72:抱擁と、側室
腕を捕まれて、無理矢理立たされた。とはいえ、きちんと立たせてはくれなかったのだが。
開放してくれるかとも期待したのだが、腕は膝を少し曲げなければいけないような妙な高さで掴まれ、背中でひねられたままだ。
それをしているのは――ターバンのおっさんか。蹴り男だったらそのままわたしの腕を折ろうとしたに違いないので、まだ助かったほうだと言える。さっきまでのわたしだったらそんな邪推はしなかっただろうけど、あの殺意を肌で感じた今は、確信を持っている。
クロシェアはわたしの顎を、広げたままの扇で上げさせた。
「ほお、そこな者たちは、これを魔女だ、と?」
その質問はわたしに向けられたものではない。ベル君が、母親の行動を読みきれないのか、眉間に少し皺を寄せながら返事をした。
「ええ」
「ほほほ。それは異なことを」
ぱしん、と音を立てて、クロシェアはその奥義をたたむ。片手でやるとは、器用な。子供の頃、時代劇にあこがれてあれをやったことがあるのだけど、いつも中途半端に畳みきれない部分が残って、扇子の紙がそこからボロボロになっていったものだ。あの扇とわたしが触っていた扇子が同じ構造かどうかはわからないけれど。
ともかく、にたり、という音がしそうな笑顔を浮かべたクロシェアが――は?
突然、わたしの前で姿勢を下げた。
膝をついた高さ、に、見える。
なんで?
「――この者が魔女のはずがありません。
まったく、これだから野蛮な殿方は。目が曇っているにも程があるでしょう」
こっちの目が、点になる。
何を、え、いや、助かっ、え?
自分の思考が追いつかない。一度、眼を閉じて深呼吸して、考えようとした拍子に腕が引っ張られた。
「痛い!」
「早くその手を離しなさい」
立ち上がったクロシェアが、さっきの一喝ほどではないにしろ厳しい口調でターバンのおっさんに扇を向けた。
それに従っておっさんはわたしの腕を離す――かと思いきや、膝の高さこそ楽な体勢にさせてくれたけれど、その場所が腕から手首に変わったものの腰の後ろで掴まれたまま、離す様子がない。
ただ、位置の問題か、他の人にはそれは見えていないようだ。
……まあ、疑いが晴れたわけではないから、そういう対処も仕方ないのかもしれないが。
ただ、わたしの前でクロシェアは確かにもう一度、頭を下げた。
「あなたが、わたくしの娘を助けたと、そうお聞きしました。
――亡き夫に代わり、わたくしからお礼申し上げます」
「まだ、その、えと。そんな楽観視、できる状態じゃない、ですし……」
わたしは動揺しまくって、状況がよく飲み込めていないのを全力で露呈した。
ただ、彼女がそう言ったことで、周囲のギャ次馬たちの間にわたしのそれより大きな動揺が走っていた。
「高熱の娘が、あのご婦人の娘だと」
「アムスコット夫人の、娘……? てことは」
「陛下の側室だ!」
……ぱーどぅん。
いや、もうなんかこれはもうもともと口癖なんだけど、それでもこう疑問符を付けて語尾を上げてられないこのニュアンスをわかってほしい。『側室』言いましたか今。『陛下』言いましたかあなた。もう話が大きくなりすぎて、ついていけない。クロシェアの横に立っているベル君に、わたしは真顔で問いかける。
「リーンが、側室?」
「言っていませんでしたか?」
『聞いてないよー』
発音は完全にダチョウ倶楽部のそれだったけれど、この場でそれが通じる人がいるはずもなし。
妙な発音に眉を跳ね上げたゼネガンが、口元ふるふるさせはじめたくらいだ。
笑っていいのよ? 今のこの、シリアスな空気を大崩壊させたかったら。
「陛下って、王様?」
「そうですが」
「殴ったの?」
「殴りました。妹を侮辱したので」
妹を守るという誓いがありますので。
こそこそと聞いたわたしに、堂々と返すベル君。
待ってそれ全然儀礼的なものじゃなくないか。理由があれば王様だって殴ってみせるってか。でも飛行機だけは勘弁なってこの世界に飛行機はなさそうだ。
でも側室ってことは、正妻というか王妃とかではないわけか。
わたしの疑問は、だけど即座にベル君が軽い口調で氷解させてくれた。
「後継となる男児を最初に産んだ側室が、王妃になる決まりなんです」
あああああ、なんかもう、もう! この世界、ほんとうに、頭が古くてもう!
「あなたがもし魔女だというのなら、国の転覆を狙うというのなら、王の子を産もうとする娘に出会っておきながら無事に生かしておく理由もありません。苦しむ娘を助けようとする理由もありません」
クロシェアのやっぱり芝居がかった口調は、彼女の語る大それた内容には不思議に合っているような気がしてくる。
「それでもあなたは、わたくしの娘を助けてくれた。
娘は、男児を産めませんでしたけれど――それでも、わたくしの娘。
側室は他に換えがいたとしても、わたくしの娘はリーン、ただひとりなのです」
その時、ずっとわたしの腕をひねっていたターバンのおっさんが、なぜかその手を離した。
わたしは咄嗟にそれを振り払い、逃げようとした。
その方向は、逃げやすさとか靴擦れとか咄嗟にとか、いろんなものが合わさった結果、真正面で。
そして真正面にはクロシェアがいて。
ぶつかりそうになって慌てた足がつんのめって。
――事故だと思う。
最終的には、わたしはクロシェアに抱きつくような姿勢になっていた。
「ああ……それなのに!」
彼女は、何に感極まったのか、いっきに顔をくしゃくしゃにして涙をぼろぼろとこぼし始めた。
「昨日あれほどあなたにキツイ言葉を投げかけたわたくしを!
あなたは抱擁してくださると――許してくださるというのですね!
ありがとうございます、娘を、助けてくれただけでなく……ああ、ありがとうございます!」
かろうじて発音できたのだろう内容も、やっぱり芝居臭い。でも、本心だったのだろう。クロシェアは何とかそれだけ言うと、わあわあと、子供のように泣き崩れた。
同世代の女性に泣かれたところで、胸を貸すのには慣れていない。逆にわたしにしがみついてしまったクロシェアの背中をあやすように叩くくらいしか思いつかないし、全力でわんわん泣く相手を前に、他にできそうなこともない。
ギャ次馬たちも、どうしたものかと顔を見合わせ、おろおろとしている。
こそっと逃げようとしたのもいたが、ベル君が睨みをきかせ、ゼネガンが物理的にその背後にまわりこんでいる。アディナも、どうしたものかと悩んでいるのだろうけれど、無表情系きれいな顔の佇まいは、後ろめたいところのある人にとってはまるで精神的通せんぼ。
クロシェアが泣いていたのはそんな長い時間ではないが、それでも誰もどう動けば良いかという空気の読み合いと化していた、その時。
「ノーマから離れろ!」
と、子供の声が廊下に響いた。




