23:アラサーは二度ドアを叩く
子供は、お腹を抱えて咳き込んでいた。
まだ、この一団に入って日が浅いのだろう。服こそかなり汚れているものの、顔や手足は周りの大人達ほど黒く汚れていない。
咳き込んで、咳き込んで、それでも手に抱えたものを離そうとしない。パンの切れ端は、粉々に砕けてしまっているけれど。
その手は酷く細く、うっかりすると手羽先の方が肉があるかもという有様だった。
「こんな小さな子を蹴り飛ばすなんて、あんた、どうかしてる!」
「そっちこそなにをババアがじぶんのこと、おねえさんーなんていってやがるんだ?」
『わたしはまだ28よ!』
「れっきとしたババアじゃねえか!」
なんで異世界だからって、こんなこと言われ続けなきゃならないのよ。
もう限界。あったまきた。
「じゃあアンタはなに。わたしよりどう見ても年上よね? 骨?」
「……は?」
何をいわれたのかわからない、という顔できょとんとした男。
それを相手に、わたしはハッと鼻で笑ってやった。
「ああごめんなさい順を追って説明しないとわからない程度に腐敗していたみたいねあなた。人間なんて所詮みんな有機物よタンパク質よプロテインよ。ちょっと脳みそに電気刺激のはしった程度でエウレーカしちゃう程度の肉の塊よ。だから古くなったら腐って分解されて骨になるし土に還るし当然臭いのよ。よくわかんないなら水35リットル炭素20キログラムアンモニア4リットル石灰1.5キログラムリン800グラム塩分250グラム硝石100グラム硫黄80グラムフッ素7.5グラム鉄5グラムケイ素3グラムにその他少量の15の元素でもいいわ。適当にその辺腐らせてから自分の体臭と比較してみてくれる?」
後から思えば、我ながらひどいことを言ったと思う。
人体錬成の成分なんて当然さっぱりだろうし、そもそも何を言ってるのかわからないだろうところを差っ引けば、あとに残るのは「あんた臭いのよ」だ。
まわりの掃除職たちが、何人か俯いて悔しそうな顔をしていることにも、この時のわたしは気がついていなかったくらい、頭に血が上っていた。
「なにわけわかんねーこといってやがる!」
「ああそうね全然わかんないわよね。腐敗はじまって脳みそ溶けちゃってるもんねえ。
だから子供でも平気で蹴っ飛ばせるのねナットクー。
ゾンビのくせに何で息なんてしてるの? 二酸化炭素に失礼じゃない?」
がっと音がして、頬が熱くなった。
衝撃で少しだけ意識が飛びそうになったのだと思う。殴られたと気がついたのは、数秒の間、うまく思考ができないまま周囲の様子を見た後だった。
倒れ込むことはなかった。咄嗟に、ロンゴイルさんが支えてくれていた。
「わからないからと言って、殴っていいというわけではありますまい」
言葉は丁寧だけど、怒気としか言いようのないものを含んだ低い声が、周囲を圧倒する。
それ以前の問題として、掃除職の一団は何も言わず、ただじっと黙っていたのだと、今更になって気がついた。わたしの言葉が失礼すぎたのも、理由として皆無ではないだろう。
だけど、襤褸をまとった集団の中からひとり、前に出てきた男がいた。
「……エーリが手にしたそのパン、お前が先にぶんどったのを、見たよ」
汚れた布で吊られた片手は、極端に短く見えた。
怪我で働くことができなくなった人、ということなのだろう。
さっきまでは生気のなかった目に、光があった。
「団長。お久しぶりです」
「ああ……変わりは、ないか。何もできず、すまない」
「私はこの通り、生きております。どうか、ご自分を責めないでください」
静かに頭を下げる男の人に、ロンゴイルさんが苦虫を噛み潰したような顔で頷く。
掃除職を悪習だと切って捨てていた、その理由が透けて見えた気がした。
その男の人は、子供を蹴り飛ばした男に向き直ると、お前を衛士に引き渡すと告げた。
「蔑まれることの多い身になっても、心はまだ、おのれのものだ。
女子供に手を上げたものを見過ごしてのうのうとしていられるほど、堕ちてはいないつもりだ」
そのまま、今度はわたしの方へと目を向ける。
「あなたのおかげだ、ご婦人。
……我々の揉め事に割って入ろうなどという人は、初めて見たよ。
だが、こうも明らかな非道を見逃すようなことをしていたのでは――それでは人間扱いをされなくなっても仕方がない。すこし、目が覚めた。
ありがとう」
それでは、とわたしとロンゴイルさんに頭を下げて、その人は衛士を呼びに向かった。
少しざわめきはじめた掃除職のひとたちのささやき声を聞くだけでも、蹴り飛ばした男は素行の悪さが目立っていたことがわかる。
「牢で頭を冷やすといい。女性を突然殴打したこと、この目でしかと見たと証言しよう」
ロンゴイルさんがわたしを殴った男に向けてそう宣告するのが聞こえ、男が青ざめる。
その一方で、咳き込んでいた子供の様子も、落ち着いてきたようだった。
「もう大丈夫よ」
声をかけても、聞こえていないかのようにがつがつと、粉々に砕けたパンだったものを口の中に放り込んで、エーリと呼ばれた子供はやっとこっちを見た。
それはまるで、捨て猫の目。
お前なんか信じられるか、とでも言いたげな子供の顔に、擦り傷ができているのを見つけてわたしはやるせなくなった。
「あーあー、怪我してるじゃない。ちょっとこっち、おいで」
ぎょっとした様子で慌ててわたしを止めにかかる門番を無視し、その子の手を無理矢理引いたままずんずんと神殿の奥に進む。
そして、司教の部屋の扉をゴンゴンと、思いっきり叩いた。
「ちょっと、クマゼミ司教! いるんでしょ!
もうびっくりするぐらい役に立ってあげるわ、そのための準備をさせなさい!」
――クォセミ司教の名前を間違って覚えていたことは、今は些細な問題だと思う。




