67:結界と、モル計算
妹の、恩人?
ベル君が言ったことを思い返す。と、いうことは。
「リーンは!」
「もう良いのですか、ベルデネモ」
声をあげた途端、頭の上からかけられた、知った声。
はっとして、わたしは階段を駆け上がろうとしたのだけれど――。
がごん、と言う音がした。
「くおお……!」
おでこから鼻から! 痛い! ぶつけた!!
何もない場所だというのにものすごい音を立てて何か見えない物にぶつかったりうずくまったわたしに、アディナが慌てて駆け寄ってきた。アディナには結界壁の影響がないらしく、わたしがぶつかった方に回っても平気な顔をしている。ええい、忌々しい。わたしはぐりぐりと身体を押し付けるようにして、八つ当たり気味に壁の形を探る。
「……申し訳ない」
「ひょあ!?」
そう言いながら、クォセミ司教は何やら妙な形に手を動かした。忍者とかの、印を結ぶような仕草に見える。それが終わると同時に、わたしの体重が自由落下した。壁が消えたのだ。わたしは思っていたより壁に身体を預けていたらしい。
身を起こしながら、相手の顔を見て――少し、ぎょっとする。
「司教、あんた顔、真っ青じゃない!」
「ああ……寝ていませんから」
言われてから、自分の顔を触る司教が少しきょとんとした顔をしている。ああ、こいつ、あれか。寝起きが明らかに悪いのは前に見かけたけれど、睡眠不足が露骨にパフォーマンスの低下で出るタイプか。
どうせ怪我とかは治癒術だか白魔法だかでぱぁーっと治しちゃうんだろうから問題はないのだろうけれど……いや、どうなんだろ。この世界の魔力がMPで管理とかだったら、睡眠してないってのは回復されてないってことだろうから、まずいんじゃないのか? 万が一にも魔法使用が回数制限の、睡眠回復しきだった日には――いやその方式のゲームってそう多いわけじゃないけど、それこそいわゆる2大国民的RPGの片方は一作目そうだったりしたわけで。
「なにか、失礼なことを考えていらっしゃるような気がしますが」
「多分地の底から空の果てまで気のせいよ。そんなことより」
わたしの考えていたことが読めたわけでもなかろうに、なんだか微妙な顔をしてくる司教。軽く受け流して、本題を急かす。
「リーンは、どうなったの?」
「……そのことについては、私も謝らなければなりませんね。
正直に言えば、あなたが言っていることは老婆の妄言の類である疑いを捨てきれませんでしたから」
少し目を伏せて、クォセミ司教が言い出したのはそんなことだ。
「……なんか、すごい失礼なことを言われた気がするんだけど」
「気のせいですよ。それこそ、地の底から空の果てまで」
根に持つタイプはこれだから!
「とにかく、リーンのことですが、あなたの推測通り、腹部に膿が溜まっていました」
「腹部、ね」
やんわりと、彼自身の下腹部をおさえるように触りながら司教はそう言った。
男性にはない器官だけれど、その位置はわたしが(保健体育の教科書で)知る限り正確に指し示されていて、リーンの身に起きたことを考えると少し、背筋に冷たいものが走る。
赤ん坊を取り上げたと言っていたけれど、汚れた手で、直接かき回されたも同然だったのだろう。それも、切り開いた状態で。
うあぁ想像しちゃった、怖!!
「ですので、その膿を……」
そこまで言いかけて、司教は言葉を止めた。
周囲を見回し、わたしの背中の向こうの方で、さっきの騒動からずっとギャラリーしていた待合の人たちがこっちを見ていることに気がつくと、少しだけ顔をしかめ、それからわたしの後ろに回った。
あのさあ……。
「なんであんた、人の後ろに回るの好きなのよ?」
「あちらの人たちに――いえ、できれば他の人に、聞かせたくありません」
うんざりした顔で言ったのに、真面目に返されたので対処に困る。ちらりと見れば、ベル君と司教が軽く目配せし、アディナをわたしたちからいくらか遠ざけていた。
ベル君は現場にもいたのだろうから良いとして、アディナにも聞こえてほしくないということらしい。
司教はわたしの耳の傍に口元を寄せる。
「近い近い近いって」
わたしの文句はしれっと無視される。
「膿を、ジャデル翁の家に秘伝の水で洗い流し、傷を治しました」
「秘伝の? なにそれ」
「塩と、水。その他にも幾つかの物を一定の割合で混ぜるのです。そうすると、水とは違い、人の体に触れた時に痛みがありません」
水が、痛い?
一瞬だけ、何を言っているのかとわたしは混乱した。
だけど、すぐに思い当たる。
「そうか、せい――」
大きな声を出しそうになったわたしの口を、司教がぐいと押さえ込んできた。
人は咄嗟にそうやって他人の口を抑えるとかできないと思ってたんですけど、やられたからにはその考えは訂正するしかない。このとおり、できないわけじゃないらしい。というか、顎を持ち上げるような形だと確かに声は出にくくなる。そのまま口を押さえているわけね。いや、冷静に考えたわけじゃなくて、後から自分の身に起きた異常を観察した結果なんだけれど。
「お静かに。あなたは知っている可能性があると仰っていましたが、本当だったのですね」
ジャデリク。あのヒゲジジイ。
一体アイツ何者なんだ。むしろわたしはそっちのほうが気になってきた。
ヒゲジジイが秘伝の水としたのは、おそらく生理食塩水だ。鼻うがいとかを考えるとわかりやすいだろうか。プールの水が鼻に入ったりすると激しく痛いのに、専用の水とかを使うと違和感の他に痛みはない。浸透圧とかの問題らしいので、理科の実験の範疇かもしれない。高校だと生物の授業でモル計算とか言われたアレだ。あれはまるで理系でないわたしにはよくわかんなかった上に、じゃあセンター試験の生物だとそこまで使うかと言われたら怪しい難易度だったりしてちょっと腑に落ちない。あと中耳炎持ちの友人は鼻うがいすると耳が痛いと唸っていたけれど、多分それは別の問題だ。
脱線した。生理食塩水は日本では昔、簡単に買えたらしいけれど今は処方箋がないと買えない。その代わり、代用的に塩を水に溶かす方法がよく使われている。多分、ヒゲジジイはその応用みたいなことをしたんだと思う。
「数日洗い流すのを続ければ、リーンは回復する可能性が非常に高い。
私とジャデル翁は、そう見ています」
……そっか、そうかー。
わたしの肩から、なにか重たいものが一気に消え失せたような感じがした。
手動更新なので、数分ずつ遅くなっています……。アラーム、慣れてきちゃった……。




