28:アラサー・フォワード
神の賽子。その単語を出した途端、ヒゲジジイの顔が同じ眉間に皺の寄ったものながらもさっきまでのような気の抜けた表情ではなく、異様に鋭い眼光を見せるものになった。
……このヒゲジジイが、神殿で嫌われているにしても、妙な反応だと思ったけれど、わたしにはその理由はわからないし、踏み込む気もない。こっちは意識して気軽に話し続けた。
「もしかしてそれ、最初の怪我が小さくても起こることがあるんじゃない?
で、症状は……顔や体が痙攣したりするんじゃないかしら。それを耐えきったら生還、と」
「! まさか神殿に誰か、その状態の者が」
「いるかいないか、わたしは知らないし見てないわ。ただの推測」
――だいぶ確信めいた推測を、推測と呼ぶのなら、だけど。
わたしは少し憂いた顔をしていたと思う。ヒゲジジイが胡散臭そうな顔をしていたから。
「概ね、合っとる。お前さんのいた世界でも、神は賽子を振っていたのか」
「……昔はね」
「なんと!? ではまさか、あれの治療法が」
叫んだヒゲジジイの顔の前で、思い切り手を振った。拍子に鼻を叩いた気がするけれど気にしない。ただ、正気に戻ったらしく、ヒゲジジイは「あ、ああ……」と頷いてくれた。
アニメとかじゃ咄嗟に口をふさぐとかがあるけど、あんなのは現実にはなかなか無理だ。無茶だ。誇大広告だ。現実にはああいうので周りも気が付かないとかもありえない。
だけど、ゼネガンは非常に空気の読める人のようで、こっちに向かってうるさい、と言ったエーリをたしなめてくれていたりした。ありがとうあなた本当に有能。片手の人に大きなホウキ渡してうまく使えなさそうなのちょっと申し訳ないなーとか思ってたんだけどその有能さで頑張ってカバーしてください。……ホントゴメンナサイ後で何か対策考えるから。
「……で、どういうことなんだ」
「先に謝るけど、わたしは専門家じゃない。医者でも薬剤師でも看護師でもない。
だから詳しいことは何も説明できないし、どういう薬を使ってるのかを教えることもできない」
冷静になりきれない様子のヒゲジジイが、わたしを急かす。でも、どうしてもこの前置きは必要だった。
医者が過去にタイムスリップしてペニシリン作る漫画もあったけれど、わたしはあんな有能じゃない。
「だから、破傷風のワクチンの作り方なんてさっぱりわからないの」
「破城封?」
『ちょっと違う。破傷風』
嗚呼――なんて自己陶酔。
薬剤師も看護師もワクチンも、きっと相手には通じないのに、言わずにいられない。
イシャはどこだ!
破傷風なんて、ただのアラサーのポケットには大きすぎらぁ!
さっきも言ったとおり詳しいことはわからないのだけれど、ともう一度繰り返す。
「わたしのいた世界でも、恐ろしい病気とされたわ。
今でも根絶はされてないし、わたしはたまたま、一度見たことがあっただけ」
ただの偶然だ。それで苦しんだ子供を知っているだけだ。だから、後々になって少し調べたから、どういうことが起きるのかを知っているだけだ。でも治療法なんてわからない。
簡単にそう説明する。事前対策があるのかと聞かれたけど、ものすごく高度な薬を注射する、と言った時点でそれ以上聞かれなくなった。多分注射がわからないんだと思う。
ずっと、気になっていたのだ。
この世界の衛生観念の低さと、窓の小ささ、少なさ。
前者はそのまま、汚れの多さに直結する。
汚れが多いということは、病原菌も多いということ。
窓が小さいということは、換気がうまくなされていないということ。
それを誰も疑問視していないし、入浴の習慣もほとんどない。
そう、つまり、この世界にはナイチンゲールがいないのだ。
「こんなものか、ノーマ。……ノーマ!」
「あ、そうかわたしのことか」
自分で名乗っておいて忘れていた。慌ててわたしを呼びつけたエーリの側に向かう。
わたしとヒゲジジイが真剣だけど実にならない話をしていた間に、ゼネガンとエーリのふたりも、だいぶホウキモドキの使い方の要領を理解できていたようだった。
いや、ホウキのどこに使い方のコツが、とか思っちゃいけない。よく思い出して欲しい。子供の頃、掃除の時間とかにホウキで集めたゴミを、よし、と思って油断した途端に撒き散らしてしまったことはないだろうか。そのあたり、最初にやんわり説明はしてあるのだ。端折ったけど。
「こうやって、軽いゴミなら纏めてしまえるわけだから、集めて捨ててしまえば良いわけなんだけど……」
ゴミ箱、いや、その後のごみ処理とか、どうなってるんだろうこの世界。
後で確認しておくことリストが、頭のなかでまたひとつ、増えた。




