73:子供ロケットと、松田優作
その声が誰のものかはすぐにわかったけれど、何を言われたのかはすぐにわからなかった。
わたしから離れろ……って、誰に言ったの?
一番近くにいるのはクロシェアだけど、彼女に向けて言ったのだろうか。
だけどクロシェアも、わたしにしがみついたままびっくりした顔で声のした方を見ている。
その先からは予想通り、エーリが一直線にわたしに向かって走ってきていた。
「エーリ?」
声をかけたけれど、続ける言葉は出てこない。その前に、真後ろからがつんと、首の後ろに衝撃があった。
視界が揺れて、頭の重たさを支えきれない。ぐらついたわたしを支えようとしたベル君の手が見えたけれど、その手を掴む前にぐいと後ろに引っ張られた。
ロケットのようだったけれど、結局は子供の足。「間に合わなかったか!」と叫んでエーリが急停止した。その後ろからは、ロンゴイルさんが状況を把握できないといった顔でついてきている。
ギャ次馬たちの顔つきも、さっきまでのもしかしたら自分たちが罰せられるかもしれないという悲壮感の顔ではない。呆然とした顔
動揺もせず、ただわたしを睨む蹴り男も状況がわかっているのではなく、殺してやる、と聞こえてきそうな顔をしている。
「どういうことです、これは」
ぜえはあと肩で息をしているエーリ以外、誰も状況を理解できていない。
いや――そうじゃないな。あとひとりだけ、わかっている人間がいた。
わたしを後ろから羽交い締めにして、わたしの首に何かを突きつけている人物は、何かを知っているに違いない。
「一体なんだって――痛っ」
「全員、動くな」
ゆっくりと警告を発した、わたしの後ろの人物。それはターバンのおっさんだった。見上げようとしたところで、首にチリリと痛みが走る。
思わず手を当てると、ぬるりとして、熱い。
嫌な予感がするが、見ないとどうしようもあるまい。手を、顔の高さまで持ち上げる。……赤い。
鉄さびのような臭いがする、なんて言う表現を見かけることがあるが、それは空気で酸化してから漂うものだ。こんな少量、かつ流れてすぐにはそこまで臭いものにはならない。だからほんの一瞬だけ、これはなんだ、とか思ってしまったのも仕方がないと思う。ともかく、これは、血だ。まだ新しいそれは粘性が低く、ぱたりと指の先から滴り落ちる。
「ひっ」
「その刃物を離せ」
「離せといわれて、離すやつがいると?」
短い悲鳴を上げて、息子の肩に顔を埋めるクロシェア。険しい顔をしたその息子、ベル君がターバンのおっさんにそう声をかける。だが、彼がその手を剣にかけようとするたびにわたしの首へとぐいと何かが押さえつけられてしまうので、抜くことはできないでいるようだ。
刃物、ね……。首に手を当てる。わたしの傷は、がっつり切ろうとしたのではなくて、少し切れた程度のようだ。だけど指先を切ったときのような、段々むず痒さを伴う痛みにかわりつつある。
指先の液体も、徐々に粘つき始めている。血かー。血だなー。
どうせなら「なんじゃこりゃあー!」とか言いたいところだけど……いややっぱり言いたくないな。
大量出血しながら床にのたうって死にたくねえとか言わせてくれる状況でもなさそうだし。
さっきまでのヒステリックさはどこに消えたのか、妙に冷静なターバン男に、ギャ次馬たちも戸惑っている。
「お前、なにしてるんだ?」
「そいつは魔女じゃないって話に、なったところ……だよな?」
「確かに、あの女が魔女じゃないかって、言い出したのはお前だけど。
いや、別にお前が悪い俺達はのせられただけでとか言うつもりだったわけじゃなくて」
……ふと。
そういえば、ギャ次馬たちの中から時々、妙に攻撃的だったり物騒だったりする発言が出てきたりしていた、その声が聴こえない事に気がついた。たぶん、あれはこのターバン男のものだったのだろう。
随分と調子の良いことを言う声もあるようだが、そんなのは今、誰も聞いてない。
額の汗を拭ったエーリが、顔を上げて、口を開く。
「変だと、思ったんだ。
昨日の掃除職の、揉めてた中に、見覚えのない顔、あったから。
そいつのあとを、つけて……そしたら今朝、全然違う格好で出てきた」
まだ少し、息も絶え絶えなところはあるようだけれど、それでもそうはっきりと言い切るエーリ。
無理矢理身体がそらされて、わずかに後ずさりした。正確には、たぶん、ジリジリと下がっていたのだろう。わたしがそれに気が付かず、随分な体勢になっていた、のだと思う。
それを気にしたのだろう、こっちを見たロンゴイルさんと一瞬、目が合う。ナイスミドルの目がものすごい勢いで泳いだのをわたしは見逃さなかった。少し気まずい。でもどうしてロンゴイルさんがここにいるのだろうか。エーリに引っ張られてきたのは、わかるのだけれど。ロンゴイルさんはすぐに、ターバン男を見据え――その目が、また一瞬だけ大きく動く。
「そいつが、神殿の中で何か触れ回ってた。
なんかイヤな感じがしたから、誰か大人を探して、ついてきてもらった」
そして、神殿の前でなんだかうろうろしていたロンゴイルさんを見つけた、らしい。
子供一人で変な事態に突っ込まないでくれて、良かったと思う。どこかの少年探偵団も見習って欲しい。たとえ頭脳は大人なのが二人いても、子供の腕力では限度というものがあるのだから。
だいたいこいつも、何かの犯人か何かだったら目と口だけが露出する全身黒タイツでいてもらいたいものである。そんなどうでもいいことを思い、わたしは首をまた切らないように刃物に気をつけながら――それでも少し切れたようだ――ターバン男の顔を見上げた。あれ?
「鼻の横の、ほくろが、ない?」
わたしの疑問にターバン男は答えなかったけれど、その代わり、その言葉にはっとした様子のゼネガンが、見たこともないような顔をして吠えた。
「お前は……見覚えがあるぞ、まさかお前は、私の腕を切り落とした……!」
わたしの頭のなかで、いろんなものが衝突した。
それと同時に、ぐいと身体が持ち上げられ、樽のように担がれた。




