイジ(仮)が、わたしの背中を踏みながらそう言った。踏み抜くつもりだったら、とっくに骨まで折られていただろうけれど、その様子はない。だけど、こいつの胸も切られたはずなのに、どうして。

 その疑問は、ケイジ(仮)の胸からわたしの顔に赤い液体が滴り落ちたことで氷解する。

 この味は、覚えがある。

 葡萄のような味の、さくらんぼのような形の、汁っぽい実。


「アガベデジャの味だ……」

「血糊ってさあ、一瞬の油断を引き出すには、有効なんだよ」


 その間に毒針とか刺されたら、結構効くんだよねえ。なんて言いながらケイジ(仮)は口の中から小さな筒を吐き出すと、「御開帳~」などと言いながら先に鉄片がついた長い鞭を取り出し、構えてみせる。いやどうやってそれ仕込んでたの、と一瞬突っ込みかけたが、さっきまで彼が腰帯ベルトにしていたのと同じ生地だと気がついた。こいつ、どこに何を持ってるかわかんないな。それともスパイだ間者だ間諜だってのは、そういう暗器を隠し持っているものなんだろうか――って、スパイが入るとなんでも仕込んでそうな気がしてくるから、やっぱそんなもんなのか。ライター型の銃とか持ってても当然のような気がするし、指令を吹き込んだレコードは再生が終わったら自動的に爆発して消滅するのだろう。


「その女を、よこせ」

「……なに。こういう年増がタイプかい?」


 赤鬼と化した蹴り男が、猛然とケイジ(仮)に掴みかかるけれど、ケイジ(仮)は後ろ反りデンプシーロール的な動きで避けている。こういう動き方をするならわたしの背中に乗せた足も踏み込みが強くなろうというものだが、まるで体重をのせてこない。わたしの意識がさっきより気絶寸前朦朧なうだったならば、それも気の所為と思ったかもしれない。だけど、さっき頭から地面におちたせいか、意識はものすごくはっきりしている。

 ロンゴイルさんとベル君も時折剣を向けようとするものの、鞭はひゅひゅん、と自在に動き、彼らを牽制する。時折、剣を絡め取って落として見せたりもしているあたりで、たぶんケイジ(仮)はかなりの使い手なんじゃないだろうか。ただ、落とした剣を拾わせないようなことは、同時に三人を相手取っていることもあって難しいようだったけれど。


「いっそ斬り殺してしまえたら……」

「それではこの男の狙いが何か、わからなくなる。なんとか、生かして……」


 ぶっそうな会話は、焦れたベル君と、それをなだめるロンゴイルさんのものだ。


「離せよぉ、オレがノーマを助けるんだ!」

「じっとしてなさい、落ちます」


 その後ろに、白い餃子ぎょうざが見える。ちがった、あれは司教の服だ。

 じたばたと暴れているエーリを抱えている。クォセミ司教がどこからどう見ても文系とか頭脳労働系の細い男でも、8歳くらいの女の子――だと思う――をおさえるくらいの力はあるのか、なんて一瞬見直しかけたのに、直後、彼はエーリを取り落とした。


「ノーマぁぁああああ!」


 一直線に走ってくる、エーリ。

 こっち来ちゃだめ!


「あ? ガキ?」


 ケイジ(仮)が苛立たしげに、鞭を振るう。

 全身が痛い。窓を破った肩も、ひねられた腕も、落とされた頭も、悲鳴を上げている。

 だけど、このままじゃ、エーリが。

 わたしは背中のケイジ(仮)を振り落とし、渾身の力を振り絞って立ちあがる。

 振り返る。

 鞭が、眼の前で翻る。

 ざっくりと、鉄片が物を切る音がした。

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