40:馬鹿な女と、電車の音
倒れている間、爽香の見ていた夢の話。
実質、1話以前どういう人生を送ってきたかの回想になります。
明日からは昨日の続き、倒れて目が覚めた後の時間に戻ります。
夢を見た。
馬鹿な女の夢だった。
その女が子供の頃、母親が知らない男をつれてきた。
優しそうな男で、実際優しい人だった。
母親はこう言った。この人に、新しいお父さんになってもらいたいんだけど、いいかな。
大好きなお母さんがはにかんでいた。
自分だけのお母さんじゃなくなるのは寂しかったけれど、母親がそれで喜ぶなら、それでいいと思った。
変わった名字の、難しい漢字の意味がすぐにわかるほど、大人じゃなかった。
女が漢字の意味を完全に理解するくらいになったころ、仲の良い男がいた。
いつのまにか、付き合ってることになっていた。
べつにわるくないと思っていた。
自分は大学に行かなかったことを後悔しているから、娘には大学に行って欲しいと母親に言われて、女は素直に従った。
それでいいと思っていた。
付き合っている男との仲も、普通に恋人だったと思う。
ただ、つきあい始めが早かったから、まだ早いよねと思ってしまって、いわゆる男女の仲になるような機会を逸してしまっていた。
焦ることじゃなし、問題ないと思っていた。
流されっぱなしで、自分で何かを決めないで、まったくもって馬鹿な女だった。
いろんなことが、成人してからマイナスに出た。
最初に働いた会社は、ある日潰れた。
給料が支払われていないことに気がついてから、すぐだった。
職場に行ったら、ドアの前に紙が貼られていて、それが倒産を知らせる書類だとわかったころには夜逃げ同然にいなくなった上司に連絡が付く人なんて誰もいなかった。
養父と母の生活に、今更ながらに水を指したくない一心で社員寮暮らしだった女は住む場所もなくした。
付き合っていた男は、女に同居を持ちかけた。
それでいいかと、女はそうした。
女は家事と、就職活動に明け暮れた。
どうせともに暮らすならと、ずっと付き合っていたんだからと、流れ作業のように買ってきた結婚情報誌の重たかったこと。
まあそういうのもひとつの幸せなのかな、くらいに考えていた。
甘かった。
馬鹿な女だった。
ドレスの打ち合わせをしようという日だったと思う。
男は真剣な顔で、結婚はやめよう、と切り出した。
家事を女がこなしている間、男は仕事に打ち込んで帰宅が遅くなっていた。
男は、そう周りに説明していた。
浮気だった。
職場の後輩を妊娠させてしまったと。
そう言って連れてこられた若い女は、二十になったばかりだった。
もうお腹は、ずいぶん大きかった。
馬鹿な女は、そうか、と頷いた。
その時に至るまで、一度もそういうことをしなかった。
結婚してからにしよう、その言葉を信じていた。
なんのことはない。本命じゃなかっただけのことだったんだ。
男はこう言った。君の名前を呼ぶ度、芳香剤を思い出して、そういう気になれなくなった。
その晩、養父が女に向かって泣いて土下座したのを覚えている。
女の名前は御手洗爽香といった。
そうだ、わたしだ。
馬鹿な女だったのは、わたしだ。
男を見る目がなさすぎて、母と養父に苦労をかけた女は、わたしだ。
暫くの間、なにをする気にもなれなかった。
そのうち、養父の会社で働くことになった。
ミタライクリーンサービスは優良な会社だったから、コネと陰口を叩かれることもあまりなかった。
『掃除のオバチャンの、御手洗爽や香さん。すごい名前だねえ!』
そう言われるのにも、そのうち慣れた。
その代わり、自分の名前が嫌いになった。
両親を安心させてやりたくて、もう吹っ切れたからと言って、結婚相談所に登録した。
でも、自己紹介を何枚も何種類も書いていくうち、自分と向き合う時間が少し増えて、ふと気がついた。
――わたし、からっぽだ。
これといってやりたいことがあるわけじゃない。
誰にも負けない磨かれた何かがあるわけじゃない。
漠然と生きていくことしか考えていなくて、あとはせいぜい、嫌われるのは嫌だな、程度。
それでも愛想笑いを浮かべながら毎日生きている自分に、ほとほと嫌気がさした。
いつの間にか、自分のことが嫌いになっていた。
そんな息苦しさは、自覚してしまえばずっしりと全身にのしかかっている重石のようで。
振り払いたくなった。ちょっとくらい思うままに生きてみても、許されるような気がした。
だからあの日の朝、帰路の電車で見かけた学生服に、声をかけたのだ。
――あんた、今タバコポイ捨てしたでしょ。
制服で吸うのもどうよって話だけど、せめてちゃんと捨てなさい――
今になって思えば、制服だということは少し調べれば学校名もわかるということだ。
学校に連絡されると思ったのかもしれない。受験生なら、それは致命傷にもなりかねない。
怯えていたのだろう。そして学生服の彼は、その日のうちにわたしをもう一度見かけた。
そこは地下鉄のホームで、もうすぐ電車が来そうという状況で。
魔が、差したのだろう。
電車のブレーキ音を、思い出した。
「だからって殺さなくっても良かったのに」
自分の声がはっきりと聞こえて、わたしは驚いて目を開けた。
「……よかった、目が覚めたのですね」
聞こえてきた低い声の方に目を向けると、そこに座っていたのはロンゴイルさんだった。
状況がよくわからなくて、わたしはむくりと身体を起こそうとする。
「無理をしてはいけません。まだ動けないかもしれない」
やんわりと、しかし強く。そう言って押し留められた。
少し待っていてください、と言ってロンゴイルさんが外に出ていくさまを見て、ここはどこだろう、とぼんやりした頭を巡らせる。やたら薄暗い……そうか、神殿の部屋だ。
寝台に背中を押し付けて天井を見上げる。
すでに知っている場所の、しかも灯りの足りない部屋では見知らぬ天井、とは呼びにくい。
それにしても――夢を見ていたのか。嫌な夢だったのは覚えているけれど。
思い出したくないものを忘れるために、わたしは強く頭を振った。




