61:結界と、読解
わたしは逃げるようにロンゴイルさんの家を後にした。
神殿に戻り、階段下のポッター部屋に行こうとしたところで、ゴン、と大きな音がした。
「なに!? なにがあったの!?」
鼻先が痛い。
手を出してみれば、指先が何かにぶつかった。
ぐいと押し込んでみても、そこで止まる。何もない空間が、見えない壁でもそこに存在しているかのようにわたしをはじく。
ノックするように殴ってみても、手が痛いだけだ。
なんで?
あたりを見回してみる。そういえば、イヌヨラズの実を持ち帰り、クォセミ司教に追い払われたのはこのあたりだったような気がしなくもない。
まさか。
「立ち入りを禁止、って、物理レベルで!?」
どうしろってのよこれ。
壁にべしべし手垢をつけながら、わたしが唸っていると、後ろから声がかけられた。
「おかえりなさいませ、ノーマ」
「アディナぁ……はいれないよぅ……」
赤い髪のメイド服を想像して振り向くと、そこにいたのは確かにアディナだった、が。
「その服は?」
「私服ですが」
「そ、そりゃそうよね、うん。そりゃあの服しか持ってないなんてわけないわよね」
わたしが着ているのとあまり変わらない、いかにもファンタジーの娘さんなデザインの服装。
そのまま、アディナは見えない壁にじゃれつこうとしていたわたしの手を取った。
「へ?」
「入れないのでしょう? 司教からお聞きしています」
『そう、入れないのよ』
「……てことはあの壁、やっぱり司教の仕業なのね!」
あの白餃子め!
唸るわたしを引き連れて、アディナは神殿を出た。
「簡単な術だそうですが、結界の応用だそうです。
言葉で制限しただけでは、そのうちあなたが乗り込んでこないとも限らないからと。
ただ、結界を作るまで、あなたの部屋が階段にあったことを忘れていたようですが」
まあ、使われてない倉庫感あふれまくってたしね。
ところで、どこに行こうとしているのだろう。聞いたわたしに、アディナが目を瞬いて小首をかしげた。
「どこに行きましょうか」
「決めてなかったの?」
「アディナの部屋も、あの階段の向こうですから」
あー。それじゃ今のわたしには進めないわけだ。
「司教にはとりあえず今日一日、あなたから目を離さないようにと言われています。
その期間にかかった費用は、後日返してほしいとのことですが、今はこれを使えと」
そう言って、アディナは何かが書かれた紙を見せてくれた。
「なんて書いてあるの?」
「請求は後日、神殿へお願いします、と」
ふうんと、読めない字を前に頷いてみる。
さっき言われたことが本当なら……これもそのうち、読めるようになるというのだろうか。
今のわたしにはさっぱり、なにかがのたくっただけにしか見えない。
あたしゃさっぱりだよぉ、とかさくらさんちのまる子ちゃんのモノマネでもしてみたいところだがあまり似ないうえに間違いなく通じないので、考えただけで実行は差し控えた。むなしい。
「このあたりが、神殿って意味とか?」
「いえ、それは請求ですね。こちらの文字が、神殿を意味しています」
受け取った紙に書かれた文字を、なんとなくなぞってみる。
その瞬間、なぞった文字がカッと光を放った。
「え、なに?」
「……?」
慌てたわたしを見て、アディナが首をかしげる。彼女には、何の異常も感じられないということか。つまりこの紙と文字は、さわると光るのか。
――いや、んなはずないわね。
おそるおそる、眼を細めて紙を見下ろす。もう光っていない。
「請求は後日……か」
紙に書かれた内容に、わたしは唸る。後日、神殿からさらにわたしに請求するつもりなのだろうか。請求されたところで、いったいどうやって支払いしろと言うつもりなんだか。
……ん?
「請求は後日、神殿まで願います、クォセミ」
紙を見下ろし、もう一度その文面に目を通して読み上げる。
間違いなく、そこには綺麗な字でそう書かれている。
それが、読めた。
「……読めた」
「はあ」
愕然としているわたしの前で、何を言っているんだろうとでも言いたげにアディナが首を傾げた。
待って、ついさっきまでわたしはこれ読めなかったんだってば、なんて説明したところでたぶん納得してもらえない。えええ、これどういうことなの。いや、さっき言われたとおりの事態なんだろうけれど。
口元をおさえたのは、今にも叫びそうなのをこらえたからだ。
これが、精霊人の判別法なのだとしたら、それはつまり、わたしは、間違いなく。
いや、そんなことより、こんな能力。
「10年前に欲しかった……!」
「は?」
そしたら受験で苦労しないで済んだのに!
英語苦手だったし! 今でも好きじゃないし! だけどこんな力があの時のわたしにあれば! テストで赤点受けて長い時間の居残りテストもしないで済んだのに!
おもわず男泣きしそうになったところをアディナが遠巻きに見ている事に気がついて、わたしは突然冷静になった。
精霊人は、この世界ではおとぎ話のようだけれど、そのおとぎ話を知る人の中でどれくらいの数、精霊人が言葉の壁を無視できることを知っているのだろうか。さっきロンゴイルさんにはキツイ言い方をしたけれど、嫁にすれば栄華を得るとか、そんなひとつなぎの財宝みたいな存在がいると知れば無理に監禁してでも手に入れる、なんて考え方の人がいたっておかしくない。籠の鳥なんてまっぴらだ。
いや――籠の鳥で済めば、御の字か。
悪い方に悪い方にと考えることはいくらでもできる。
それならば、自分がそうと知られないように生きる方法を考えるべきだろう。
……さすがに、自分が精霊人ではないと主張したところで、それを証明する方法がないことぐらいわかっている。そうとなれば、あとは身の安全を考えて、出来る限り目立たないように生きていくしか手はない。
「ノーマ。どうかしましたか」
「ああいや、なんでもないのよ、なんでも。
さて、どこでどうしたものかしら。野宿はさすがにちょっとイヤだなあ」
「素泊まりの宿なら、そう遠くない場所にありますが」
晩の食事だけは、神殿で食べていいらしい――あのあまり美味しくない料理か、と一瞬うんざりしたけれど――ので、アディナの案内に従って、寝るところだけは先に確保することにした。




