26:グッドモーニング、アラサー
とんとん、と音がした。
目を開けると、ほの明るい球体が見えた。
――なんだっけこれ。
寝起きの頭にはよくわからない。とりあえずそれに手を伸ばしてみる。
ふわりと近づいてきて、それは手の中に収まった。
ほわほわと光る、実態のない光。
まるで魔法みたいだ――魔法?
がばっと跳ね起きた。
立ち上がって天井に頭をぶつけた。
転げる勢いで扉に手をかけた。
外は、変わらず異世界だった。
がっくりと肩を落とす。全部夢だったんじゃないかと思ったのに、やっぱり現実らしい。
「おはようございます。……まだ眠っているのかと思ったところでした」
こっちの反応が遅かったせいだろう。アディナが、少し驚いた顔で声をかけてくる。
頭を擦りながら、苦笑いだけ浮かべておいた。
一昨日の夜はなれない馬車で一睡もできなくて、でももともとその前の日が夜勤で昼起きだったから平気だった。昨日の昼のあたりから、段々眠気が来ていたけど、夜まで耐えたのは覚えてる。
たしか、ええっと……そうだ、司教にちょっと意地悪な問答をしかけたんだっけ。
その後、掃除職の人たちのところに向かって、戻ってきていたロンゴイルさんの元部下っぽい人に、何人か、やる気と体力のありそうな掃除職の人を貸してほしいとお願いをして――今日、これからその人達に会うんだった。
「大丈夫よ。……ちょっと頭が痛いけれど」
「……ぶつけた音なら、聞こえました」
呆れられている気がする。
借り物の夜着からアンサンブル――ストッキングがないのでちょっと寒い――に着替えると、急いで外に出た。
そこにいたのは、ロンゴイルさんとその元部下っぽい人、そしてエーリの3人だった。
「あれ? ロンゴイルさんはどうしたんですか?」
「ベルデネモは数日、神殿で安静にしているようにと言われたのですよ。
それで今日も顔を出したところ、何やら妙なことを始めるらしいと耳に挟みましてね」
なるほど。
ということは……やる気のあるような人ってのは、つまり。
「いや、お恥ずかしながら……推薦できるような者は、あまり」
元部下さんが、自嘲気味な苦笑いを浮かべた横で、その辺りの石に座っていたエーリが服とも呼べない襤褸の裾を払って立ちあがると、そのまま服を睨んで喋りだす。
「オレたちは、この通り、人の残り物をもらって過ごしてる。これが『掃除』の、お駄賃だ」
「エーリ」
止めようとしたのか、元部下さんが困った顔をして名前を呼ぶけれど、エーリは言葉を続ける。
「生きていくだけならこれでも生きていけるさ。
文句を言える口があっても、そんなものがあったこと、忘れておけば苦しくもない。
掃除職になりたくてなったヤツなんていないけど、他にどうにかするような気力もない。
みんな、やりたいことがあっても黙って毎日、食べ物の奪い合いに精一杯だ。
……ただただ生きる、それ以外のことにやる気をなくしてるヤツが多いんだよ」
笑うでも、咎めるでもない元部下さんの顔を見れば、それが事実なのだろうことは理解できる。
仕方がないか。
でもなー。
「オレとか言わないの。女の子でしょ」
そう言って、エーリの頭をわしゃわしゃかき回してやった。
肩につく長さのちょっとボサボサ気味の髪は、どろどろに汚れてもとの色がよくわからないくらい土がついている。これは寝る場所が柔らかい土の上だからだと、昨日のうちに聞いていた。いつも昼過ぎには自分で払い落としていたらしいけれど、それにも限度がある。
ずっと思ってたのだけど、エーリはとても可愛らしい顔をしている。目が大きいのも、子供だからというより、そういう顔立ちだ。おとなになったらどんな美人さんになるんだろう。
「え……?」
あっちで何かを呟いた人の名前を、そういえばわたしはまだ知らなかった。
「あなたのお名前は?」
「ゼネガンとお呼びください、サァさん」
名乗った覚えはないけど、とわたしが少し不思議そうな顔をしていたら、ゼネガンさんがちらりとロンゴイルさんの顔を見たので、なるほど、と頷いた。やっぱりわたしの名前は呼べてない。
「サワカって、そんなに呼びにくい名前……かなあ、やっぱり」
「気にするほどでもありませんよ、サカナさん――あ」
思いっきり間違えたロンゴイルさんが、しまったという顔をする。
クンが抜けたよデコスケ野郎、いやロンゴイルさんは前髪に全然不安がなさそうだけど!
「えぇと、サーさん。私達に何をさせたいのですか?」
『掃除よ』
しれっと話題切り替えやがったなゼネガンさん。
それにしても、質問されると話が結論にすっ飛ぶのは厄介よね。
彼らにとっては昨日のあれが『掃除』なせいもあって、おもいきり怪訝な顔をされてしまった。
「ええっとね。掃除のやり方を変えたいのよ、わたしは」
取り繕うような言葉になっていないかと心配になる。
でも、とりあえずは首を傾げるだけで受け流してくれたようだ。
「できれば、服とか、体とか、洗ってもらったほうがいいんだけれど。
掃除職はそういうのを洗っちゃいけないとかのルールでもある?」
「洗うなと言われるわけではありませんが……捨てるしかないものを洗うことは無意味でしょう」
うおおぅ、心底不思議そうに言われるとこっちも困る。
「そのあたりはまあ、その内わかると思うわ。
あと、そうね……わたしのことは適当に、ノーマ・ジーンとでも呼んどいて。
ノーマでいいわ。さん付け、別にいらないから」
投げやりになったわたしが出した名前は、往年の女優の出生名。映画好きの知人から聞いたことがあった。確か本当はあともうひとつ何か付くはずだけど、まあいいよね。あんなセクシーに生まれた覚えもないし、何より勝手に名乗るくらいは許されてもいいはず。どうせ誰にも通じないんだから!
「なら私のことも、ゼネガンと、どうぞ呼び捨てで」
「自分もそう呼ばせてもらって構わないですかな」
ともかく、わたしがそう言った途端に露骨にホッとした顔を見合わせる成人男性ふたり。
そこまでか。そこまで難しかったのかわたしの名前の発音は。
少しだけ遠い目をしながら頷いたわたしは、でもロンゴイルさんのことはさん付けで呼ぼうと思った。
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